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タイトルタイトル: 「寄宿舎が野戦病院に」
名前名前: 大城 信子さん(沖縄戦 戦地戦地: 日本(沖縄・名護)  収録年月日収録年月日: 2014年6月18日

チャプター

[1]1 チャプター1 県立第三高等女学校へ  08:26
[2]2 チャプター2 太平洋戦争開戦  04:32
[3]3 チャプター3 思い出の校舎と寄宿舎  04:27
[4]4 チャプター4 病院になった寄宿舎  03:19
[5]5 チャプター5 十・十空襲  07:38
[6]6 チャプター6 負傷兵の対応に追われた日々  05:47
[7]7 チャプター7 看護教育日記  06:22
[8]8 チャプター8 焼けた講堂  04:03
[9]9 チャプター9 下山  05:44
[10]10 チャプター10 大城さんは子どもたちを教えた  04:46
[11]11 チャプター11 遺骨の山  06:38
[12]12 チャプター12 民間人の犠牲を強いた沖縄戦  05:42
[13]13 チャプター13 平和への思い  02:17

チャプター

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提供写真提供写真

収録年月日収録年月日: 2014年6月18日

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Q:ご実家はどんなお仕事をされていたご家庭ですか?

父はね、生まれたのはそこで生まれたんですけど、警官だったんですよ。それで、それから私、生まれてからすぐ宮古へ行って、宮古で4か年。それからまた名護。あちこち転々としてね、小学校6か年の間にね、7校変わりましたよ。その土地に住所がないといけないということで、当時はこれがありません。父は自転車に乗って、その部落をグルっと回るぐらいの仕事でね。何も、強盗・窃盗、そういうの何にもない時代ですから。昭和10年。7、8年、10年。だから小学校7校、変わりましたね。父が転勤転勤してね。与那原、嘉手納、那覇、糸満、本部、また那覇へ戻ってきて。また父は応召、海軍だったもんですから、応召受けて、船。もう年ですからね、40ぐらい、私が女学校に入った時には。

Q:お友達とかできましたか?

はい。もう、あちこちで友達できましてね。ほんとに。沖縄はね、部落部落によって言葉が違うんですよね。糸満でもね。本部でも、どこも言葉が違う。それで私はまた「よかったな」と思いますけれど。そのお友達と言葉を交わしたり、その土地の地歴の勉強をしたり、それだけ得しましたよ。それから三高女に入りましたらね。あそこは北部ですからね。北部は沖縄全島の半分くらいからは北部ですからね。恩納村ね、いらした? 恩納村、金武、宜野座からずっと山の、大宜味、東、国頭、それから離島あたり、全部。あれだけのへき地なもんですからね、交通が不便で、それで寄宿舎があったんですよ。そこの寄宿舎にみんな入って、外はね。2里以内は自転車通学でした。で、私たちはみんな寄宿舎に入って、150名ぐらいいましたよ。と言うのは、やっぱり女子でも高等教育を受けたい。やっぱり機織りとか、あちらは養蚕も盛んでね。だから桑の畑がだいぶありましてね。それで機織り、染色、和裁、そういうふうなものを習いにね、各地から、北部の各地から集まりますのでね。交通は不便なんですよ。昼、朝、晩はないの、自動車。だから昼間しかないからね。18年から19年はなおさら学生はバスには乗れなかった。みんな歩いて。それでもみんな一生懸命でしたけどね。

Q:女学校っていうのはやっぱり憧れていた学校だったんですか?

はい。皆さん、やっぱり、何て言いますか、公務員とおうちのちょっと豊かな所だったら、寮費が出せるでしょう? そうじゃない人は出せないもんね。それはやっぱり北部の公務員の方々のお子さんが多かったですね。先生方。異動なさって先生方の。校長、教頭のお子さんとか。また役所の、村長、助役とか。それから名護でしたら、警察署いろいろありますよね。公共事業の所がたくさん。そこら辺のお子さん方が。名護は通学ではあるけれども、やっぱり、これがないとね、入れない。

だけれど北部のね、そういうふうな所の娘、または、こっち1校しかありませんからね、女学校が。那覇は遠いですからね。それで各村の組合がやっぱり女子にも高等教育が必要なんだと組合を作って、最初作りまして、それから皆さん、生徒の努力もあって、みんなの協力でね、地方の協力で、県立になった。昭和5年に沖縄県立第三高等女学校となった。二高女より2か年あとでした。

Q:その頃の夢とかありましたか?

夢?それはもうね、みんな夢を抱いて入ってるんですね。そこはですね、元はちょっとさかのぼりますけども、明治35年から大正5年までの大体15か年間ね、沖縄県に1つだけの農学校があったんです、ここに。その農学校は本土の大学までも行けたわけね。何とか行けた。その中の、3つのうちの、鹿児島農学校とか、その3つの1つでね。そこは15か年間あったのね。それで周囲はね、松の木やら、桜の木、それから相思樹並木。ほんとに囲まれてね、緑豊かな所だったんですよ。大正5年に嘉手納に引っ越ししたもんですから、そのあとは4~5年は県の農事試験場がまたは小学校教員養成所とかが使いましたけれど、そのあと私たち、大正10年にね、各村の組合を作って、私たちの女学校、実業学校として創立して、それから昭和5年に県立になったわけでね。だから、皆さんも夢を持ってね。そこでは機織り、染色ですよね、和裁、それから後々、洋裁も入ってきたんですけど。それから料理の教室もありましたし。そして農学校の敷地の時代からの、農業の実習地が半分くらいあった。そこで野菜、キャベツとかいろんな野菜作って、トマトとか。いろんなの作ってね、これ写真もあるんですけど、その夢を膨らませていたんですよ。それが16年に入ってから、19年は戦争になったのね。みんな授業はなくなったんですけど。

Q:入学したのが4月になりますよね。その年の12月に戦争始まりますけれども、その時の記憶にあることってありますか?

そうです。ありますよ。

Q:どんな?

