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タイトルタイトル: 「友人の死・紙一重の生還」
名前名前: 稲福 マサさん(沖縄戦 戦地戦地: 日本(沖縄)  収録年月日収録年月日: 2014年5月15日

チャプター

[1]1 チャプター1 夢は看護婦  05:25
[2]2 チャプター2 女学校の日々  04:28
[3]3 チャプター3 十・十空襲  03:19
[4]4 チャプター4 動員  01:54
[5]5 チャプター5 看護教育  02:50
[6]6 チャプター6 識名分院壕  02:54
[7]7 チャプター7 南部への撤退  04:42
[8]8 チャプター8 学徒隊解散  12:16
[9]9 チャプター9 捕虜  10:17
[10]10 チャプター10 戦災孤児  10:21
[11]11 チャプター11 友人の遺骨  11:01
[12]12 チャプター12 忘れることのできない沖縄戦  07:46

チャプター

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収録年月日収録年月日: 2014年5月15日

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Q:生まれも育ちもここですか?

いえ、大宜味ですね、山原の。国頭郡の大宜味ですよ。

Q:だけど、学校は昭和高女(昭和高等女学校)行かれたわけですよね?

そう。

Q:それはなぜですか?

私が女学校入るつもりじゃなかったんです。毎日、子守。子守ばっかしで、弟、妹の。だけど私が最初、看護婦になりたいという気持ちがあったんですけどね。看護婦、絶対やらんて父が言ったんですよ。逃げてでも行こうかと思ったんですけどね。あとで、じゃあ学校ならどこでもいいから行かしてって言って、私立に行ったんです。そして、あれからやっぱし自分の思うとおり・・・何て言うんです、看護隊に入ってるわけですけどね。小さい、小学校っていうんかね、ナイチンゲールのあれがあるんじゃないですか。ああいう話っていうのが好きなんで、あのナイチンゲールに憧れて、それで自分は看護婦になって、やっぱし病人を助けたいという気持ちがあったんですよ。それで、どこでもいいからということで、私立に入ったんです。目的は結局、看護婦になりたいという感じ。

Q:他にも学校があるのに、どうして昭和高等女学校っていうのを選んだんですか?

いや、もう大体、畑とか親の手伝いばっかりやってるから、あんまり成績もよくないし、入れる所っていって、それで行ったんですよ。だってもう、子守ばっかしだし。ちょっと時間があったら畑に連れられていくし。ほとんど勉強しないですよ。勉強して、一度も先生に・・あんまり成績も芳しくないんだけど、一度はとってもいい成績をもらったんですよ。小学校3年の時かな。「隣のスミさんから習ったの?」と先生に言われたんですけどね。そうでもないんですけど。弟がちょっと病弱で、那覇のはままつ病院ていう所に入院していたんです。その間、おじいさんと私と2人なんですよね。それで、その間にっていうことで、予習、復習、自分はやったんです。そしたら、おじいさんがいつもそばでついてですね、夜遅くまでも。おじいさんっ子と言われていたんですけど、その時はすぐ成績が上がったんですよ。やればできるんだという気持ちはあって。それで、またまた家族がみんな帰ってきたら、結構、弟を見たりしてたんですよ。とにかく学校入れないんだったら、自分、看護婦になるって、そういう気持ちだったんですけど、父が「行くなら私立でもどこでもいいから行きなさい」って、なげやりみたいに言われたんです。じゃあ、もう行くっていうことで、ちょうど叔母さん、叔父さんたちが那覇にいたもんですから、そこに下宿したんです。目的はあっても、家庭の事情とかあれこれで、あんまり成績がもう・・・県立とかあんなの行くあれはないぐらいでしたから。うん。どこでもいいからということで。

Q:それで女学校に入ったのが何年でした?

昭和17年でしたかね。あれ、うちんところは、あれなんですよ。何て言うんですか、実業学校みたいな。成績が少しいいと思ったら、やっぱし上に上がれたんですよね。それを私は結局上がっているわけです。上がって、そこで卒業まではしません。だけど、卒業までしないけど、どうしてもね、その卒業っていうあれは欲しいもんですから、終戦後、辺土名の高校ができたんで、すぐ入ったんです、そこに。どっちかと言うと、ウソついて。

Q:女学校時代の話、聞きたいんですが、看護婦になりたいと思ってて、一応、昭和高等女学校入るわけですよね。入った時の授業っていうのはどういう感じでやってたんですか?

一般の教科書は、一般の女学校と変わりません。だけど、そこにですね、そろばん、和文タイプ、英文タイプ、それから簿記、それが入ってたんです。それはね、よその学校と違う所です。校長先生の、考えていらっしゃることは、女学校を出ても大抵教員ですよね、あの頃は。だけど、すぐにね仕事に就けるようにと校長先生の希望があったんです。それで、私たちの1期生、2期生はね、すぐ満鉄に行っています。だから、そういう特徴のある学校入りました。それで私ももう、とにかくどこでもいいから入りたいという気持ちで出ていったんですけど、戦争に巻き込まれて、そういう自分のあれは叶えられないというよりも、結局は戦争の中で、あんまり授業しないんですよ。作業をね。高射砲台作るとか、壕(ごう)堀りとか、それから夏季保育って、夏休みになると、私は高嶺の大里、向こうに配置されて、子どもたちと一緒、子ども遊ばせていたんです。それで、子どもたちは結局、農作業しない、食料増産になると、親は、あれですよね、食料作らんといけないし。子どもたちはあれじゃないですか、親にまつわると仕事できませんでしょう。それで私たちは子どもたちを見ていたんです。それは今でもその場所を通るとね、思い出します。何川って言うかな、大里の、高嶺の。今でも水が絶えないっていう、干ばつでも。そこで子どもたちと遊んでいるんです。2週間ずつぐらい、交代で。

Q:実際には入学して、昭和17年に入って、19年ぐらいから、もう軍隊も増えてきて兵隊も増えてですね、戦争が近づいてくるなという感じがあったと思うんですが、どんな雰囲気でした、学校の中では?そういう戦争が近づいてきて…

さっき話したように、学校の授業はほとんどできなかったです。学校は弾薬倉庫、日本軍の。弾薬倉庫になったんです。私たちは今の崇元寺のお寺、お寺で授業やったんですよ。で、今もう焼けてないんですけどね。入り口に、長い入り口、門みたいな所あったんです。多い時はそこで授業して、時々はもう交代でしたから、教室があんまりないもんですからね。何曜日と何曜日は高射砲台、作業、何曜日と何曜日はここで授業という。それで今はないんですけど、首里殿のぼりますとね、ここもここも休憩所がですね、宿舎の家があったんですよ。そこで勉強して、入り口でやったり、学校はもうほとんど軍に取られて、ないんです。そういう所からみんな出ていってるわけです。

