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タイトルタイトル: 「石垣島の野戦病院に動員」
名前名前: 黒島 春さん(沖縄戦 戦地戦地: 日本(沖縄)  収録年月日収録年月日: 2014年6月16日

チャプター

[1]1 チャプター1 戦争の影  03:24
[2]2 チャプター2 飛行場での勤労作業  07:50
[3]3 チャプター3 野戦病院へ  09:06
[4]4 チャプター4 祖母を残して  05:03
[5]5 チャプター5 軍隊さながらの生活  07:20
[6]6 チャプター6 しかばね室  06:41
[7]7 チャプター7 運び込まれるひん死の兵隊たち  04:16
[8]8 チャプター8 姿を見せた米軍機  03:29
[9]9 チャプター9 “祖母に会いたい”  11:10
[10]10 チャプター10 マラリアで亡くなった友達  02:37
[11]11 チャプター11 於茂登岳で終戦を迎えた  04:04
[12]12 チャプター12 終戦後も続いた入院患者の世話  03:45
[13]13 チャプター13 戦後の食糧難  06:37
[14]14 チャプター14 知られていない八重山の戦争体験  01:52

チャプター

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収録年月日収録年月日: 2014年6月16日

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私たちはね、小学校のときはずっと何したけど、ちょっと覚えてるのはね、2年か3年生・・・3~4年のころでしょうね。支那事変(日中戦争)が始まったころだと思います。始まったのは2年生でしたかね。そのころね、2年か3年、もう学年ははっきり分からないけど、よく婦人会の方がね、鉄で作られたもの、鍋の割れとか、そんなものをね、集めにいらしたんですよ。婦人会の方がね。「国防婦人会」と書いたそれを見て、そのときに、蚊帳ですね、蚊がいっぱいでしたから、あのころは。みんな、蚊帳つって寝ていたんですよ。その蚊帳の四隅に、丸い輪の金具が付いているんですよ。これを何かに引っかけられるように。四隅に付いて、これをやってから寝たんです。この耳まで集めにいらしたんですよ、それも鉄でできてるから。そんなのとか、鍋の割れとか、鉄であれしたものを、みんな集めにいらしたり、それから、おうちはみんな、家の庭にね、水をいっぱいためておけということ。

Q:水を?

はい。消火のためでしょうね。きっと役所からの指示だと思います。うちは大きな、これぐらいの、直径1メートル超したかね? これぐらいの丸いタンクに。そして高さ1メートルあまるぐらいのタンクにいつも水を・・・あのとき水道なかったんですよ。水道なかったので、井戸水をくんで。毎日、いっぱい、いつも満たしていたんです。どのうちも、そんなにしていた。そして砂は、白い砂、砂浜からね、あのころはもう海も近かったし、海たちもしてなかったもんだから、月夜におばあさんたちと一緒に行って、砂を持ってきて。これも、こんな山ほどじゃなくて、ちょっとした・・・集めて、これも消火のために使うために「みんなそうしなさい」っていうことだったと思います。こんなにしてね、やってたんですよね。それも、ためになったか、ならないかは分からないけれども、そんなしてました。