あのね、三高女はね、そう言ったらおかしいかな。皆さん出稼ぎ、名護の方でも、金武、宜野座の方でも皆さんお父さん方は出稼ぎと言うのかね。ハワイに行ってる方がね。「ハッ」って言ってね。「ああ、どうしよう」ってね。家がね、日本の教育を受けたいために、あっちで育ったんだけれど、小学校は。女学校の日本の教育を受けたいために来ている人たちがいたわけ。やっぱり南洋辺りでもですね、県立の女学校に入りたい、受けたい。あっちでは県立じゃないから。だから、こっちに来て、1級下がってでも県立の女学校がいいということで来た人がいるんですよ。ハワイ、あちら。だからハワイから来た人などは「もう、どうしよう」って言ってね、やってましたよ。そういうことがありました。私たちはそんなことを知りませんからね。そのあとはどうなるかも分からないですよね、自分たちには。勝って勝ってというふうな、勝ちまくっているみたいな感じで、あの頃は。だから、「どうっていうことないでしょう」って思ってたら、沖縄戦まで来てしまって。怖い。だったです。

Q:家庭でも「今、勝ってるんだ。勝ってるんだ」っていうようなお話が、家の中の会話であったりもするんですか?

そうね、あんまりね、南方の、あれから南方に戦をしてどんどんどんどん、こうなったけれど、負けてるっていうことなんてあんまり言わないよ。うそのような宣伝もしてるしね。何かそんな感じで。やっぱりあとで考えたら、あれはおかしいね、オオマス隊長がね、すごくガダルカナルでね、どうしたこうしたと言ってねありましたけれどね。最初は「ああ、よかったよかった」って、こういうふうにやってたんだけれど、あとはもうね、悔しかったですよ、ほんとに。どんどん船もやられるしね。

Q:その戦争がどうやら、だんだん思わしくない状況だっていう、戦争の陰と言いますか、そういうのはやっぱり船がやられてるとか、そういうのを見て感じたんですか?

いえいえ。私たちはそういうふうなあれは。「大本営発表、何々が撃沈した。」こっちの勝利だけを言うのね。だから、こっちの船がやられたということは言わないんですよね。それで、どんどんどんどん、こう攻められてきて、南洋諸島、南洋群島? あそこのパラオとかテニヤンなんやかんや、あちら辺が玉砕した、何したって。それからが私たちは「あれ、もう怖いね。もう私たちも空襲されるね」って、それぐらいのことしか分かりませんね、私たちには。南洋群島がやられて、あれは18年、19年ですかね、19年に入ってからですよね、たぶん。そしたら、「へえ、それじゃ次はどうなるのかしら?」「はい、本土もあちこちやられてる」と言う。「じゃ、こっちも」と思ったら19年にはそのとおりですよね。私たちが4年の時。上級の。

こっちがね、玄関なんですけど、玄関昇ってから。松やら、ずっとね、生えていましたよ。これが玄関でね。たまにまた。ほら、これ、2年の時の私たち。玄関から、こう行って。これが、こういうのが相思樹並木って言ってね、これがずっと、ここから負傷兵をどんどんどんどん運んでいったんですよ。相思樹並木だったですね。それで寄宿舎がね、こういうふうにしてありました。寄宿舎ね。木造。

Q:立派な寄宿舎ですね。

はい。あっちが玄関ですけど、そしてお部屋はね、こういうふうにしてありましたよ。お部屋はね、こっちが寄宿舎でね、玄関、こっちが手術室だったですね。これが舎監室でね。15室は小さかったですけど。こっちが北寮、こっちに廊下があって、こっちが南寮と中寮ね。そういうふうになってた。私はもう4年の時には、この北寮の5室だったんですがね。だから、ここが手術室ですから、こうして見たらね、あそこだねと思うけどね、ここはね、十・十空襲の時よ、ここはもう7月の時に負傷兵が入ってるから、もうシャットアウトです、ここは行けません。自分の道具なんかも、そこに入っているんだけど、もうそのままですよ。そして、こっちから手術室ね、廊下こうやって、こっちが14室だったんです。13、14室はね、危ない人たちね。11、12はね、やけどした兵隊だったですよね。そしたら、こっちから、こっちとこっちの両方からね、一晩でね、7~8名ぐらい、毛布にくるまって、ダメになってさ。毛布にくるまってね、この廊下に出されていた。この廊下から、すぐ出されるでしょ。出してね、ここで、こっちが農場で、ここでね、夕方、日が暮れるころ、火葬していた。こっちも農場だったです。こっち側の農場はね、こんなにしてね、見てください。もう農園ね。これが三高女の。トマトなんか作ったり、何作ったりしてね、本当に楽しくね、みんなやっていたのね。で、これもね、19年はもう写真など撮れないから、これも18年に、ザルに入れて、壕を掘って、土を出して、こんなはだしで。ザルに入れてね、1年上の先輩たちの18年からの状況・・・ もちろん私たちもみんな、こんな感じでやったんですよ。

それから、自転車通学ね。この人たちもね、この人、自転車でね、さっそうと自転車で通学してるのに、17年の何月かね、そのころこれはね、全部、供出しなさいということで、「これは軍艦や弾になるから供出しなさい」と。そして東条英機のほら、感謝状。これ1枚とね、この自転車と換えて。みんな供出ですよ。この自転車は、あの時の公務員のね、2か月の給料でしか買えなかったと言うよ。それでもう合格したらね、皆さん親はね自転車買ってあげて、寄宿舎に入るよりはそれがいいからって、北部の2里ぐらいの所までは、そうだったです。うん、そんな感じね。こんな1枚の紙に換えられて。うちのお友達などは16年に入ったから、17年の中頃だったと思う。もう18年、19年、ずっと徒歩でね。ようやく、1時間目の鐘に間に合わせてね。そういうことでした。