西新町に下宿ですからね。まだ空襲。西新町にいて、ちょうどガジャンビラね。今日は作業だっていうこと。準備してる時に空襲にあったんです。それで行かずにすぐ、ここの近くの屋敷内に壕があったんですけどね。掘った壕が。そこに隠れて。それからちょっと軍のあれが来なくなったんです。それからずっと、辻に登る所があったんですよ。すぐそばはお墓があってね。そこまで逃げていって、途中、敵が来るとですね、道には壕が掘られているんです。誰でも入れるような壕が。飛行機が低空してくるとそこに入って、それで出ていったら、また出ていって、あれ何て言うところかな、お墓に入ってですね。このお墓から近くの、また敵が火事が・・・焼夷(い)弾落とされてますから、来るっていうことで。辻原(当時の那覇市内の墓地)ってご存じですか?そこに逃げていって、そこも2か所ぐらい変わったはずです、墓が。近くにまで風が来て、また。それでまた最後に行った所はまだ洗骨せんで、棺おけそのまま前にしてみんな座ってたんです。それから5時頃になってから、敵はすぐにピタッとやみますからね、時間になると。それから、山原のほうへ行ったんです。山原行った時は12日ですかね、10月。そこで生きながら、美里という所で、おにぎり作って待ってらしたの、組の人が。あれからずっと名護に行って、名護でも警察でおにぎり作ってる。12日の朝、大宜味に、自分の郷里に着きました。そして誰かがね、来るらしいよということを聞いたんですって、おじいさんが。おじいさんは山に隠れてるのをね、おじいさんまた迎えに来て、ちょうど村に。私も帰ってきていたんだけど。ああいうふうに10月10日・・・。そしてそのあと、もう学校が始まるからって、また出ていったわけです。

学校は弾薬倉庫、あの時。そのあと焼けてます。私たちが逃げていくまでは弾薬倉庫で、そのあともう空襲がひどくなって焼けたんじゃないですか。もうみんな焼けてました。

Q:稲福さんたちは看護隊として、入隊というんですかね。動員されるわけですよね。どこ行ったわけですか?

首里ですけどね。私が一旦もう田舎に帰ったんです。父が連れに来てるわけです。戦争があるっていうんだから、もう帰りなさいっていうことでね。帰ったんですけどね。お友達は行くのにね、私はね、当時は軍からのある程度のね、行きなさいっていうか、そういうひと言があると、校長先生もそういう気持ちがあったんです。それで、一旦家帰ってから、それから那覇に出てきて、で、叔母さんの家で一晩過ごして、軍に入ったんです。赤田の公民館、そこで一応、集合したりして、赤田の宮城さんっていう家で宿泊してるんです。それで朝は点呼、向こうで、公民館で。晩はですね、自分の泊まってる宿、宿でね、ハギハラ中尉でしたかね、その学生部長かな、あの方がいらして一応、点呼は取るわけです。そういう毎日で、結局は3月何日でしたかね、ナゲーラに移ったのは。3月の末頃だったと思います。

Q:昭和20年の2月か3月くらいから、また学校に戻って、看護教育というんですかね。

はい、少しだけ。ちょっともう、ほんとに、教育というような、そんな大した教育じゃないですよ。軍からの、石部隊(62師団)からの、軍医がいらして。軍医とそれから、何です、部長かな、何か、そういう方が交代でいらして。まあ包帯の巻き方とかね、注射の仕方とか、これだけ教えてもらいました。

Q:実際に石部隊ですか、そこへ動員されたのは、いつごろ、どういう状態だったんですか?

あれは3月の6日。6日にみんな軍隊として、やったんじゃないですかね。私が那覇に来たらですね、もう人がいないんですよ、みんな。誰からか、うちの学校は宿どこかしらと思ってね、聞いたら、分からんと言う人が多かったんです。だけど首里に行ったらね、探せるでしょうと思って行ったら、探して赤田の宮城という人の所にみんないたんで。みんなでね7名か8名。2組に分かれていましたからね。私は8班。相手のほうは7班。6班まで瑞泉でした。

Q:そこからナゲーラ壕に行ったんですか?

そうです。ナゲーラに行って、ナゲーラに入っても、そうですね、何か包帯に、梱包にされてるものを草の中に隠したり、作業ばっかしですけどね、そんな大した作業じゃないんだけど、結局は宿舎にいると危ないからということで、壕の中に一応入ってはいます。入って、そこでお友達が1人亡くなってるわけですよ。4月の29日です。

その時は私が識名に移ってからですけどね。識名に移ったのは4月の17日です。あの人がやったのは29日ですからね、何か勤務終えて、壕の中に入ろうとする時に、何か艦砲が爆発したあと、心臓に、近くに、破片が入ったんですって。それが心臓近くで、心臓じゃなかったかねって言ってましたけどね。ホースのようにね、もう血が噴き出したよって友達が言ってました。向こうには、7班には、8名かな。8班には9名かいたはずです。私たちはもう識名に行っていますから。

Q:ナゲーラから識名に行ったんですか?識名の壕に?

そうです。はい。何て言うんですか、識名は分院として作ったもんだから、そん時にはもう、兵隊と一緒に識名に行ったわけです。7班は残っています。あれにね・・・瑞泉?瑞泉の人はそのまま向こう、ナゲーラ。あの人たちはあとになってもう追われる時にちょっとだけ入ってきてますけどね。私たちはもう早めに4月の17日に向こうに行ってます。

Q:実際にその傷病兵とかですね、そういう患者さんの手当てをしたというのは識名のほうだったんですか?

識名のほうです。向こうではね、患者というのは、そんなにまで・・・。いてもですね、患者はいたんですけどね、重症患者というのは私たちはみてないんですあんまり、向こうでは。ナゲーラでは。しかし、あんまり多くてですね、壕はもうあれです、縦横無尽に穴を掘ってるんですよ。そこに寝かされて、それで、おしっこしたいとか痛いから治療してとか言うんですけどね、あんまりぎっしり寝かされているもんですからね、その兵隊と兵隊との間の隙間から、足をね、つま先立ててね、あの兵隊この兵隊へと歩いて渡って、あれしてたんです。おしっこ処理と、あんなのやってました。

Q:そうすると識名に行ってですね、識名から今度はどうされたんですか? どこかまた南部へ行くんですか?