私たちはもう、女学校に17年に入って、1年生のときは、そうでもなかったけど、2年生の終わりごろからかな、「学生も勉強どころではない、もう国のために応援をしなさい」ということで、私たちは飛行場、滑走路ですね、飛行場の作業に行かされたんですよ、先生の後ろについて。それが毎日ではなくて、最初のうちは1週間にいっぺんだったかね、そこは分からないけど、最初のうちはそんなに頻繁ではなかったですよ。2年生の終わり、3年生になってから、もう本当に頻繁にというか。そのときに私たちは、くわを持って、飛行場の作業にくわですよ、くわを持ってね、くば笠を・・・あのときは八重山で帽子とか、農作業に使う笠があるんですよ、くばの葉で作られた。くば笠をかぶって、それから弁当って言ったら、もうあのころは芋でしたね。芋を切ってね、弁当箱に入れて。それを持って、くわを持って、飛行場作業に行ったんですよ。今、思うとね、こんなくわで滑走路ができるわけでもないし、行ってから土をね、ここの土を掘って、滑走路のところに行って、こぼして、またやって、また来て、これを何べんもやらされたんですよね。こんなことをして。それも運ぶのも車っていうのがないから、カゴ。向こうにこれぐらいのカゴ、これにね、くわで土を入れて、持っていって、これが飛行場の作業ですよ。こんなので飛行場、滑走路が造れるわけがないですよね、今思うとね。こんなことをしてまで。ある日ね、あのころからね、石垣島にね、たくさん朝鮮人が入ってきたんですよ。朝鮮からね。朝鮮人やそれから石垣市の男の人は皆、徴用と言ってね、作業にかり出されたりして。朝鮮人は言葉も分からないでしょ? あのころだから。朝鮮人の仕事っていったらね、主に労働でしたね。そして危険な仕事。発破、あの爆発するね。発破、岩を崩す作業とか、そんなのをやって。それから、物を桟橋から運んできて・・・あのころ桟橋はね、浅かったんですよ、海が。だから大きな船が来ると、ずーっと沖にとまって、それからまた小さな船が・・・団平、団平(船・平底の荷船)と言ってましたけどね。こんなふうに行って、また食料か何か分からない荷物をいっぱい持ってきてね、桟橋に。それをまた運ぶ仕事とか。朝鮮人はそんなのをやっていたような覚えがあるんですよね。そしてある日、私たちが飛行場の作業をしているときに、朝鮮の方がね、大きな岩があって、岩のところで、発破を使っていたんですよね。そのときに、大きな声で私たちに向かってね、「アッパー、アッパー」って言うんですよね。だから私たちは八重山で「アッパー」と言ったらね、お母さん、年寄りの人に・・・何かあってもね、年寄りのまねをする人「アッパー。アッパーのまねをして。年寄り!」というようなあれで、けなすような言い方になってるのね。そのように言ってたんですよね。それだと思ってね、「アッパー、アッパー」と、大きな声で「アッパー、アッパー」と言うもんだから、私たちは「何がアッパー? 何がアッパーさ? 朝鮮な!」 って言って、こっちなんか。何かしたら「~な」「ファーな」とか「な」をつけたら、ちょっと下げた言い方かな、そんなようなことでしたからね。「何がアッパー? 朝鮮な!」って言ってからね、言いながらやっていたんですよ。そしたら、1人の人が走ってきてね、真剣な顔で、もう「アッパー、アッパー!」って言ったんですよ。そしたら、私さ、あのとき感づいたの。「あ、発破だ」ということ。あのときね、「あ、発破だ!」って言ってね、それからもう急いで、もう逃げて、隠れにいってね。もうどこに隠れても、みんなバラバラになって、木の下に行ったり、何したりしてね、行ったんだけどね。あれから、あのときに、終わってから、逃げたあとから爆発したんです、岩は。発破に火をつけて、バンってやるからね。そのときに、私たちは「ああ、発破だったんだ」。私たちはね、本当に、朝鮮な、朝鮮な、なんて言ってね、バカにしていたけどね、大変・・・相手には聞こえなかったと思うけれども、「ごめんなさいね、ごめんね」。おかげで私たち発破の被害はなかったわけですよね。飛行場の作業のとき、こんなことがありました。

また飛行場あれするときにはまた、空襲・・・あのときはまだひどくなかった。たまに来たときの「敵機が来たから逃げろー!」っていうときも、ちゃんとパーっと逃げたんだけど、もう、あれでしょ、大変だと思って。あーって走って、飛行機の・・・あのときね、なんでか1台か2台か飛行機があったんですよね。そこの下に隠れていたらね、「ばか野郎、飛行機の下に隠れる人がおるか!」「あ、そうだ」って言って、またね。本当にもう、逃げ回ってね。あるとき、そして木の陰に隠れていて、あのときね、「もう弾に当たるんだったらね、即死がいい、即死がいい」って言って、思っていたんですよね。もう苦しんで死ぬよりかはね、あっという間にコロっと死にたい、もう即死がいい。「もうお願い、即死がいい、即死がいい」って言ってね。あんなような思い出、やったんですよね。それがもう、ずーっと戦争終わるまで、そんなような気持ちだったけど。沖縄本島は地上戦がひどくて大変でしたけど、八重山も地上戦ではなくて、空襲ですよ。

私たちは、3年の終わりごろ、・・・に書いてあるけど、終わりごろね、もう戦争もどんどんひどくなって、私たちも、もう勉強どころではないということで、陸軍病院から軍医がいらしてね、私たちに看護学を教えたんですよね。教えたって言っても、本当にわずかな日にちなんですよ。そしてその1日中習ったんではなくて、1日のうちの何時間ぐらい。1時間か2時間ぐらいね。ギブスの巻き方とか、それから包帯の巻き方、こんなところの巻き方はどうするとか、頭の場合はこうこうこうして、グルって巻くとかね、そんなの教えられて、それからまもなくして、私たちはもう海軍病院、陸軍病院、野戦病院の3つに分けられたんですよ。これも学校の先生がね、はい、誰々は野戦病院、誰々は海軍病院っていうふうに。そのとき、そのころまでは、私たちは戦争って大変なものだとは、そんなに思っていたか、いなかったか、今感じると思っていなかったんでしょうね。だから、「いえ、私は行きません」ということも言わなかったし、また国のために尽くす、天皇陛下のために尽くす、ということで、もうなんか、言いはしない・・・そう思ってたわけですよね。「国のために尽くせるんだ、天皇陛下のために尽くせるんだ」というね、思いで喜んではいなかったと思うけどね、表面はそうだったと思います。

Q:当たり前のこと?

そう、そう、そう。そして、こんなふうにして、それから、おうちの方も「うちの子どもは行かせません」とも言えなかったわけですよね。そして、もう学校の命令じゃなくて、軍の命令だから、学校の先生方も、「いや、学生だから」ということも言わないし。だから国の命令ですから絶対服従なんですよね。

私は女学校に入って、野戦病院に行ったんですけどね、あのころ、野戦病院、海軍病院あったけれども、海軍病院と陸軍病院に行った人は、そんなにひどい目に遭ってないわけですよね。ね? 野戦病院はね、私たちは、本当に大変でした、野戦病院に配られた人は。

Q:どんなあたりが?