6月29日ね、軍用船の「富山丸」がね、4,500名の兵を乗せて、機材も乗せて。この独立混成第44旅団の兵員、沖縄へ向かっていた時に徳之島海域でね、アメリカの潜水艦の攻撃に遭って、沈没。富山丸はですね、軍の飛行機の燃料を積んでいたドラム缶があったそうですが、これに引火して、爆発して、それが火の海になったそうですよ。それで、大勢の4,500名の兵がね、火の海で大変なことになったなとあれしてたら、4~5時間あとに隊長さん…。ちょっと忘れたかね。隊長さん以下500名が沖縄にようやく助かって来たそうです。宇土武彦隊長。あとの八重岳の隊長になるんですけど。宇土武彦隊長が率いる兵の500名だけが沖縄にたどり着いた。その500名の中の何名かが私たちの寄宿舎に。これ6月26日です。29日ですから、だから7月1日か2日ぐらい、私たち出されたんですよ。それで、ただ野戦病院とだけあれしてたもんだからね。私たちはどうしたかというとね、150名の寄宿生はね、学校の畳の間、裁縫室、作法室。8畳ぐらいあったかね。4つぐらいありましたが、そばに廊下もありました。そこで150名がみんな夏休みまで20日間ぐらい、ここで雑魚寝して。みんな、ここで住んだんですが。その兵が、これ7月ですよね。その兵が1月の野戦病院、八重岳、あそこにもみんな見えてるのね。それからまた空襲に遭った人たちもどんどん運ばれるわけですよ。

7月全部、学校は授業はもうなし。そして、こっちはもう軍隊が進入してきたもんですから、私たちは軍隊の仕事、雑事をさせられるし。寄宿舎も全部出されたんですよ。それ、意味がありますけれどね。寄宿舎も7月ですよ、7月1日か2日ぐらい。寄宿舎も出されて、「野戦病院にします」と言うから仕方がないでしょう。出されるし。あんなこんなで、「あら、おかしいな」と思っていたらば。出て、9月からは下の一心館、新城旅館に分散して、そこから学校へ通っていたら、十・十空襲。そこから、すごい北の方からね、ヒューッて来るのね、編隊をなして。演習かしらと思ったら、ダダダダーって。ブーンという音と一緒にね、タタタタタタタ、タタタタタタタって、機銃掃射って言うの。おかしいなと思ったら。それからがサイレンが鳴ったんですよ。7時半頃、朝のね。あれと思って、ビックリして、みんな、隣の軒下にある壕に入ったり、隠れて、ちょっとやんだなと思った時にはまた走ってね、学校の壕に行きましたのよ。その夜から私たちは野戦病院の看護をさせられた、負傷兵の。

Q:どんな負傷を負った兵士とか?

あのね、私、絵を見せたいんだけれど、いいですか? 十・十空襲ね。「4年生、集まれ」と言うもんですから、どうしたのかね、日が傾いた頃。「4年生、集まれ」と言うから、おかしいなと思ったらね。私たちの学校、相思樹並木があるんですよ。そこから、どんどんこうして入ってくるんです、相思樹並木から。木がいっぱい、相思樹並木から、こうして軍のトラックが入ってくるんですね。そしたら「集まれ」と言うから、「ああ、どうしたのかしら」と行ってみたらね、いっぱい負傷兵が乗ってるんですね。「へえ」と思って、「早く、早く運んで」寄宿舎はすぐここに入り口があるんです、寄宿があるんですよ。そしたら、見たら、みんな、やけどですね。船やられて、海が火の海になって、火の海から海軍、きを上げて「助けてくれ、助けてくれ」。でサバニといって、お魚を捕る沖縄の船、小船。あれがね、出ているから、サバニの人たちは、これを見て、もう火の海だから分からないんでしょう。やっと助けた人たちはこうしてやけどしてね。もうあちこちやけどしてね。そして私たちは2人で、お願いした人は・・・。病人は大体小さいと思ったでしょう。「こんな小さくないよ。もっと大きいんだよ」と言ったんですけどね。海軍のこんな大きな人たちがみんな、こんなやけどをしてですよ。そして、私たちも血をかぶって、だらだらするもんだから。血をかぶってるけどね、「早く早く」って言って、こっちは早く受け取りをする。ビックリしてね。上から衛生兵が「早く受け取らんか」、この衛生兵たちが「受け取らんか」。2人でよたよたしながら、この人を運んでいきましたの、日暮れ頃。ですから、日が暮れたら、またね。だから寄宿舎は玄関は土間だったんです。そこが手術室になったんですね。破片が入ったのを取ったり、何したり。これはあとから、こういうふうになってるんですけども、描いてはあるけど。

Q:それは何をしているところですか?

これはね、大きなお鍋に湯を沸かしてね、包帯やガーゼを消毒してるところ。そういうふうにして、船やられてるから、こういうふうなのも、ないわけですよ。沖縄戦。そのあと、こんなに干してね、干して、また使ったんですよ。仕方がない。もうほんとにね4~5日したらね、ウジがわいてね。ウジもついてるでしょう。もう仕方ないからね、これもここで水でサーサーサーサー流して、ここで消毒して、これを使った。それでこういうふうにして運びましたらね、その夕方から。夜はね、灯火管制ですからね、黒い幕でね、ここを覆って、灯が漏れないように、覆ってはあるけれど、もう手術の時にはね、そうはいかない。これね、脚をね、ここら辺やられてるから、早く出血多量になったら危ないということで、あれをするんですよ。切断。だから、これ私なんですけど。その時は懐中電灯があったから、懐中電灯で照らしてね。私も最初はガタガタガタガタ、1時間ぐらいあるでしょう。この人がね、やられてじきだから、2~3時間・・、一晩ぐらいたったらね、これがダメになるけれど、まだダメじゃない脚だからね。この人、のこ見たもんだからね、「僕の脚、切るんですか?」って言ってね、すぐ飛び上がってね、言ったから。この衛生兵がね、「君の脚じゃないよ。天皇陛下に捧げた脚なんだ」って言うの。私もビックリしましたけどね。「いや、お母さんからもらった脚だ」って言ってね、この人はここつかまえてね、切らさんようにしよったけどね。「出血多量でね、あんたダメだよ」って、すぐ、のこで切ったんですがね。私もその時初めてのところだったです、これは。そして、それから手術した手も脚も全部ドラム缶みたいなのに入れるんですよ。そしたら翌朝はまた交代で、私たちは当番は夜ずっとして明け方4~5時ぐらいまでやって、また朝7~8時ぐらいからまた当番。これを見てね、ビックリしてね、初めての人は。手がこんななって、靴も履いたままでしょう。それは誰でも驚きますよ、最初は。

これは重傷患者の所。私たちが2年の時の教室だったですけどね、ここはね、14室。寮がありますけどね。北寮、中寮、南寮っていって、北寮1~5室。中寮も6~10。南寮は11~14まで。大きな広いお部屋だったです。4部屋だから。そこがいちばん、13と14はね、危ないという重傷患者ですよ。今さっきの手術、切断したような。出血多いからね、これもたないっていうふうな人たち。そしたら、この人がね、ほんとに童顔て言うのかね、海軍の、18~19歳ぐらいの、志願した海軍のね。ほんとに体の大きな人だったけど、こうだった。ほんとにまだ子どものようなね、あれだよね。この子がね、この子がっておかしいけど、「看護婦さん、ここがね冷たいんですけど見てください」って小さい声で言うから、「はあ」って言って私がこっち開けて見たらね、これぐらいの、片手に入るぐらいの血がね、冷たくなって、くっついてるわけ。

Q:血ですか?