あれからもうずっと追われどおしですもん。追われて・・・

Q:識名を出たのはいつ頃、どういう状態だったかということ・・・

5月頃、5月の29日頃だったと思う。5月の。

Q:じゃ、ちょうど首里が陥落した・・・

そうそうそう。首里陥落したということ聞いて、それでもう明日はここだということでね、すぐ出ていったんです。

Q:どこへ行ったんですか? その時。識名を出て。

識名行って、一番最初のね、あれした時の1泊かな、武富です。武富行って、武富もいっぱいなんですよ。兵隊もいっぱいでね。あそこお墓なんです。お墓の入り口はそのままであったんです。それからこう入ってですね、中は広いんです。普通のお墓じゃない。昔からの、納骨場所とかいうふうな聞いたんですけどね。そこにたくさん兵隊がいるんですよ。そこに1泊して、それから向こう、何て言うんですかね、伊原。真壁の向かいのですね、山がありますでしょ。そこ行って、明くる日にね、そこでずっともう勤務するかと思ったんですけど、何名かもう選抜されてですね、向こう行きなさいということでまた戻って、阿波根行ったんです。阿波根行って、そこはもう武部隊(9師団)がいたらしいんですね。そこ武部隊が対岸に渡ってあと、空いた所を利用してるわけです。石部隊が。雨降りでもう本当に泥だらけの中でしたけどね。明かりもなくって、一応入ると、右にも左にも、案内の道があるんですよ。道路が。こう右に行ったら、また左に行って、また右に行って。最初は明かりを兵隊が持って連れていったんですけどね。出ようにも出られないんですよ。明かりがないから。一本道ならいいですよ。こうこうこう行くんですからね。どうしようどうしようって、地べたにそのまま寝るも、冷たい地べたが。それでご飯も何にもない。ハヤナ上等兵という方がですね、識名でね、一緒の方なんですよ。その方がちょうど阿波根にいらしたんで、私が来てるっていうこと分かったんで、私と大城キヨさんという人、戦死していますけど、2人呼ばれてですね、「ちょっと来い」って言ったんです。行ったらね、「お前らね、おなか空いただろ。おこげだけあるんだけどね、これしかないから食べれ」って言ってね、おこげを持ってきてくれたんですよ、飯ごうの。おかずがないということで、粉みそ、ご存じですか?粉みそを何かに入れてですね、粉みそを付けて食べたんですけどね。この人にはとても助けられました。そのあとすぐまた伊原のほうに。何か一旦、識名から行ってですね、伊原に行って、明くる日また阿波根に行って、阿波根からまた近くまで敵が来てると言うんで、また伊原に戻って。もう4~5日、行ったり来たりばっかして。

Q:ということは、もう傷病兵の看護とか、そういうのはできない?

もうもうない、できないです。できません。もう大体、傷病兵をあれする所がないですもん。そのあと、米須の大きな壕があったんです、自然壕。そこにはもうみんな石部隊集結です。元気な人も看護婦、学徒隊、傷病兵、みんな一緒なんです。解散したのが19日でしたかね。

解散したところで、どこへ行こうかという迷いが出てきたの。たださっき私話したように、南部の地形が分かりませんから、そして生きているよりは死んだほうがましだったということはみんな言ってます。なんでそこまで使ってから、そこで解散して、無責任にもね、どこでもいいから出ていきなさいって。それ言われたら無責任としか言えないんですけどね。だけどあの時は、今考えると兵隊もね、言えなかったんじゃないですか。あっち行きなさい、こっち行きなさいって。前は軍艦で、後ろは敵。だからもう自分の行きたい所行きなさいっていう格好です。それが前に一応ね、伊原で、1回は解散しています。解散して伊原の部落まで行ったんですけどね、あんまりもう曳(えい)光弾が飛んできて、みんな伏せて、そしてもう行く所ないからどうしよう、また戻ろうということでいったん戻ったんですけどね。おおもとの伊原の壕に。その時に、私たちの知ってる人はそうでないんですけど、誰かがね「いったん出ていってからまた戻ってくるか」と言われた人がいるんですって。私たちは、その兵隊たちはとっても人がよかったから、だからそんなこと言われませんけど。だけど、一時は伊原の壕にいました。あの攻撃は大変でしたね。目の前の真壁の向かいまで来てるんです。その時にね、上のほうにワタナベ中尉って方がいらしてですね、その人と一緒に私たちいたんです。兵隊2人か3人と、当番兵と。沖縄の人なんです。あの人は仲里でしたからね。それで私たち、何名かね、10人ぐらい。こう奥行きがないんです。長い所にいたんですけど、その時にワタナベ中尉がですね、「お前らね、髪も洗ってね、きれいに着物も洗濯して、体も拭いてこい」て言われたんです。ちょうど7時から8時までは弾こないんです。その間に行ってこいと。「僕が芋炊くから、お前ら行ってこい」って。で、洗濯物を持ってですね、川っていうかちょうど田んぼに水があったんです。そこに行って私はまずあんまりシラミが多いから、着物から頭からシラミが多いから。まず頭から洗っていった。せっけんつけて。やってる時に後ろからたたかれたんです、棒で。見たら日本兵なんですけどね。「貴様らはね、敵がそこまで来てね、なんでね、わざわざそんな所で洗濯したり髪洗うか」ってムチを上げたんです。その時はもう洗濯物を洗濯せずに、そのまんままた壕に戻っていったんですけど。ワタナベ中尉がですね、「どうしたの?」って。「いや、中尉殿、たたかれました」と。「あっ、じゃあ僕が悪かったな」と。「芋炊いてるから芋食べれ」ってことでね、とってもいい方でした。一緒に行ってですね、8時の攻撃が始まるんです、8時から。その時、集中攻撃で、ずっと畑の向こうからね、ポンポンポンポンポンと一発来ると、ずっと向こうのほうから私ん所で当たるんですよ。その最後の弾がね、私ん所、落ちたんです、迫撃砲が。その時、私の所は落盤。その前にも落盤になってるんです、私は。一時、意識なくなっていたんですけどね。もう1人のナカザトさんがね、この人が早めに逃げていってるんです、下のほうに。「浜本(稲福さんの旧姓)、お前ね、今頃何してるか」って言うから「いや、私、今意識戻したんですよ」って。ワタナベ中尉が亡くなって。即死したから、ちょっと埋めてこようねってことで、何か毛布で覆ってですね。それで私の手、引っ張って。入り口が倒木でですね、その木がいっぱいで道がなくなってるんです。だけどナカザトさんが手引っ張ってね、下の壕まで行ったんですけどね。その時にはもう命拾いでした。このワタナベ中尉でしたかね、もう1人の下士官だったかしら。「お前ね、米入れる袋縫いなさい」っていうことで、ちょうど10センチぐらい縫ったところにやられてるわけです。ここのお米も少しはもらったかもしれないね。何かちょっと私、逃げる時、服にちょっと入れているような気がしたんだけど。下に行ったらですね、瑞泉の人たちがみんなね、やられて、そこにみんな集まってるんです。あのミチコさんたちも一緒でしたって。で、そこに兵隊やらね、朝鮮じゃなかったかね・・・の兵隊もいましたけどね。軍属。そこでもう今日はどうするどうすると言うでしょ。もうここから逃げないといけないんじゃないということでね。そしたら、晩になったらですね、また集中攻撃が始まるんです。そして、私のお友達がですね、島袋さんという人が「私準備してるからね、浜本さん早く準備して」って言うから。この人が入り口に立っていたんです。そして、ちょうどイトウさんていう方がですね、胸貫通されてるんですよね。その人が… 「浜本、お前ね、俺にね、注射打ってくれ」って言うんですよ。「私できません」って。「できないってお前、僕はこのままね、苦しいんだよ」って。「モルヒネ、これを打つとね、僕は静かになるんだよって、打ってくれって言う。2回も3回もね。断るんですけどね。「じゃあ、お前打たなければ僕自分で打つよ」っていうことで、カンフル取ってやろうとしてるの。じゃあ、こんなならと思って私、カンフル取って、どこに打っていいか分からないけど、結局、腕かどこかに打ったはずです。そしたら、そのお友達がですね、同級生の島袋さんという人がですね、「浜本さん、私、やられたよ」って言うから、見たらですね、足・・みたいになってるの。本当にね、肉のほんの少しだけかかってるんです。それで痛いからね「縛って縛って」って。止血しなさいって言うんですよ。止血したってどうにもならない、もうほとんど切られてるもの。気休めに、朝はね、こん包があったんですよ、ガーゼこん包。これを私みんなに配っていったんですよね。たくさん持ってきて。で、ほどいてそれで止血したんですけど。止血してもどうにもならない。気休めなんです。もう骨も全部やられてるもんですから。そしたら、「おばあさん、お兄さんの所に行きたい」って言うんですよ。