大変でした。そしてね、野戦病院に行くときが、自分でリュックサックを、帯はちょっと厚めでしたからね、それでリュックサックを作って、お店にこんなの売ってないからね、自分で作って、それに毛布1枚とか、薬とか着替えをちょっと、また洗面用具をちょっと入れて。これだけですよね。これだけを持って。おうちの方のね、避難するときはみんなね、そのようなほかに、お米とか、おにぎりとか、お菓子なんかないわけですよ。おにぎりとかね。位はいを持って歩けないから、位はいの字をみんな書き写して、それもリュックに入れてね、持って歩いて避難したりしたんですよね。そんなようにして。野戦病院に行くときは、私たちはリュックにいろんな、ちょっとしたものを入れて、夜行ったんですよ。昼だったら機銃掃射があれだからね。夜暗くなってからね、馬車に。車っていうのもないしね。ありましたけど、ほんとのわずかな車なんですよね。それに乗って、ずーっと最初は開南っていう所に行って、小屋というのがね、私たちが泊まる小屋というのがね、ワラで作られた、ほんとの・・・今考えると畑小屋でも、こんなような小屋はなかったっていうぐらいなね、本当に貧弱な小屋でした。そして、窓というのもね、木や板ではなくて、竹を・・・ワラをいっぱいやって、カヤですね、カヤをいっぱいやって、竹でこんなにやって、ただつるしただけ。それで、開けるときは、棒を持ってて、プッってやってね、何かバッってやって、これを立てたら、こっちが開くわけですよね。そんなような窓でした。そして、ここと、ここの真ん中、廊下が・・・廊下じゃなくて、土間があって、そこに、こことここに、みんな寝たわけですよね。はい、頭をみんな、向かい・・・あれしてね。畳はないです。床はね全部、これもみんなワラだね、カヤやワラを持ってきてね、竹をこう編んで。これの上に夜はござを敷いて。私たち、ござも持っていったんですよ。ござを敷いてね。蚊帳も、5~6名のグループを作ってね。その中で、蚊帳のある、おうちに余ったのがある人が持ってきてくれて、そこで夜になるとつったら、4~5名ずつ、この中に入って、こんなして泊まっていたんですよね。畳なんかなかったんですよ。

馬車で行って、私たちは歩いて、そのまま行ったんですよね。そして、夜着いて。その日は、第1と第2と半々に分かれて、小屋が2つあったから。その翌日から食糧確保といってね、芋を植えさせられたんですよ。芋の葉っぱ。芋植えをさせられたんですよ。食糧確保といってね、芋植えをさせられて。こんな作業はね、しばらく続いて。それから、本部・薬室・病棟、このぐらいに分けられて、私は薬室に。3名だったかな。薬室に勤務されたわけですよね。そこに各病棟から薬をもらいに来たら、薬室の人が薬を作ってあげたりしたんですけどね。その人がみんな軍隊みたいでしたね。薬をもらいに来るときもね、薬室は閉めてあるんですよね。この戸も、もう、蚊帳で作った物ですよね。そこに来て、「私は、何とか何とかというものです。第何病棟から薬をもらいに来ました。開けていいですか」って言ったら、中から衛生兵とか薬剤師が、「はい」って言ったら、また開けてね。薬をもらって。「はい、帰ります」って言ってね。軍隊式でしたね、何でも。

今思うとね、私はどうしてね、おばあさんと2人っきりだったのにね、なぜ私は、「行きません」と言えなかったかっていうことを、今でも時々思うんですよね。私のおばあさんは、とっても苦しかったはずなのにと、時々思うんですよ。10日にいっぺん、代わる代わる外出というのがあったんですよね。腕章をはめて。これをはめとったらね、逃げた人ではなくて外出だっていうのが分かったんですよね。外出でも、1晩泊まりですよ。1泊したら翌日帰ってくるというようなね。それも、歩いてですよ、ずっと。開南から歩いて石垣のところまで、1里ぐらいあったかな?あるかもしれないね。歩いてきたりしたんですよね。そして、外出をした人のお土産っていったらね、大豆。大豆を鍋に炒めて、それを持ってきたんですよ。あの時はもう、みんな農業をして、豆腐も自分たちで作っていたから。大豆はみんな、大概のうちは植えていたんですよ。その大豆を持って。大豆だったら腐りもしないし、みんなに分けられるし、しばらくは置けるし、多くの人にも分けられるということで、大豆をみんな、お土産に持ってきて。お昼はみんな勤務に行ってるからね、夜に寝ながら、「はいはいはい」って次々に渡したりね。こんなことしてね。