血が出てから、これが固まってしまって、これが冷たくなるわけよ。体にもう、冷たい冷たいっていうふうにやってるわけね。そのそばで、この人はまた「水くれ、水くれ」って言って、私を引っ張り引っ張りするんですよ。この人。「かわいそうに、じゃ早く洗面器取ってきて」って言って。1部屋2人で見ていたんですけど。そして、やって、この人も翌日は亡くなりましたけどね。やっぱり出血多量で、ここやられてるからね。それから、こっちの人もね、「看護婦さん、早く水、水くれ」って、みんな「水水水」してるのよ。そしたらね、この人、目も変だから、私ビックリして、衛生兵呼びに行ったんですよ。そしたらね、「水、水あげなさい」って言うから、私は水を差し上げたら、衛生兵にあげたら、この衛生兵ここに枕させて。この人、ここやられてるからね、もう危ないんですよ。そしてね、「はい、君が欲しがってた水だよ。はい、飲んで飲んで」って言って、衛生兵が言ったから、すぐは飲まないでね、「はい、はい」ってこんなしてね、「お母さん、お母さん」って言ってね、飲んだの。このまま息絶えてしまってた。「そこまで我慢させてね、悪かったね。ごめんなさいね」って言ってね、私は。ほんとにこのそばからは「早く水くれ」ってせがむしね。せがんで、みんな。そして、ちょっと遅かったら、足で蹴っ飛ばすわけ、こうして。「本土の女学生は…」こんな大きな声で言わないよ。「本土の女学生は優しいが、沖縄の女学生は意地悪だ」って、こんなしてね、蹴ってね、ほんとにそうですよ。「意地悪」「すみませんね。今、持ってきますから」と言ってね、持ってきてね、あげたらね、「ありがとう、ありがとう」って言ってね。水が欲しいんだから、湯飲みにこうしてガーゼをつけて、「この人は水をあんまりあげちゃいけないよ」っていう人、「水を大量にあげたらすぐダメだよ」って言われてるから。やったらね、ガーゼで吸わせたらね、ハーッって、私の手までも噛もうとするわけよ。「早くたくさん飲みたいよ」って意味でしょう。ほんとかわいそうでね。私もほんとかわいそうで、泣いて、2人とも。これ山田和子さんっていってね、いつも一緒だった。今日もね、お誘いしたんだけれど、「もう具合悪いさ、私。無理だね」って。前は一緒に来たんですよ。彼女がこの文も書いてくれてね、山田和子。この絵はこの人が描いてくれたんだけれど、美術学校の生徒さんだったけどね。こっちはね、14室、畳の間に毛布を敷いてるんですね。この毛布が血がついてね、一晩で。あっちにもこっちにも血がね。血が出るから、2~3日したら、「臭い。大変だから」と言ってね、毛布を取り替えたりもするけれど。とにかく足をね、つきあわせて、こうやって寝かせてるもんだから、やられるわけよ。みんな。14室ですね、と13室。それから12、11はね、やけどした人たち。このやけどした人たちも薬塗ったら、白い包帯で巻いてるから、目ばっかりキョロキョロしてるさ。廊下を通る時にはね、もう怖くてね。14、13、12、11っていって、廊下通って、また手術室に行くもんですから。そこ通る時はね、かわいそうだねとは思うけれど、怖くてね。みんな白い包帯、目ばっかりキョロキョロ。「学生さん、学生さん、水、水」って言って、私ここの係じゃないから、急いで通っていったりしましたけど。そんなことでした。十・十空襲。

1月29日から私たちは2月20日まで、講義を受けて。学校でも講義は受けたんですけど、7月と9月には受けたけれど、特別に10名ずつやってね、人体の構造及びその作用とか、ほんとに看護に対するあれを受けさせたんですね、こうして。午前中受けて、午後は実地です。包帯の替え方、それから手術する時、手術場を見せて。そこでもうシラドヒデコさんも初めて通学生だったから、血を見てビックリしてね。しゃがんでいたけれど。とにかく、こういうふうにやってね。もちろん、字はあまり上手、あれじゃないけど。こんな教育をしまして、まず教育しましたよ。そしたら1週間したらですね、試験があったんです。これ。1週間。考査、2月5日。こういうふうにね、新陳代謝とは、躯幹(くかん)の名称、それから栄養素とは、呼吸、壊死、皮膚、皮膚の作用とか。それを試験して、「はあ、よかったわ」と思ったら、2時間目にはね、何をおっしゃったかと言うと、看護の勉強じゃない。今度はね、忠節を尽くしなさい、忠節5か条。「1つ、軍人は忠節を尽くすを本分とすべし」とか、何とかかんとか。これを言って、そのあとですね、忠節報告の道を行わざれば、どんなに頭がよくても技芸に熟していても、偶人と等しかるべしと。何を言うかねと思った。あとはね「義は山岳よりも重く、死は鴻毛よりも軽し。覚悟せよ」って。この衛生兵が。私たち16、17の娘がね、そんな鴻毛よりも軽し。死んで羽ばっかりの。あんな意味分からないことですよね。これを勉強させて、「あら、もうどうしよう」とは思ったんですけどね。それからはほんとに一生懸命勉強せんといけないなと思ってね。創に、傷について。どこの傷はどうする、どこの傷はどうする。やっぱり少しは熱心に勉強してるみたいですね、ほら。

Q:これはその当時に記録したもの?

はい。板書してるから、一生懸命自分たち書いて。ほんとは鉛筆なんですよ。

これはコピーですよ、ほんとと言っても。コピーです。

Q:漢文のノートだったんですか?