あまり痛さに耐えかねて、亡くなった自分の身内のことを言って、自分はあっちに行って亡くなってるから、自分も早く死にたいってことでしょうね。私、止血してですね、これも気休めなんです。それでそばにいた瑞泉の人ね、町田さん(町田ヨシさんか町田ヨシ子さんだと思われる)っていうことを私、聞いたんだけど、この方はねお尻全部えぐられてんの、後ろ。その人もすぐ倒れたんです。私とお米を分け合ったイトウさんは胸貫通なんです。周囲全部やられて、私はどうもないんです。それでもう、どうしようって。ちょうどね、朝、落盤でやられて、運ばれてきたヤマガワさんっていう人がそばに寝てたんですが。この方は私、同級生なんです。あれも7班かな。それで目は開いてるんですけど、意識はほとんどないんです。目だけキョロキョロしてるんですけどね。私、この人はどうしよう、もう逃げていくにしたらね、この人ほったら、あとどうなるか分からん、どうしようどうしようと思いながら、逃げないと敵がそこで。逃げないといけないんですよ。それでもう、イトウさんが「じゃあ、僕に注射打ってくれ」って言うから、この人に結局はもう皮下注射で。自分で持っていたんです、モルヒネ。注射して。あの日、そうしたら、ヤマガワさんが島袋さん、「私もやって私もやって」って言ったんです。そうしたら、そのヤマガワさんという人は朝やられて運ばれてきて、本人が意識あんまりないんです。目だけ開いてる。それで出ていく時にですね、どうしよう、ヤマガワさん、こう持てないんですよね、坂登るのもね。私は女の力というのは知れたもんですからね、連れていくわけにはいかないんですよ。それで「ヤマガワさん、ヤマガワさん、この芋食べてね」ということで、ちょっと芋があったんで1つの、見つかったんですよ。それみそ付けてですね。おみそもたぶんみそが余ったの、民間の人がそこに置いて。みそ付けて、この人の手に渡したんです。「あんた、これ食べてね」って。そして私はそのまま出ていって、もうどうせ亡くなったはずと思ったんですけどね。戦後、ヤマガワさん生きてるっていうのを聞いてですね、もうお詫びのしようがなかったです。もうどうして話していいか分からなくて、「あんた、あの時のこと分かる?」と言ったら、分からないって言ってましたね。

Q:あのおばあさん、お兄さんの所に行きたいと言った人はどうなったんです?

だから亡くなったんです、すぐ。

Q:もう1人、こうお尻をえぐられた人っていうのは?

あの人は瑞泉の人。

Q:その人はどうなったんですか?

あの人はもう即死状態ですよ。すぐ亡くなった。それで結局は島袋さんが亡くなって、松田さんでしょ。それでイトウ上等兵ですよね。ヤマガワさんは生きていたけど、もう放っていったよ。結局は中尉さんに台湾かどっかの軍属も1人、亡くなったんです。周囲はこういう状態で生きたのは私とコミネさんと、沖縄の新兵、3名がここで生き残ったんです。で、山をつたわって、米須に逃げていったんです。

19日に解散になってもですね、私など山原の人(大宜味村は、北部なので山原・やんばると呼ばれる)は、その地形がどう行っていいか分からないんですよ。向こうの人ならね。ここを出ると、どこへ行けば、どこになるということは分かりますけど、分からないもんで、どうしようどうしようってもう、そこで立っていた時に・・・月夜なんです、とっても。とってもきれいな月でね。人の顔もはっきり見えるぐらいのあれでしたから、私、識名にいた頃のマスダ兵長という人がちょうどそこにいらしたんですよ。「兵長殿ね、とっても私、水が欲しいんだけど、水持ってないんですか?」って、「持ってない」って言うんです。知ってる兵隊をずっと回って水求めるけど、水がないんです。それで一晩ですね、その時、明くる日でしたかね、一晩、しずくが落ちるんじゃないですか。座っててもういっぱいなんですけどね、あんまりもうのど・・・ご飯食べたいということはまずなかった。水が欲しい。それで、飯ごうの蓋をね、こう頭にやって、ずっと明け方まで。ポトンとしたら、みんな跳ねるんですよね。朝になって、舌の先だけ濡れるぐらい。私は今にも死にそうだからということで、この壕をね、ちょっと傾斜になってるんです。あっち行ったりこっち行ったり、帰ってきたりして、「水持ってないですか、水持ってないですか」って、誰も持ってないって言うんです。そして、誰かが、「私、水飲んできたよ」って言う人がいたんですよ。そしてずっと下に行ったらですね。大きな・・それがいっぱい、泥田なんです。泥でもいいから飲もうと思ってね、すくって飲もうとした時に兵隊が「お前、これ飲むとね、おなか壊すぞ。晩まで待て。晩になると、こっち出た水があるから、待っとけ」と。もう兵隊にしかられてまた戻ってですね。もうどうにもたまらないんですよ。もう何かね、浜辺のほうに米須のずっと海岸のほうに水が湧くということをみんなに言って向こうに行ったんですよ。行った時に、ほとんどの人もう出て、もう水飲みに行っていないんですよ。で私立っている時にヨシカワさんという兵隊が、出て向こうの海岸へ行こうとしてるんです。「ヨシカワ兵長、私連れてって」って言ったら、「うん、後ろからついてこいよ」と。その水飲みに行く時に、ちょうどね、途中でですね、私を通せんぼしてる人がいるんですよ。見たら、このマスダ兵長になってるんです。私と水の約束した。兵長殿にね、「約束したのにね、なんで連れていけなかったの?」と言うんで、お前の水くんできたけど、飯ごうにいっぱい水くんできてね、「お前、全部飲め」と。それで足りないから行きますと・・まあ、足りないからというより、せっかく人がくんできたものを私飲むわけにはいけないという気持ちがあったの。命がけで行ってるんだから。「私行きます」って。「お前が足りなければね、もっとね、僕がくんでくる。これ飲め」と言って。もう本当に飯ごうの半分飲みましたね。あの時にね、ああ生きてるという気持ちになりました。そして「兵長殿ね、どこへ行くんですか?」って言ったら、もう、敵・・・越えてどこか行くって言うんですよ。私は国頭だから、「兵長殿、連れてってください」と言ったら、後ろからついてこいよと言うんです。一旦壕の中へ入って、道具を取って、出たらもう兵長いらっしゃらないんです。みんなもう出ていって。もう、どうしようどうしようと思ってる時に友達が一緒になってですね、そこからもう逃げていって、摩文仁の大通りにまた来たんですよ。そして、夜明けになると敵は来るし、前は海で軍艦が真っ黒に島みたいになってるし。この後ろは敵ですよね。ここにいたら、もう死ぬのは決まってる。だから、どうしようどうしようと、友達も一緒にいる時に日本兵が溝に入ってるんですよ。それで、入れてくださいって言って。お前1人ならいいだろうということで、ちょうど入り口と出口の所、石を積んで塞いでいたんです。私1人で縮こんでいたら、前にいたお友達3人かな、4人、「浜本さんどこにいるの?どこにいる?」って言うから、「言わんで言わんで、おいでおいで」って言ったら、1人は入れたんです。「あともっと入れると殺すぞ」って言ってね。短剣、その石の間から突きつけるんですよ。もうそれならもう大変だ。だけど、この兵隊たち、朝、明け方になって出ていったんです。その時に「じゃ、おいでおいで」って言って、中に入ってですね、壕の排水溝の中に、そこで一晩かな、二晩、そこで過ごして。その時に今言う問題のあれ、何ですか、長崎じゃなかったかね。女の人たちが一緒にいたんです。女の人たち。・・て言うじゃないですか。慰安婦。