ちょっと時間があると、外に出てね。バンシロウと言いましたっけ?グアバ。あの頃はね、野原にね、自分で生えたグアバの木がいっぱいあったんですよ。ちょうどグアバの実のなる頃、5~6月頃、今頃バンシロウよね? あれを拾いに行ってね、まだ熟しもしないうちから取って、かじって食べたりね。野イチゴと言ってね、野原に行ったらイチゴがあったんですよ。普通の大きなイチゴじゃなくて、小さなイチゴがあちこち、野原に行けばあったんですよね。そんなのを拾ってきて食べたりしてね。食料は、ごはんはお芋混じりのごはん、ごはんに芋をたくさん混ぜた物を食べたり、おかずというのはあまりなかった・・・野戦病院はよ。他の所はいいのがあったらしいけど。もずくのおつゆとかね、あのときはうみんちゅ(海人)って言って、海で魚取る人を海人、海人って言ってたけどね、海の人。その人たちも徴用であちこちに行かされてるから、こんな人はみんな、海で魚を取ったりなんかするんですよね。それで、この人たちが取ってきたもずくをおつゆにして、ダシもなかったんでしょうね、おいしくもなかったんですよね。でも食べないといけないんですよね。こんなおつゆを食べたり、お芋の葉っぱのおつゆを食べたり、野原にある葉っぱ、食べられる春のノゲシ(野けし)とか秋のノゲシとかスベリヒユとか、そんなのは昔から食べられるということは知ってたから、こんなののおつゆがあって、おかずはほとんどなかったね。たまに炊事の人があめ玉を作って、黒糖で作ったあめ玉をね、5~6個渡されたんですよね。そうしたら、このあめ玉を私たちはもう、本当にこの小さなあめ玉を5~6個ですよ。渡されたのを大事にしてね、今日も1個、明日も1個というふうにしてね、食べたりして。

夜は窓を開けて、月夜の日なんか開けてね、みんなも外に向いてね、歌を歌うんですよね、いろんな歌を歌ってね、歌いながら1人が泣き出すとみんなが泣くんですよ。1人が泣くとね、みんなも泣いてね、あと泣きながらね、もう寝ようって。蚊帳の中に入って寝て。翌朝また、飯上げ当番っていうのがあったんですよ。ごはんを運んでくる人。取ってきて運んできて配る人。飯上げ当番ってあったんですよ。飯上げ当番もちゃんと組まれてたから、誰と誰っていって。その前に点呼というのがあったんですよ。朝と夕方の6時半にね、点呼というのがあって、全部点呼の時間に間に合わせてね、バーッと行って並ぶんですよ。ぴしっと。そうしたら点呼を受ける人が、偉い人ですよね、下士官。下士官じゃない、将校ですよね。長い剣を下げて、長いアーマー靴を履いて、勲章が下げられたようなね。将校がね、受けるわけですよ、そうしたら。点呼のときはね、全部、兵隊もみんな一緒でしたよ。「八重山高等女学校、総員何名」あのときは、野戦病院に行ったのは30名でしたよ。総員30名、あの時は・・・、練休、欠席って言ったかね。詳しくはあるけど。「総員何名、欠席何名、欠席の何名かは練兵休」練兵休っていうのは、病気で休んでいるっていう意味が、練兵休。これも軍隊の言葉ですよね。「練兵休何名、現在何名、番号!」って言ったらすぐ、「1,2,3,4」と、2列に並んでね。私たちも軍隊のように厳しく、パッパッパッって動作しましたね。そんな動作をやることを練習しました。訓練の先生がね、「右向け右!」って、パッてやったりね、とにかくもう、ピシッピシッピシッとやっていましたね。今でも運動会に行くときは、行進なんかするときは、ダラダラ行くでしょう、あんなの見るとね、これは何でやと思うこともあったんですよね。

Q:そのときは、なんでこんなことやらなきゃいけないんだって…

大変でしたよ、ピシッピシッとしてね。号令も「1,2,3,4」と、早いんですよね。前列が号令掛けるでしょ?20何名って言ったら、20何名ってすぐ分かりますよね?2倍すれば。合計、合ってるなっていう。将校が何して。点呼が終わったらみんな宿舎に戻って、それから飯上げ当番がね、行ってごはん持ってくるんですよ。ごはんがたるに入って、このたるにお米はちょっとで、お芋が混じったりして。それからおつゆは、バケツに持ってきて。おわんはめいめい茶わん持っていったみたいな気がするね。

Q:無事に届けることはできたんですか。

持ってきて、この人たちが持ってきて、みんなの茶わん、そうそう、茶わん、めいめいで持っていったみたい。それでね、みんなの茶わんに入れてあげて、おつゆも入れてあげて、そんなふうにして食べて、終わったら今度、飯上げ当番が炊事場に行って返して、まためいめい自分で茶わんを洗って、自分のアレに片づけて。そんなふうにしてやっていましたね。朝も河原に行くときもね、点呼済んでから顔洗ったのか・・・宿舎は川のそばでしたからね。ちょっと大きな川でしたけどね。そこで自分の洗濯をしたり茶わんを洗ったりしたんですけどね、舎監と言ってね、先生ではなくてね、先生が舎監になっていてね。舎監の先生だって言ってね。

Q:お風呂とかはどうされてたんですか?