うん。これはね、私は漢文の帳面にしたんですよ。そしたら4、5、6で漢文は月1回、2回ぐらいだから、4~5枚しか使ってないわけ。それで、余っているから、これを。7月に寄宿舎から出なさいと言われたから。自分たちの本やら、まつこやはそこの物ですけど、衣類ね、いろいろ押し入れに全部押し込めて、それですぐ畳の間に、みんな出たんですよね、寄宿舎。だから、救急袋にはこれ1冊しか入れられないの。肌着、洗面道具などいろいろ入れたらね。それ1冊が八重岳に1月に持っていって、反対側からこうして書いたわけですよ。

そこで、軍医さんお1人に、衛生兵が15名、看護婦が15名ね。私たちも合わせてだったですよ。そして、どんどんどんどん70~80名ぐらいだったんですけれども、7月、10月の負傷兵も合わせてよ。だったけれども、どんどん運んでくるでしょう、ここに。もう多くなってね。私たちは壕を掘って、私たちは掘ったんじゃない。ほかの人たちが壕を掘ってくださって、そこの壕に休むことになったんですがね。

1月3日からまた空襲ですよ。お正月は私たち休みで帰ったらね。2日までよかった。3日から空襲が始まって、どうしようかこうしようか、ほんとならばここら辺みんな学校休みだったと言うんですけど。北部はね、出ないと卒業証書がもらえないかねと思ってね。それで、それが下級生もみんな行って。学校、3学期も出たんですよ。

私たちは学校で壕を掘っていましたから。その壕で、十・十空襲あとはですよ、下の一心館と新城旅館から通学していましたからね。朝早く出てきたらもう壕の中で過ごしていた。で、夜、野戦病院の仕事をしていたんですよ、4年生は。それで、おにぎり、お昼のおにぎりもただ片手に握られるおにぎりで、小さなおにぎり。梅干し1つ入れてね。日の丸弁当ってこれだけ持って。だからほんとにひもじい思いしてね。皆さん、名護の町にはね、ちっちゃなね、栗のうんと小さいの、しいの実ってあった。しいの実をね、からいりして、お鍋でいってね、それを売ってたの。1合いくらと言って。それをみんな買ってね、救急袋に入れて、皮はこうやってやったら割れるから。それをいただいて、しのいでいたんですよ。

みんな早くうちに帰せばいいのに、この先生方。真面目すぎてね、うちの三高女の先生方は。真面目すぎて3月24日まで、講堂が焼けるまで。みんな24日に卒業式すると言って、1年生から3年生まで待たせてるんですよ。それで、24日に講堂が焼けたから、みんな「これじゃ、次はもっとこっちもあっちもやられてね。そういうこと。消火はできない。みんな帰した方がいい」24日に、上原さんたち2次だったから。引率した先生が宇土隊長から聞いてるから。周囲に上陸の船は、もう周囲を巻いてる。だから今度はね、子どもたちの命を、今までは学校、講堂を守るためにあれだったけれども。生徒の命はね守ることできないから。「もう今晩で帰ろう」って言って、あと新里先生がおっしゃったから。この校長先生は「じゃ4年生だけは残して、全部帰してよろしい」って言って、4年生を残してしまったんですね。そしたら、「ああ、それでもいけないよ」下級生帰して、あとから。それでも翌日もどうなるか分からんから。4年生もね、天皇陛下・皇后の御真影を抱えて、田舎にみんな避難しましょうということでね。それから7里、6里、あっちに塩屋湾ってあるけれど、今は橋が架かってるんですけど、あの時は橋が架かってないから、1里あるんですね。だから、あれまで入れたら、7里ぐらいの所の謝名城という山にね、40名。生徒が30名、先生が10名、40名でね、天皇陛下・皇后陛下の、校長・教頭がこうやって、ほかは大八車を引っ張って、2台3台引っ張って、これに食料を乗せてね。12時過ぎに出かけましたよ。

Q:いつのですか?何月何日?

3月25日を過ぎていた。24日に講堂をやられましたから。

Q:そしたら卒業式はどうされたんですか?

もう卒業式はしない。すぐまた軍から10名はよこせということでね、トラックが迎えに来たの。上原さんたちがそれに乗ってね。あの時は20名、講義を受けたのの中からだから、本部、今帰仁、名護のグループから10名行ったんですね。その残りが私たち。上原さんはおっしゃっていたかね。お兄さんがね、伊豆味の教頭先生しておられたからね、彼女も行ってるんで。だから大変苦労して。

Q:大城さんは残られて。

私も入ってはいたんですけどね。トラックに乗ってた受け持ちの先生が、「大宜味に行くからね、地理が分からんと困るから、あんたはいちばん先頭にこれ引っ張っていけ」て。それで大宜味行ったんですよ。あっちでまたね、大変な思いしてね。行かなくてもいいのにね、あっちで20名、30名だけれど、大宜味の人は食料がないから。自分の、うちと言っても小屋。山小屋に帰りなさいということ。

Q:それからは終戦まではどういう毎日だったんですか?

終戦まで。そこに行った仲間、トシコさんが私の家に来て。食事はないから、みんな分散したの、大宜味村の家庭に。家庭と言っても、山よ、山小屋に。分散してね、そこでどうやらこうやら過ごしましたよ。

Q:では大宜味村で終戦を知るっていうことなんですか?戦争が終わったっていうふうに知るのは、どういうふうに聞いたんですか?

大宜味村の村長さんが山城東栄っていって、うちの母の兄さんなんです、それはね。山城東栄さん、村長。村長さんがね、7月の、6月ぐらい。7月15日に軍にお願いしに行って、お1人でじゃなくて、みんな役所の人たちも一緒にお願いして。7月15日、16日に大宜味村の人はみんな下山させるから焼かないでくださいと。みんな村を焼いていたの。山。山焼きしていたのね。そうすると小屋でしょう。約束していたので、アメリカ軍のラブレスといってね、辺土名の地区の大将。ラブレスといってたけど。このラブレスさんは「オーケー」って言って。15日、16日の2日間で山から大宜味村の人はみんな下りることになって、アメリカは下りる山の入り口入り口にね、みんな番してね、10名ずつ両方に。番してるから怖くてね。そういうことでね、ほんとかしらと思った。そういうことで警察署に勤めている人などは調べられたらいけないと言ってね、しばらくは下りなかったですけどね。うちの母のお姉さんのおじさんなどはそういうことで下りないでね、山にいたんですけど。

Q:じゃ大城さんは下りてきた?