その人たちが3人か4人、入ってきて、一緒にいたんですけど。捕虜になったのは、そこなんです。その時に絶対死んでもいいから、絶対出ないでおこうなって言って。出ないつもりでしたけどね、この人たちが「もう出よう出よう」って。敵が「出てこい出てこい」言うもんだから、この人たちが出ていってしまったんですよ。それでもう、どうしようどうしよう思いながら、座ってる所をですね、前に中に入ってた人たちがきび食べてね、クッションみたいにうずたかく、きび殻があるんですよ。その人たちはさっさと出ていって、私たちはあんまりのどが乾くから、腐れたきび殻をですね、若いからまだ歯があったから、節・・・節は捨てられてるんです。節を拾ってかんでいたんですけど、その時にちょっとしたほのかな甘みがあるんですけどね。「ああ、甘い」。そういう人の気持ちで命落とさんで生きてきたんじゃないかと思います。そこで、それから敵が、前は何ですか、軍艦がいっぱい。後ろは敵ですがね。挟み撃ちみたいになっていったわけ。もうそれで出ないといけないからということで、出ていった時に、1人出た、2人出たというふうに、米軍が呼んで笑ってるんですよね。もう手りゅう弾持ってたら、もう本当に投げてやりたいという侮辱感、感じましたね。出ていく時に何かポケットに持ってるらしいね、米軍は。ビスケット。ビスケット持って、「はい、食べなさい」とくれたんです。あちこちから避難民が出てきて、たくさんになったんです。子どもも大人もみんな。その人たちはみんな食べていたんですけど、私たちはね絶対食べないと。「食べない」って言ったよ。毒入っているかなというふうな、私が思ってたんじゃないですか。自分が一応食べて、食べて、「大丈夫だよ」というふうな格好でね、またくれたんですけど、それでも食べませんでした。そこで捕虜になって結局は具志頭行ってずっと・・まで最後は行ったんですけど。

Q:それで、最後 アメリカ兵に捕まってですね、そのあとどうなったんですか? どこへ連れていかれたんですか?

百名です。最初はあれしたのは、具志頭。具志頭で1泊しました。そこはいっぱいで。捕虜になった時はですね。こんなにたくさん人が生きているのかなと思うぐらい。一旦、向こうまで行って、海岸の所まで行って帰ってきたんだけど、その時もちょうど海岸に降りる時はですね。右側がアダンやらユウナというのが青々と茂った所なんです。左がですね、牛島中将閣下の自決なさった、そこなんです。この間、そこまで行ったんです。だけど軍艦がいっぱいで、もう行ったってね、もうどうにもならないから、もう帰ろうということで、また戻っていったのが、排水溝まで。

最初、具志頭に行きましたよ。具志頭に行って、1泊して、それから百名に行って、百名から私はコザに行かされたんですよ。コザ。

Q:コザで何したんですか? コザ行って。

孤児院、孤児院。コザの孤児院。コザの孤児院です。孤児が集まってたから、そこにね、ひめゆりの人も一緒なんです。百名から。ひめゆりの人も一緒になって、コザの孤児院で、しばらく子どもを見てました。

Q:子どもたちの面倒見たわけですか?

そう。はい。

Q:どんな思いで、子どもたちの世話してました?

どんな思いと言うよりも、子どもたちがかわいそうでね。で私、最初、子どもたちに言ったんですよ。お母さんはいなくってもね、私にはお姉さんでもいいし、お母さんでもいいし、おばあさんでもいいから、とにかくそういうふうに呼んでいいよと言うような、子どもたちには最初言ったんです。子どもたちと一緒にいる時。最初はですね、行ってじきは小さな子どもです。着る着物、着替えもなくて裸の子どもたち。あとになって5年生見てるんですけどね。子どもたちがね、もう着替えもないんですよ。8畳ぐらいの部屋を4つに区切ってですね、マス状態に、そこに何名か寝かすわけじゃないですか。裸。この子どもたちが1人、うんこしたりしっこしたりしますでしょ。これ、一緒のマスの中にいる5、6人の子どもたちみんな汚れてしまうんです。朝は、この子どもたちに浴びせるのが最初の仕事です。それで、ご飯食べる前に一応、子どもたちきれいにして、あれしたんですけど。子どもたちはね毎日毎日、何名か亡くなっていくんですけど、それは庭にむしろと言うよりは、昔、ヌクグーというのがあったじゃないですか、大きいの敷いてたんです。暑いから子どもたちが部屋から出てきて、夜露に打たれるわけなんですよ。打たれて亡くなってるのが、毎日5、6名は亡くなっていましたね。着替える着物もない、おなかこんなですよ。もう栄養失調で。そこからアメリカがですね、米軍がミルクの中にビタミン入れて、子どもに飲ましたんですけどね。ああいうことは日本人はやらないはずですよ。物の豊富なアメリカだから、それはやってると思います。