お風呂はね、兵隊の・・・兵隊と言っても、野戦病院に勤務している衛生兵ですよね、患者を別にして。患者はどんなふうにして浴びていたか分からんね。勤務していた人のお風呂場があったんですよね。山の中だから井戸から水をくむんだけどね、この井戸が深いんですよ。深いはずですよ。海から離れてるからね。深いところにつるべで水をくんで、ドラム缶よりちょっと大きな・・・自分たちで作った物、板で組み合わせて作ったようなお風呂でした。そこへ入って。私なんか最後でしたよね。だから、こっちも暗いから水が汚いのか汚くないのか・・・本当に汚かったはず、あれだけの人が浴びてるからね。それでも入らないといけないでしょう、電灯があったらもう大変だったはず。暗いところで、本当にカンテラっていうのかね、小さな缶に綿かキレかをやって油をやって、そのぐらいの明かりでしたからね。見えないわけですよ。だから、何とか汗を流すだけにして。夏の暑いときはまた川でね、自分の宿舎の川でね、したりしたけれどもね、あんなような思いでしたね。

そして、そのうちに伝染病室勤務というのがあったんですよ。1週間にいっぺんはありましたね。確か2人ずつだったと思うけどね。30名を1週間にっていうことは、ちょっと合わないと思う…。2週間にいっぺんだったかなとも思ったりするけどね、あったんですよ。伝染病室勤務と言って。それでそこの伝染病室はね、遠くに離れて、山の、みんなの病棟よりも離れたところにあったんですよ。そこに伝染病、主に腸チフスでしたね。腸チフスと・・・伝染病室って言ってね、もうほとんどがマラリアだから、ひどい人は隔離したのかどうか分からないけど、腸チフスでした。隔離されて、そこに当番に行くわけですよね。行かされたわけですよ。2人ずつだったと思うんだけど。ある日、私、その相手がね、私と誰だったかが分からないんですよ。あのときにすぐに書けば分かったはずだけど・・・。誰だったか分からない。そこで1人ずつ交代ですよね。あなたは何時まで、その間は寝ときなさいって言ってね。私がやって、そのときに日記を書いてたんですよね。このカンテラの明かりで。日記を書いてるときにね、「あんまー、あんまー、水ごあ飲ませ、水ごあ飲ませ」っていうのはね、「お母さん、お母さん、水飲ませて、水飲ませて」っていう沖縄本島の言葉なんですよ。「あんまー、あんまー、水ごあ飲ませ、水ごあ飲ませ」「お母さん、お母さん、水飲ませて、水飲ませて」って言ってる。私たちは八重山ではあるけど、言葉は違うけど、聞くことはできたんですよね。沖縄の人だって思って、本土の人だったらどうでもいいというようなことではないけれどもね、沖縄の人だと余計に世話したくなるっていうね、そんなような感じがあったわけですよ。沖縄の人だと思ってね、行ったら、もうやせて、こんなにやせてね、ひげぼうぼうしてね、寝てたんですよ。かわいそうに、かわいそうにと思ってね。「水飲ませて、水飲ませて」と言うけど、「どうしようか、どうしようか」と。思っていたんですよね。水飲ませたほうがいいかねと思ってね、もう1人、寝てる人を起こして、「あんなふうに言ってる沖縄の人だけど、どうする?水飲ます?かわいそうだから水飲まそうか?」ちょっと行ったら水があったから、山の中だから、あちこちに川があるんですよね。「飲まそうか?」と言ってね、「どうする?」って。水を飲ましちゃいけないということを言われていたから。勝手に水や薬…薬は、もちろんないけど、勝手に何かしてはいけない、衛生兵に連絡するということでしたから。「でも、どうする?どうする?水飲まそうか?飲まそうか?」って言っている間に、とうとう息切れて、亡くなってしまったんですよね。もう、物も言わなくなって、ちょっと息はしているようなアレでしたから、もう急いでね、兵舎に行って衛生兵に、「こんなこんなしてるけどね…」って言ったら、衛生兵が1人来て、カンフルって言ってたかね、あの薬を。こんな小さな、本当に小さな瓶ですよ。それを打ったけどね、ダメでした。

それから、死後の処置をしなさいということでね、死後の処置っていったら、空いてるところ、鼻とか口、お尻の穴とかにね、脱脂綿をみんな詰めるんですよ。詰めてからね、「担架持っといで」って言ったから担架を持ってきて、衛生兵も一緒に手伝ってね、これに乗せて、「しかばね室に連れて行きなさい」って言ったもんだから、下から上に道があるんですよね。登って。もう夜だから、担架持ちながら、足で地面を探りながら、担架に乗せて2人でかついで山の中を、坂を登っていって、道路があって、その道路を越えた向こう側に、畑の中にしかばね室があったんですよ。そのしかばね室ではね、線香が1本だけ立ってる。外から見えないでしょう?だから線香の明かりぐらいだから。そこに立ててね。いつも誰が立てていたか分からないけど、立てられてて。そこの中に置いてね、戻ってきたけれどもね。今考えると、たった2人ですよ、夜中ですよ。こんなふうに担いでいってね、この人もね、一家の大黒柱であったお父さん。子どももいる人かもしれない年齢も分からないんですよ。若い人か年寄りかもね。兄弟もおるはずなのに、親もいるはずなのにね、こんな死に方をしてね。あのときはもう、あんたのうちの子どもはどんなふうにして死んだって知らされないでしょう。ただ、名誉の戦死というだけで済まされたような気がするんですよね。