はい、下りたですよ。

Q:初めてその時に米兵を見たわけですか?

初めて見たです。

Q:どう思いました?

チューインガムやらチョコレートやら、くれるのね。子どもたちや年寄りなんかに。もう私なんか「もらわない」と言ってね。もうわじわじ、もう嫌だからさ。こんなに女学校でもね、「撃ちてし止まん、鬼畜米英」って言ってね。もう私たちはね、わら人形を作って、それを突く練習までさせられたんですよ。だから竹やりで突いてやるというような気持ちでね、あんなことまで言ってたの。この先生方・先輩方、大変だった。あれはなと私、思いますよ。こんなアメリカさん。やっぱり見たらね、目もおかしいしね、肌もちょっと赤。やっぱり赤鬼みたいに見えるわけよね、最初はよ。若い人は。そんな感じだったんですけどもね。若い子たちも年寄りもチューインガムから何から、ああ、これ親切だねと思ったけど、私は取らないでそのまま。こんな感じだったです。

Q:それでどちらに連れていかれたんですか?

饒波(大宜味村)という所。私たちは大兼久ってあるの、海の近くね。58号線の海の近くだけれど。中に入った部落があったの。私たち、今の辺土名高校の裏側ですけど、ここは饒波という部落で、饒波と書く。饒波という部落でね、山のすぐ下りてじきの部落だった。「ここに下りてください」と言われたから。そしたら何か畑なんかしてると、「あなたはどこに住んでいるんですか?」と言ったら、このラブレスがよ、車を降りて「饒波に住んでいます」と言ったら、「オーケー」と言ってね。饒波はもう、やっぱりあっちまでは連れていかなかったです。私たちは饒波でね、自給自足というのかな。

Q:それは収容所ですか?

いや、収容所には行かなかった。饒波の部落、おうちがあるからここに、親戚のおうちにみんなね、しばらくはいて。それから8月になってから、大兼久。饒波の次、こっちが大兼久ですから、役所のある所に移ったんですが。もちろん全部焼き払われてね。村長さんの家は残ってた。役場も残ってた。あちこち、いい所は残ってる。私たちのおうちもセメントで囲いして、いいおうちなんだけれど、焼かれていましたね。次ずーっとずーっと焼かれてね。うちのじいさんが、あの時は60、若い時に一生懸命、人一倍働いて、瓦屋を作って、「いいおうちを作ったのにみんな灰になって」ってね、ガッカリしていましたよ、ほんと。

今の大学が、琉球大学が5年あとにできたんですよ。その5年前が文教学校。そこが具志川にあったんですね。ご存じかね? 石川の向こう側、具志川ってあるけど。具志川の山のちょっとこうなった所は、アメリカがそこに駐屯していたみたいですね。皆さん、何と言いますか、布のおうち・・テント、テントみたいなのと、それからコンセット、丸いかまぼこ型の。あれで、アメリカはそこで駐屯してたでしょ? そして、そこには野戦の寝台?布の寝台みたいのがあって、そこにね、学校の先生と、それから農林、警察、それからどこだったかしら・・まあまあ、そういうふうな、私たちは文教学校と言ったんですね。小学校、中学校の・・・いや中学校じゃない、最初は小学校の先生方の養成所。うん、試験を受けて行ったんですがね。そしたら、そこで5か年ですから、5か年済んだら琉球大学ができたんですよ。そこで、半か年、自分たちは、学校で1か年は生徒を教えているから、半か年でよろしいと。それから高校出た人は1か年ということで。そういうふうなことでした。

Q:じゃあ文教学校に行く前に、小さい子どもたちを教えていたと?

そうなの、そう。なぜなら、ラブレスが、女学校、中学校を卒業した人は小さい子どもたちみんな集めて、いろいろ教えなさいということでね。役所の前に、あれは何と言うのかね、葉っぱがうんと茂る木がある・・・何て言うの? よく墓の前なんかでも・・クワディーサー(モモタマナの木)。クワディーサーってご存じ?葉っぱがたくさん茂るクワディーサーの木。クワディーサー、うん。すごく、これくらいの所も、葉っぱがうんと茂ってる所。いわば役所の庭ですよ。ごめんなさい。役所の庭でね、こっちは幼稚園、こっちは1、2年、こっちは3、4年というふうにして、こうして、こうしてね、先生方が受け持ちしてからね、教えていたわけ。

8月からね、そこで、部落の子どもたちを集めてやってたの。そしたら、21年に「大宜味校区をね、まとめましょう」と言って、大宜味の校区です。大宜味村にはね、津波、塩屋、大宜味、喜如嘉ってあるの。それだけの「校区ごとに学校作りなさい」って、ラブレスが言ったから、「はい」と言って、大宜味校区の生徒を集めて、200名ぐらいいたの。ビックリしましたね。今はもうね、40名ぐらいしかいないと言うけれど、200名ぐらいいたんですよ。で、先生方が20名ぐらいいたかなあ。そんな感じで、校長が平良仲蔵っていう先生だったけど、戦前の校長、大兼久出身の校長先生で、この人がラブレスからお願いしてから、さっきの天幕の、ああいうふうな資材もらってきて作ってね。部落の人たちがまた、柱を山から取ってきて、やっと学校を作って、学校らしい学校を作ってね。砂の上にみんな座らせて。それから今で言えばそうめん箱、おそうめんの入った箱みたいなのね、それから紙箱。段ボール箱、ああいうふうな物を置いてね、そこで、させたの。

トラックでね、やっぱり、北部はなかなか南部に行けなかったから、それまで。23年3月でしたよね。行けなかったから、ぜひ行きたいと思っていた。なぜなら、うちの先生のあれ、なぜならね、玉代勢秀文先生といってね、玉代勢秀文といってね、理科の先生。こっちで亡くなってるんですよ、玉代勢先生が。あの先生、ここ、私のへんになっておかしいんだけれど、この先生方どうなったかねえということでね、ぜひ行きたいと思っていたの。そしたらハアと思ってね、トラックから降りてね、さっそく、そこ見に行ったんですよ。そしたら、「玉代勢先生、どうなったかね」と思ってね。そしたらね、その時の様子よ。ウエチさんが師範、予科だったので、あの人もひめゆりの帰りだったの、ウエチヒロコさんといって、文教一緒で。ウエチヒロコさんと2人、「ヒロコさん」と言って、手をつないでね、トラックから降りて、そこを見たの、2人は。もう壕のこっちにね、お骨がこんなに盛ってある。そしてね、入り口の岩に頭蓋骨が並べてあるんですよ、こうして。

Q:何の入り口ですか?