この子どもたち、一応見て、それからあとに学校、第四小学校ってできたんですけどね。ある時ね、ひめゆりのナカザトマサエさんという人、この人と私と一緒に組みしていたんです。あの人は以前教えるほう、私は子どもを見るほう。5年生見ていたんですけど、私はちょっと早めに帰ってたんですけどね。それで帰る時に、この子どもたちがとても懐いてですね、子どもたちは幽霊話ってよく興味あるんじゃないですか。あっちの真玉橋の幽霊とか、あちこちの幽霊の話してやったら、もう子どもたちが集まってくるんですよ。「浜本先生、また幽霊話聞かして」って言うんですよ。もう話も尽きてしまってですね。もうあとは作り話になるわけですけどね。私が帰る時は・・・子どもたちの中にですね、1人ボスみたいな子がいたんです。今でも元気でいる。だけど、統制取るのはこの子ども。この子どもはどっちかと言えば、誰かをあれする時の、統制するもそうだけど、その子どもをあれするのも、やるのもこの子。・・って言うんですけどね。その子どもに言うと、「じゃ僕が言うよ。僕が言ってやるよ」というふうな格好のね。で、1人の子どもがですね、あの子、具志頭の子どもでしたけど、「浜本先生、僕ね昨日もたたかれました」と言うのよ。「水くんできなさい」と言ったら、みんなやらずにこの子どもだけやってる。よくやってきてくれたんです。そして、「お前ね先生めーさー」ってみんなからたたかれたんですって。それで私もうこれは証拠を見ないとね、子どもに言いつけできんからということで、遠い所からそれを見ていたんです。やっぱしたたかれてるわけですよね。夜寝る時に、その子どもの中に私行ったんです。寝たんです。実際やっているかやっていないか証拠見ないと、子どもをしかれないからと思って。それで子どもたち何名かね、今日も、外に出てやろうねっていうふうに話ししてるんです。で、1人の子どもがね、「浜本先生、こっち見てるんだよ」って言うの。生徒の中に私寝たんですよ。そして足の裏くすぐったりね、脇っ腹くすぐったり、もう我慢する、頑張って絶対動かない、私は。浜本先生寝てるよ、だからその時にやろうと、外に出ていくんです、子どもたち。その出ていく時に私がこっそり出ていって、「あんたたち何するの」って。「何かやるわけ?」って言ったんです。それで散ってしまったんですけどね。うんと私がしかりましたね。怒ってやったんです、この子どもたちを。1人2人の子ども、私、ビンタしたと思います。あんまりにもういじめすぎて。その子どもたちがですね、私が山原に帰る時に、「今日はね、私帰るからね、みんなで元気でね。また郷里帰ったら、お母さんお父さんの顔を見たら、またここ来るから、それまで元気でいてね」って言って、諭したんです。そうしたら子どもたちが絶対帰さん、絶対帰さんってね。「浜本先生をね、みんなで柱にくくろう」って言ってね、うんと動かない。時間、7時っていう時間が来てるんですよ。辺土名に行くトラックがあるということで、叔父さんから聞かされて。そうしたら、この子どもたちが絶対帰さんって、くくろうと。また行ってから帰ってくる。親の顔見ないといけないでしょということで、子どもたちが放してですね。またその集合所に行ったんですよ。行ったら、そこにね、女の子どもたちがですね、2人、ホカマさんと… 3名でしたかね、ノバルさん。3名の女の子ども。この子どもたち主要的な子どもたち。この子どもたちがね、「浜本先生、おにぎり持ってきた。おなか空いてるでしょう。おにぎり持ってきたよ」って言って、こんな大きなおにぎり2つ持ってきてですね、「これ車の中で食べてね」って、「おかずがなかったからね、お塩を持ってきたよ」って。持ってきたんですよ。もう涙が出るくらい。この子どもを愛着感じて、もう帰りたくないという気持ちでしたね。だから一旦行ったら、もう帰れなかったんですけど。で、そこでね、叔父さんともばったり会ったんですよ、こちらの孤児院で。で、叔父さんは県庁に勤めてる人たちが調査物をしてる時にずっとずっと、あちこち調査しに行ってるわけですよね。私、孤児院の子ども連れて、病院に連れていったんです。病院に行く途中にですね。男の人だけの集合所があったんですよ。そこに1人の人がね、ヤマザトさんっていう県庁職員ですけど、「マサ、叔父さんどこにいるか分かる?」って言う。「叔父さんは南部に逃げていったらしいけど、もう死んだはずよ」って言って。「いや、叔父さん生きてるよ」って言うの。へえってビックリしてですね。「あんた、どこにいるの」って言うから「孤児院にいます」って言ったら、子どもたち連れていって孤児院に帰ったあとにね、孤児院の裏のほうで待ってたんですよ。ずっとずっと向こうから叔父の歩き方というのは特徴があったんですよ。白い帽子と上着着て、ずっと向こうから来るのを見てて、2人か3人の人。あれ、叔父さんだね、会ったら何と言おうと。それで裏口でずっと待ってたらですね、だんだん近寄ってきたら、私の姿見てるんですね、叔父さんが。ちょっと叔父さんが立ってるんです。本当にまさかね、人違いかねって、叔父さん、もう立ってるんです。だんだん近寄ってきてですね。そしたら、叔父さんが「お前、生きてるのか?」って言って、もう叔父さんも私も泣いてね。身内が1人できたということで、大変うれしかったです。叔父さん、もう山原全滅っていう話もあるから、じゃあね家借りてね、もう一緒に住もうねということだったんですけどね。山原から、また逃げてきてる人がいて、うちの家族は全部元気だということを言って。「じゃお前 帰れ」って叔父さんが手続きして、山原帰ったんです。

Q:稲福さんみたいに看護婦になりたいという人もいただろうし、まだ若いですから、皆さん友達も含めて、将来こういうのになりたいとかね、いろんな希望とか夢あって、女学校入ってきたと思うんですが、多くの人が亡くなりましたよね。

そうです。

Q:そういう亡くなった人たちに対して戦後はどういう思いがあったですか?