兵隊がね、機銃でやられて、貫通されて。頭から入って目をやられて、どっちから入ったか分からないけど、頭をやられて、目玉をやられて、それからアゴがこっち側が取れて、こんな兵隊が運ばれて来たんですよね。この人はもう、うなりながらね、そのとき私たちはもう、まだ兵舎に行ってない時間だったのか、兵舎に行ってからか・・・よく忘れるからねえ、忘れちゃいけないことを。とにかく看護婦みんな、「手術室の前に集まれ」ということだったんですよね。あのときまだ行ってすぐだったはず。まだ勤務を決めなかったときだと思う。集まれということだから行ったらね、貫通されてね、手術するときはもう、麻酔もないんですよね。麻酔もなしでやったら、「痛い、痛い」って動くんですよ。そしたら衛生兵が、手をぎゅーっと握って縛ったりしてね。「痛い、痛い、痛い」と言ってね、何してるけれどもね、それでも麻酔もやらなくてね。そしてこの人も、「水、水、水、水くれ、水くれ」って言うけれども、傷のある人に水を飲ませたらいけないということでね、水も飲まさないでね。私たちは見てるけどね。見ろと言うことだから。見てるけれども、誰も知らんふりしてね、よそを向いたりしてね。「誰だ、よそを向いてるのは!見ないで」って怒ってね、「それでも看護婦か」って言われて。そのとき看護婦の資格というのは、本当にないわけですよね。怒られたらまた、見るふりして目をつぶって。とってもかわいそうだった。そんな人はね、後はどうなったかも分からないわけですよ。それと同じように、またある日、手術してる前に、集まれっていうことがあったんですよね。そのとき朝ごはん食べた後だったか、夕ご飯食べた後だったか、そこに行ってね。そのときは脳の手術をするということでした。あの時はもう、亡くなってたの。死んでた人。連れて来て亡くなってたような気がする。それで、のこぎりみたいなのでね、脳を切ってよ、こっちね、切ってからね、ここんとこピッて置いて。毛はみんなそってからだったかね。切って被せてね、このくらいの脳、どろどろしたのを、「これが脳です」って見せて。もう、誰も見ない。目をつぶってね。したけれども。とっても怖かった。もう、「家に帰りたい、家に帰りたい、もうこんなの見たくない、家に帰りたい」と思ったけれども、家には帰れないし、先生にいくら言っても、先生は分からないさね。もうそのとき、なんでも隊長の命令ですから。この人たちもね、こんなにしてね、戦争っていうのは本当に大変だって思いましたけどね。

Q:黒島さんは、空襲は実際に遭われたことはありますか?

はい、もう毎日のようにね、機銃があったら防空壕に入ったりして。どこの防空壕でもいいから近くにね、入ったんですよ。開南に行ってからは。学校に行ってからはね、空襲が始まっても、行く途中に2~3軒、あっちの防空壕に入って、こっちの防空壕に入って、木の陰に隠れたりして学校に着いたんですよ。そしてある時、沖縄本島は10月10日ですよ、十・十空襲っていってね、石垣は12日だったんですよ。第1回目に空襲があったのは12日でしたね。朝ね、朝礼をしてるときに、8時半すぎぐらいでしょうね。あの時、校舎の体育館とか、あんなのないから、校舎もかやぶき校舎だったから、運動場で朝礼もしたわけですよ。校長が訓示をなさってるときに、飛行機の音がしたわけですよね。あれまでは、飛行機の音ってあんまり聞かないけどもね。あの時、飛行機の音がブブブブ・・・あったからね、あれ?飛行機だねって思って見てたら、向こうから来たのが4機編隊ですよ。4機、前に2機、後ろに2機で。4機編隊で来たもんだからね、私なんかみんな、「あっ4機編隊だ!」って言ってね、あの時に、いろんな衛生兵や軍曹とかから、アメリカは4機編隊、日本は3機編隊、前に2機、後ろに1機、日本は3機編隊、アメリカは4機編隊っていうことを知らされていたんですよね。それで4機編隊だったもんだから、びっくりして「4機編隊だ!」って言って、みんなバーって逃げたわけですよね。あの時に防空壕は、私たち堀りかけていた防空壕が・・・空襲ってどんなにひどいものなのかも分からないで、簡単な防空壕を掘っていたんですよね。そこにもどうやって入ったか分からないけど、半分作りの防空壕で。そこに入って、またあちこち逃げた人も。そんなこともありました。そのときね、機銃掃射はなかったんです。ただ、偵察機だったらしい。後で聞くとね。ここは学校だ、ここは何だというようなね、偵察機というようなものだったらしい。それで爆弾を落としてなかったわけ。学校の上をね、本当に低空でしたよ。この星印が見えるぐらい。4機編隊で星印が見えたからみんな逃げたけどね。