何て?

Q:何の入り口ですか?

この第3外科。あの人たちが、さっきの先生。

Q:玉代勢秀文先生?

いやいや。また名前を忘れたね。先輩の名前。

ああ、宮良さん。宮良ルリさん。宮良ルリさんが私たちにも話していた。「玉代勢先生ね、一緒に、壕はね、助かって出たんだけれど、あそこに先に行ってしまって、目の前で、バーンとやったら、もう見えなくなっていったのよ」って言って。宮良ルリさんが、そうおっしゃっていたのね。この玉代勢先生は、私たち1年から3年まで、生物物証の先生だった。だから八重岳行ってね、チョウチョを採ったり何採ったりしてから、中等学校の展示に出したら、賞をもらったんですがね。「この先生、どうなったかね」と言って、私たちは急いで壕に近づいたんですよ。そうしたら、本当に、こんなに、これぐらいの幅があるね。お骨。この骨が全部山盛りしてね、岩の間間にね、頭蓋骨をね、全部並べているのよ。二重三重に、だんだんだんだんして。もう、これ見た時に怖くてね、私は怖くもあるしね、「玉代勢先生」って言ってからね。

本当に嫌でしたね。壕を見た時に、ああ、もう私はビックリしてね。だから今はこうやってからは見えませんよ。もう、みんな移してね、納骨堂に入れてあるんだけれど。あの時は本当にあの面影がね。大変、人というのはね。だって20年から21年、22年、23年でしょ。23年の3月だったから。それまでには、きれいにね、お骨になってた。うん。そしてね、この壕はね、下からね、これくらいの高さあったら壕は、こういうふうに土手があって、こういうふうになってたんですよ。この土手のこっちにね、木が生えてるんですね。それで、そこのそばに、ススキが生えてるんですよ。このススキにね、ススキの枝にろっ骨が掛かっているの、こうして。私、これを見た時にね、「あら、まあ、もうもうもう、下にどなたか亡くなったかね、そのまま、また誰かが付けたような感じも、いや、そうじゃない」って、こう、よくよく見たらね、下のほうにね、骨盤がね、ちゃんとこう。だから、ここまで、よじ登って来てね、ここでね、息絶えたのかねえ、と思ってね。悔しかったですよ、ほんと。もう、ここ上がれないでね。あとで聞いたらね、ここはハシゴみたいなので上がっていってたと、そうおっしゃってはいたよ。ああ、だから、それで亡くなったのかしらと思ったけどね、もう、その時には3年もたってるから、やっぱり何にもなくても、ここからススキが生えて、このススキが持ち上げたんじゃないの? こうして。こうしてね。このススキの枝枝に、葉っぱによ、ろっ骨がよ、このろっ骨がこうしてかかってよ。もう何とも言えないよ、本当。だから、南部の人たちは、皆さんのお骨を拾ってね、魂魄(ぱく)の塔(糸満市に建立された慰霊碑)、ご存じかね?魂魄の塔に全部納めたんだってね。で、こっちを見て、それから魂魄の塔に行ったの。そしたら、拝むところとかないんですよ、もう、こうやって、後ろに回ってね、お骨入れるところだったらしい、見たから。自然壕でね、ああいうふうに、広いんだけど、ずーっと下が流れるようになってる。そこにお骨が、入れたらそのまま、ぞろぞろぞろと流れるようになってるの。これ見た時にはもう、なおさら怖くなってね。「ああ、もう戦争というのは、こんな・・・。これはもう大変なことだね。こっちの一帯でね、こんなたくさんのね、方々がね、弾にやられてこんなに散っていたんだねえ」って。ここら辺の方々が、全部ここに片づけてね、こうしてやったからさ。「もう3年もなればね、こんなにお骨もこうなるんだね」と思ってね。もう、こうやってね、帰りましたけどね。

中にはね、こういった子がいましたよ。あのね、「僕のお父さんはクワを担いで学校の門から行ったけれど、帰ってこなかった」と。「5歳かなんかだったけど、覚えています」と言うのよ。だから、その時に私はね、八重岳にみんな、青年学校・・・青年学校というのは高等科のころは、小学校6年、高等1年、高等2年で15歳、16歳、17歳、18歳、19歳まで。20歳になったら兵役ですから、これだけの生徒が青年学校にいたの。この青年学校の生徒やら、それから45歳までですから、兵役は。

この護郷隊っていうのが青年学校の生徒、護郷隊ね。それで鉄血勤皇隊が中学の生徒ね。それから防衛隊というのが45歳以上の。だから5歳になる子がね、「僕のお父さん、クワ担いでね、戦争に行ったけど、いまだに帰ってこない」と言って。この人たちは子どもも大勢いるしね、このお母さん、しばらくしてから、また亡くなってね。だから、こっちの子どもたちがね、いつも憂うつそうに、おばあさんはいるけど、おじいさんもいないから、食べ物もないしね。こんなこと。うちの部落にはね、1人息子を亡くした人、たくさんいますよ、うん。

Q:そういう子どもたちに、どういうふうに、元気づけたりとかしたんですか?