結局はみんな元気でいたらね、お互い結局は結婚して子どもできて、今でも集まってるんですよ。生き残った人は。そして自分の子どものことを、孫のことを、今頃になってみんなおばあさんですからね、集まって話ししてたんじゃない。誰々亡くなって、かわいそうだねっていうふうに。そう思うんですけど。識名でですね、さっき私、話したんですけど、識名で、いつも一緒に寝ている人なんですけど、夜勤、昼勤っていうのがあったんですよ。一旦昼勤にやってでしたかね、いや今日は私、当番だから出ていくねということで、お友達がですね、前川さんていう人が「2人、着物交換しよう」って言ったんですよ。それでね、あの人のもんぺだったかな、上着か、私の浴衣ね、叔母さんからもらった形見の浴衣があったんです。それをあの人に貸してですね、あの人が寝る時に上から掛けていったんです。私が、この人からもんぺの上着だったと思います。上着を借りてですね、勤務に行ったんです。その下のほうは、あれは、くじり格子っていうのがありますでしょ。兵隊から、あれだったはずです。そして奥のほうに行ったらね、那覇のあれになってるんですよ。避難所。そこに反物隠していたんじゃないですかね。たくさん持ってきてから、「お前選ぶの、いいのから選びなさい」ということで、くじり格子もらってですね、もんぺを縫ったんです。壕の中で。私これ着ていい時じゃなかったと思うけど、じゃあ私は向こうの当番だから行くねと。で、この前川さんに、私に、饒波さん、あと友達が寝ていたの。いつも頭を並べて。このそばにですね、開南中学のピアノ、避難されていたんです。誰もきれいにピアノ弾く人いないんだから、いたずら好きでみんなやっていったんですけどね。じゃ私当番行ってくるねって、この前川さんと着物交換していたの。行ってちょっとしたらですね、一旦帰って、行って、勤務して終わって、残ってご飯を、私たちのご飯少し残っていたんです。ご飯食べたあと、この日に限って、私ここに寝たくないんですよ。いつも2人の間に寝るんだけど。お裁縫道具持って、私、裁縫しに行くねってことで、壕の中に入っていったんです。壕の中ってのは炊事壕のほうにね。縫う物は持ってないんです。箱だけ持っていってるんですよ。だからそれがね、運の分かれ道になるかって思いますけどね。なんで私、材料も持ってないのに、裁縫しに行くねってこの人たちに言ったか、それは私も今でも不思議でしょうがないんです。友達との別れがそれなんです。ここなんです。で、私、炊事に行ったんですよ。炊事、中のほうにありますから。そこで座ってみんなで雑談していたんです。そうしたら、「入り口がやられた」って言うんです。じゃ、どうなってるね、どうなってるってたら、即死も出てる、重傷もいる、たくさん負傷がいるっていうことで。だから壕の中と言っても、こういうふうになってね、明かりは持ってないんですよ、もう。明かりを探す暇がないんです、時間が。この壕の中の壁を伝わってですね、入り口まで行ったんですよ。もうむちゃくちゃ、壕の中。それで見たら、私の右のほうに寝てる人の前川さんがもうおなかが全部、内臓露出なんです。即死。左のね、饒波さんって方は左半分ほとんどない。顔から胸から全部。この人は30分ぐらいで亡くなったんですけどね。もし、私が2人の間に寝て、私は死んでいたはずです。人の運ってそんなもんかなと思ってね。饒波さんはね国頭なんですよね。私、大宜味、前川さんはね羽地なんです。こう連なってるんですよね。もし私が元気で帰った場合にどうしてもね、この両方の親たちから聞かれるでしょう。うちの子どもはどこで亡くなったって言われたらね、私はどうなの。生きていてね、人から言われるだけで、だから、友達の埋葬も分からんと言われたらね、私もそれこそ生きがいがないからということで、この2つの、防衛隊のおじさんたちがたんかで担いで上まで連れていったんです。「おじさん、ちょっと待って。私がね、言うとおりに埋葬してください」ということで、その今でも角があるんですけどね、そこに穴掘ってですね、毛布でくるんで2人とも。1人は南、1人は北に頭を向けて、交互に2人埋葬して、土を掛けて、私はそこを逃げていったんですよ。で、そこから南に帰り行く時に、いつの日かあれするから、あんた方、迎えに来るから、もう私はここから行くねっていうことで、手合わせて逃げて、そのまま南のほうへ行ったんです。そして、そのあとね、私は辺土名高校を卒業して、夏でしたかな、向こうからの親たちが、うちの子どもたちね、遺骨取りたいから一緒に行ってくれないということで、一旦行ったんですよ。行ったら通行証明ていうのが必要なんです、当時。名護から戻されたんですよ。通行証明がないもんだから。2回目にはそれを持って、それで識名の壕、行ったんですけどね。もうメチャクチャにね、その上がもう、あちこちみんな石ころで、分からなくなってしまったんです。どうしようどうしようって。ほとんど人いないです、あの頃は。みんな避難して。まだ米軍がいますから。それで、どうしようと思ったんですけど、とにかくこの松の根っこの所に埋葬したんです。それならね、確かね、松の根っこでも残るはずだから、そこに埋めましょうということで、防衛隊のおじさんたちと相談してですね。松の根っこのとこに穴掘って、1人は北、1人は南にして、毛布にくるんで、結構土を掛けたんですよ。戦後ですね、両方の親たちが来たんです。うちの子どもたちどこで亡くなったって聞いたの。実はこうこうで私は埋葬してるんだけど、今は行けないからね、もっと落ち着いたら案内しますねということでね。そうしたら、饒波さんのお父さんとお姉さんと叔父さんと、3人が見えて、「マサちゃん行ってくれない」ということで、ちょうど辺土名高校卒業したすぐです。それで、行ったんです、識名まで。結構、土が盛ってる所を、たぶんそこのはずだから、掘ってくださいって言って。きれいにね、もう毛布はないです。毛布はなくなって、きれいに2人、1人は南、1人は北にね、ちゃんと寝るように。そのまんまあってね。もう私、ホッとしたんですけどね。1人私と着物を交換した人がいましたでしょ。2人一緒になるとね、あとどうしようどうしよう思ったんですけど、どういうふうな私のまた、あれになった。この交換したもんぺ、これで判別が分かったんですよ。その前川さんの足にこんな小さく2センチぐらいの着物が付いてたんです。そして、これはね私と交換した時の着物だから、そこを前川さん、こちらが饒波さんだよって言って、ちゃんと区別してですね。かます、かますに入れてですね。結構、饒波さんの家族は見えたりしたんだけど、前川さんの家族は連絡してなくって、ちょうど夏休みの頃ですからね、羽地小学校、家の町近くなんです、前川さんの家は。そこから前川さんの家族呼んでですね、お母さんにそのかますの入った遺骨を渡した時にね、人は生きてくるのにねってことでね、お母さん言われてね、

「人は生きてきたのにね」って言ったの。私が生きてきたってことですよ。「人は生きてきたのにね」って言って、泣かれたんで、私も返す言葉がないですよ、もう。2人の遺骨はちゃんと私、帰してやってね。それが戦争に行っても友達が生きたっていうふうな気持ちで、慰霊祭の時は両方の家族必ずみんないらしてました。親がお元気な時はもうずっと私はいつも慰霊祭に見えたですよ。もう両方とも兄弟ももうほとんどいません。

Q:やっぱり戦後、生きてきた中で、やっぱり亡くなった人たちのことをこういうふうな形で思い出すことって、たびたびあったんですか?