それから、だんだんだんだん強くなって、山に行って、山では食糧確保して、それから宿舎に入って、それからみんな勤務先を決められて、いろんなことをやって。点呼があって。朝6時半に点呼があって、だから逃げることもできないんですよ、点呼があるからね。もしここで、1人でも数が合わなかったら、先生が大変ですよね。この責任者が大変なことになるらしかったんですよね。とっても大変でしたね。あんなふうにしていたけれども、もう、どんどんどんどん空襲ひどくなるでしょ。10日にいっぺんの外泊もなくなって。ある日私ね、とっても、なぜかしら、おばあさんのことが気になってね。あの時もう、会いたくて会いたくてたまらないわけですよね。そして舎監の先生にお願いしてね、「先生、あしたの朝の点呼までに必ず帰ってくるからね、おばあさんを見に行かせて下さい」って言ったんですよ。そうしたら、「いや、できない。自分の命令ではできない。自分の命令ではない。隊長の命令だからね、隊長も確かに行かさないはずだから、行くな」って言ったんだけど、私は、「お願いですから、絶対にうそつきません。必ず来ますから、必ず来ます」って言ってね、お願いしてね、やっと「本当に来るか」と言ったから、「はい」と言ってね、行ったんですよ。裏を回って、山の道が分かったのは、普段から山に薪取りに、土曜・日曜はよく行ったんですよね。だから、この山はこっちから行ったらどこに出るというのは大体分かっていたんですよね。山に、おばあさんとよく行ったり。またこっちから入って、またあそこから出たりというような。分かってた。たいがい川を沿っていくと道路に出て。でね、分かったもんだから、そこの裏を通って、自分のうちに行ったんですよ。そうしたら誰もいない。夜ですからね。夕方なんですよ。点呼済んで6時後。夏の6時後っていったら、ちょっと明るいからね。でね、誰もいないんですよ。そして前のうちに行っても誰もいない。もう、いんやあんやって言って東・西のうちに行っても誰もいないんですよね。

そうしたら、私は普段からね、畑のそばに洞窟があったんですよ。これは掘ったものじゃなくて、昔からのね、自然な洞窟が。そこに行ってるかもしれないと言ってね、そこに行っても誰もいない。それで私は道に出てきてね、ただおったら、暗くなってから、人通りが多くなったんですよ。昼間は誰も通らないんですよ。暗くなってから、人通りが。多分、だからね、人通りの多かったのも分かるし、山の道を中まで入ったのも分かったから、月夜だったような感じもするんですけどね。月夜じゃなかったら、到底歩けなかったかもしれないね。でね、私は通る人にね、どんどん暗くなったから人通りが多くなったんですよね。そして、石垣四丁内、町内があったから、「石垣四丁内はどこですか? 石垣四丁内はどこですか?」と言ったらね、教えてくれたんですよ。「みんなね、もう町には人いないよ。村には人いないよ。みんな山に避難したよ」って言ったもんだから、私は、その前からもうちゃんと、町役場から、石垣町はあの時、石垣町だったから、町役場から登野城、大川が、大川の避難所は白水山、それから石垣はふかやまたという、ふかやまたって、本当の名前がふかやまただし、私なんかいつも山に行くとき、「かーらふたーぜ、かーらふたーぜ山」って言ってたんですよ。そこのふかやまたという山。川が2つあって、流れてね、そこにもなんべんも行ったことあるから、石垣はそこ。それから新川は、うがどうって言ったかな、そこに行くことということは知らされていたんですよね。市役所でも、軍事課といったかね、あんな課から知らされていたもんだから、私はその、かーらふたーぜでいつも通っている道を通ってね、行ったんですよね。それでも草はぼうぼう生えているしね、そこを草を分けながら歩いて、木の枝は垂れてるし、この木の枝をはらいながら、もう涙も出ながらね。そして道を通る人は、村なんかには人はいないけど、山にはいたんですね。そして「石垣四丁の家どこ?どこですか」って言ったら、「ああ、もう少ししたら小屋があるよ。そこへ行きなさい」で、言うとおりに行って、また会ったら「石垣四丁の家どこ?」って聞いてね、そうしたら「どこどこよ」って教えてくれたら、小屋があったんですよ。

そこに入ったらね、人はあんまりいない。おばあさんとね、2~3軒の人がいたんですよね。みんな、もっと危ないから親戚同士とか何とかで、作って移っていったんでしょうね。そこも聞いてないから。それで、おばあさんと2~3人しかいなかったんですよね。そこに入ってね、私はうちのおばあさん、あのとき夜だったから、寝てたんですよね。蚊帳の中で。寝てたから、私は見て、おばあさんだねと思ったから、すぐ「みい」と言ったんですよ。「みい」というのは、おばあさんということ。「みい」と言ったんですよね。そうしたら、おばあさんが、声聞いてパッと起きたんですよ。起きてね、そのとき涙がどーっと出てね、声も出ないんですよね。涙だけ出して。2人とも涙だけ出して。おばあさんも「どんなにして来たか!」って言っても言わない。そしておばあさんはね、すぐね、「ごはん食べた?何食べた?」って言ってね、自分がちょっと持っていたお米を、五目じゃなくて、ジューシーってなんていうの? 