ああ、もうね。言う言葉ないですよ、ほんと。かわいそうだからさ。雨降ってからぬれてきてるから、「ああ、ぬれたね」って言ってね、「これは干してから乾くまで、じゃあ先生のもの着けてね」と私のものを着せてね。こんなだったですよ。もう食べ物もあるのか、ないのか分からないぐらい。自分たちも、もうギリギリだから、食べ物はあげたいではあるけれど、こういうふうなものね。裸にしてもいけないしね。あんな調子でしたよ、戦後は。でも南部の孤児たちよりは、まあ、いくらかはよかったとは思いますよ。南部の話を聞いたら大変ね。今でも親も分からない子どもたちも、もう裸になってる子どもたちもいましたよね。だから戦争というのは、もう絶対に、もうね、二度と絶対に、あんな悲惨に戦争というのは、やってはいけませんて。もうこれだけ、もうね、自分の子や孫、子々孫々ね、こんなね、忌まわしい戦争はね、やらないでください。やっちゃいけませんと。もう、何と言ったらいいのかね?あれを思い出したら私もね、夜中目が覚めるでしょ、1時、2時ごろ。寝られないんですよ。この人たちの顔が浮かんでね。「この横を見てください、水ください」と言った人たちね。この人たちの顔が浮かんでね、私、寝られないのよ。1時間くらい寝られないから、また起きて、テレビ見て、またあれを変えてね。

Q:それは、今でもですか?

今でもですよ、今でも。今でも、もう戦争の話なんかするでしょ。そしたら、こんな大勢の人がね、もう本当に・・・。

Q:改めて伺いたいんですけれども、多くの方の犠牲を強いた沖縄戦って、何だったんでしょう?

何だったんでしょう、っていうわけ?

Q:何だったと思いますか?

だからね、前々から分かっていることだと思いますよ。大本営というのか東条英機はあの時は辞めてはいるけれど。誰が大将だったか。あんな南方のほうね、最初は「勝った、勝った」と勝ち戦。そのあとは、もうどんどんどんどん退いてるでしょ?分かっていながらね、どうしてね、どこかで食い止めないで。えっと、ちょっと待ってくださいよ、19年(20年)の3月10日ですか?東京下町が10万人亡くなったと言いますでしょ。もうこれを私は見た時にね、3月10日に、20年の3月10日にあんなことがあってるのに、3月10日って言ったら、私は八重岳にいるころなんですよ。八重岳で講義を受けたり、あっちで空襲でやられたり。こうなのにね、よくも沖縄戦までこんなさせて、結局18年・・・、まあ何と言いますか、疎開船、対馬丸やら何やらね、みんな船でやられてる。あれはですね、もう何名かを沖縄から人数減らせて、口減らししないといけない。元々そういうふうなことが聞こえるのね。そうだったらしいんです。そういうふうだったかどうかは分かりませんけど。そんなにしてまでね、人の・・・、こっちで戦争させようとするのかね?私これが悔しくてね。悔しいんですよ。

6月23日(慰霊の日)、ただ拝んでさっと帰る。もう、これじゃあれですよ、どこもかしこも回ってね、みんなの意見も聞いてね、そうしないとねと私は思いますね。あんな苦しい・・・。だって、もう「供出、供出」って言ってね、いろいろ、この自転車だけじゃないですよ。鍋、釜やらね、みんな、もう使えそうなのもみんな、鉄、銅、みんなですよ。この髪飾り、こっちではジーファーと言うんだけど、ジーファー、あるいは女のね、何かことがあったら、先とがってるでしょ。女の、自分の護身用なのね。これまでもね、みんな供出しなさいって出されたの。そしたら何で、年寄りは必ず髪を結ってますよ、おばあちゃんたち。じゃ、何でしょうかね。もう仕方ないから、お箸とか何とかをやって、もうこれぐらいにしてね、これでジーファーしていたと。もう、これでジーファーするぐらいだったらね、これはもう勝ち目ないと言ってね、年寄りたちは嘆いていたみたいですよ。

Q:大城さんは、若い人たちに何を伝えたいですか?

ああ、ねえ。もう、戦争だけは、本当にもう、戦争だけは嫌ですって。あのね、天災、地震、雷、津波ね、そういうふうなのはもうどうしても避けることできないでしょ。もう、どんなにね、あれしてもね、もう避けることできないけれど、この戦争だけはね、避けることできると思うの。お話し合いによって、また自分のね、行いによって、これは戦争は避けることはできると。戦争が来たら、絶対にね、その戦争には行くなと。国の命令でもね、聞くなと、私はそう言いたい。命が大事だと。

出来事の背景出来事の背景

【沖縄・なごらん学徒隊】

出来事の背景 写真太平洋戦争末期、住民を巻き込んだ激しい地上戦が繰り広げられた「沖縄戦」。
昭和20年3月下旬に始まり、6月下旬に組織的な戦闘が終結するまでに、日米合わせて20万人以上の死者を出しました。そのうち沖縄住民の死者は9万4000人にのぼりました。
この沖縄戦では、十代の中学生、師範学校生、女学校生たちが戦場に動員され、多くの命が奪われました。男子生徒は、伝令や弾薬の運搬、壕堀作業、女子生徒は、看護助手や食事の準備などに当たらされたのです。
昭和19年6月29日、沖縄へ向かう将兵たちを乗せた「富士丸」が徳之島沖で米潜水艦の攻撃を受けて沈没すると、県立第三高等女学校の寄宿舎は急きょ負傷兵の野戦病院に当てられました。10月10日の空襲では、本部港や運天港に停泊していた艦船が猛攻撃を受け、多くの負傷者が出て、三高女の生徒たちは治療の手伝いに駆り出されました。続々と運ばれてくる重傷の負傷兵に十分な治療や看護はできず、麻酔無しで足などを切断する手術にも立ち会いました。
三高女の生徒20人は、「なごらん学徒隊」として組織され、現在の本部町にある八重岳の病院壕に10人ずつ2回に分けて動員されると、負傷兵の看護などに当たりました。4月1日の米軍上陸以降、戦闘による負傷者が次々と運び込まれ、女子学徒たちは不眠不休の看護に当たりました。4月16日八重岳の病院から現在の名護市にある多野岳へ撤退することになりました。撤退していく中、1人が命を落としました。
県立第三高等女学校は、戦後も復活することなく消滅してしまいました。

証言者プロフィール証言者プロフィール

1928年
沖縄・大宜味村に生まれる
1941年
沖縄県立第三高等女学校に入学
1944年
7月、寄宿舎が陸軍病院球18803部隊北部分院となり動員される
1945年
3月24日、解散し大宜味村へ
 
7月、住民たちと下山する
 
8月、大宜味村で終戦を迎える
 
戦後は、文教学校で学び小学校教員となる

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日本(沖縄・名護)

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