ありますよ。うん。特にね、寝れない時にね。逃げ回った時とか、激しいあれの時には、こうこうだったんだねという。寝れない時は特に思い出します。あんな戦争がまたあってならない。戦争、沖縄にちょうど。日本国として、最初に上陸して、そこで終わりましたでしょ。その間の犠牲者がたくさん出たというのはもう分かっているんじゃないですか、みんな。本土防衛のために沖縄犠牲にされたのを、これでね、いつも私はいつもあれしますよ、怒りますよ、腹立ちますよ。若い人たちがたくさん亡くなってね、やっぱし、なんで内地の人はあんなにみんな元気でいるのにって。空襲はあっても、上陸してるあれとは違いますよ。空襲っていうのはどこかで逃げればいいんだけど、沖縄の場合にはもう逃げる場所がないんですもの。南に行けば前は海、後ろは敵ですから。もう最後まで追い詰められて、追いかけられています。

Q:そういう話を戦後も何かね機会あるごとに語り部というんですか、いろんな若い人たちにそういう話をする機会があったと思うんですが、稲福さんが特に強調したことってのは、どういうことですか?今の若い人たちに、戦争の話をする時に。

私はね、一番戦争にね、結局は12月8日ですか、真珠湾攻撃。一番最初に戦争にあれしたのは日本人ですから。私がいつも思うのが東条英機が一番悪い。日本の政府っていうのがね、ああいうことも、もう少し話ができないもんか、思うぐらいで。昭和8年か7年ぐらいに話し合いが決裂したことを聞いていますけどね。何かいい話をこういう戦争にもっていかないぐらいのあれなかったかなと思う。それに沖縄犠牲にしたというのは、昔から、琉球時代からみんな何かやられてるほうでしょ、本土に。だから、あんまりにも人間おとなしいのかなんか知らんけど、そういうこと考えると「ヤマトンチュ(本土の人)」は大変嫌だったという気持ちがありましたね。うん。中にはとてもいい人もいたんですけどね。沖縄バカにするほうが多かったですよ。

Q:特に、最近そういう若い人たちに話することはありますか? 戦争の話。

はい。去年は・・・いや、毎年あります。今年はやってないですけど。識名小学校と浦添工業。そして大抵、内地から、和光小学校。あっちは毎年。前からはもう千葉、千葉柏陵高校かな。北海道の・・もうたくさんやっています。看護学校かな、北海道の。私はもうこれ以上できませんって言って最近断っている。ただね、和光小学校の集まりにいろんな人がいらっしゃるんですよ。その人たちが「稲福さん、また・・・」、こないだも識名まで行っていますけどね。あと南。私が歩いて逃げた所、行こうということで、みんなでまた行ったんです。そういう集まりがあるんです。その時はもうなるだけ話して、今は基地があるから平和じゃないと言うんだけど、あの時はもう今日死ぬか、明日死ぬかという切羽詰まった・・・。あれと今とは違うんだけど、あの時は今死ぬかという気持ちでしたね。今なら、反対反対で、こういう基地なんて置かないて言うんだったらみんなで反対に持っていけばね、あんな戦争の悲しさは出ないんじゃないですか。私は戦争の、友達が亡くなって、人がたくさん亡くなったその場面はですね、あれだけはもう本当に今でもああいうことがあったのかなと思うぐらいです。それで、さっきも話した阿波根の所に死体がですね、入り口にこんなやって積もってるんですよ、5、6体。ウジがわいて、金ばえが真っ黒になってるんです。人が通るとブーンと飛行機の音みたいにもう金ばえの音がするんですけどね。ここでは兵隊が、石部隊の知り合いの兵隊が「おい、浜本ちょっと来い」と言ったんです。「お前、一番元気があるからね、これ運べ」って言ってね、兵隊と2人、死体運ばされたんです。ちょうど・・があってそこを渡るとね、大きい弾痕の跡がね、あるんです。そこにたくさんの遺体が、みんな投げられてるんです。その時に2人で、兵隊と2人で、死体がこうあれした時に、もう埋葬じゃないです。投げ捨てるというあれしかないんです。私、投げたあとに帰ってきた時に、私、自分は人間だろうかという1つの気持ちが出る。もし普通の人間だったら、あんなことできんはずよって。死体を投げたり。だけど、私、今、死体を投げてきたんだけど、夢の中かな、それともう私人間じゃなくて、別の悪魔になってるか。そういう反省というのが出てですね。また、まだ自分は生きてるんだという気持ちがあったね。夢みたいな。夢みたいな行動、取ってるわけです。そんな時にね、自分が自分にこう返った時にね、大変反省。人の死体を投げるということはね、反省みたいになって考えましたね。あんなこと普通できませんよって。なんで、あんなこと私やったかねって。私は鬼の使いだったかねって。こういうことまで考えましたね、あの時に。

出来事の背景出来事の背景

【沖縄・梯梧学徒隊】

出来事の背景 写真太平洋戦争末期、住民を巻き込んだ激しい地上戦が繰り広げられた「沖縄戦」。
昭和20年3月下旬に始まり、6月下旬に組織的な戦闘が終結するまでに、日米合わせて20万人以上の死者を出しました。そのうち沖縄住民の死者は9万4000人にのぼりました。
この沖縄戦では、十代の中学生、師範学校生、女学校生たちが戦場に動員され、多くの命が奪われました。男子生徒は、伝令や弾薬の運搬、壕堀作業、女子生徒は、看護助手や食事の準備などに当たらされたのです。

そのうち、私立昭和高等女学校の生徒17人は、「梯梧学徒隊」として組織され、南風原町(現在)のナゲーラ壕におかれた陸軍62師団の野戦病院で首里高女の生徒たちと一緒に、負傷兵の看護などに当たりました。しかし、嘉数高地での激戦続々と負傷兵がやってくると、十分な治療や看護はできず、重傷者は、次々に死んで行ったといいます。5月下旬の撤退の際は、砲爆撃の雨を受けつつ、患者の肩を支え医療器具などを抱えながら梅雨の泥濘を歩くものでした。
撤退先の本島南部に移ってからの6月8日、学徒隊に解散が命じられましたが、行くあてもなく、生徒たちはちりぢりに。その間に砲爆撃などで命を落とす生徒もいました。動員された生徒たちの半数以上の9人が命を落としたのです。
昭和高等女学校は、戦後も復活することなく消滅してしまいました。

証言者プロフィール証言者プロフィール

1927年
沖縄・大宜味村に生まれる
1942年
昭和高等女学校に入学
1944年
10月、那覇市内で十・十空襲に遭う
1945年
3月、石部隊(62師団)野戦病院に動員され、ナゲーラ壕や識名壕で負傷兵たちの世話をする
 
解散後、南部へ。6月、摩文仁で捕虜になりコザの収容所で子どもたちを教え始める
 
戦後は、教師となり、語り部として沖縄戦の体験を子どもたちに語り継ぐ

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