Q:ジューシー、五目ごはんみたいなもの。

五目ごはんを作ってあげたんですよ。だしも何もなかったはずだけどね。米のごはんだったから、おいしかったんですよね。そこで2時間か3時間ぐらい寝てね、翌日3時か4時ごろ、また出て、今度は出口も分かるわけですよね。そこから出て、おばあさんずっとついて、自分は途中まで行くって言ってね。出たわけですよ。そうしたら、おばあさんは大きな道に出た。出てからね、私が「ここからいいからね、もう帰んなさい、自分一人で分かるから帰んなさい。」って言ったら、おばあさんはね「行くな、行くな」、方言でね、「行くなでよ、行くなでよ、行かないで、行かないで。戦はどうなるか分からんからね、行くな、行くなでよ、行くなでよ、行くな、行くな、行くなと言ったら、行くなと言ったら」って言ってね、言ったんですよ。それを、私はもう学校の先生ともアレしてきて、行かんともう大変だしね、先生が大変なことになるしね、と思って行ったんですよね。そうしたら、行きながら、また機銃(掃射)があって。その大きな幹の所に隠れてね。あの時にね、飛行機が来たらね、こんなにして当てなさいって、飛行機に当てなさいって。当てたらね、飛行機がね、敵機が来たらね、こんなにして飛行機に当てなさいって。こんなにしてね、飛行機に当てたら、飛行機がね、自分のこの指の上から来たら、自分のところに来る。だから隠れ場所を移せということだったんでしょうね。横から来たら、この飛行機が横から見えたらここか、ここから見えたら、ここには来ないから心配するなということを聞かされていたんですよね。聞かされていたからね、すぐこんなふうにして、思い出して、大丈夫かなと思って。

Q:そのときは、帰ったんですか?

やっとで、どうにかあっちに隠れ、こっちに隠れしてね、着いたんですよ。6時半前に着いたわけですよ。そうしたらね、先生がね、私を見てからね、すぐ、旧姓、国吉ですから、「国吉!ありがとう!」っておっしゃったんですよ。「国吉ありがとう。来なかったらどうしようかねと思った。国吉、ありがとう」っておっしゃったんですよね。そうしたらね、私も来てよかったなあって思って。おばあさん、かわいそうだったけどね。あんなにして、点呼済ませて。こんなこともありました。舎監の先生もね、沖縄本島からいらした方なんですよね。この先生の洋服も、もう単身赴任でしたから、洋服もないわけですよね。シャツの後ろが破れたり何したりして、針・糸もないでしょう。「これ、何とかして直して」とおっしゃったら、私なんかも針と糸持ってる人も。何かで結んであげたりしてね。今考えると先生にもね、悪いことしたんだなあって思ったりね。いろんなこと考えるんですよね。

私たちの同僚が病気をして、マラリアにかかってね、脳症を起こしたんですよ。でも、誰も残ってこの人を看病する人がいないわけ。みんな行くでしょう?自分の勤務に。その人は帰ってきたら、自分の妹の名前を呼んで、「とみこ、こっちにおった。どこにも行くなよ」って。脳症を起こしてね。やったりしてたけれどもね、私たちもとっても・・・。そして、ちょうどこの人が亡くなる前の日、私が当外出だったんですよね。あのときまでは、うちのおばあさん家におったから。そして外出して帰ってきたらね、衛生兵が、宿舎にまだ入らない前の道でね、「さっき崎山さん亡くなったよ」って言ったのよね。もう涙が出てね。まだ連絡ができなくてね。あのとき電話もないでしょう。連絡もできないしね。もう、避難もどこに字別なら、どこどこって分かるけど、本当の場所はどことも分からないしね。この家に連絡ができたのも、誰がどうしたのか分からないけど、お父さんが迎えにいらしたのがね、夜遅くですよ。馬車を連れて、お父さんが迎えにいらしたけどね。そのときも、この人を迎えてみんなで見送ってね、この人が好きだった、「乙女挺身隊」の歌を歌い、みんな泣きながら歌って、行かしたりね。そんなことはしたんですけど。この人が亡くなったのはね、もういつだったかも覚えていなかったけど、戦後、2~3年前、この人の追悼会っていうのを・・・死んだっていうのを分からない人もいっぱいいたんですよね。それで、やろうということで、こっちなんかも一緒に何して、あのうちでやったんだけどね。8月1日に亡くなったらしい。終戦は8月15日ですよ。あと2週間生きれば・・・。

終戦の時はね、於茂登山に引っ越していたんですよ。というのは、艦砲射撃があったもんだから、いよいよ大変だから、今度は山に入ろうということで、於茂登山に入ったんですよね。私たちは先に、そして衛生兵の一部と重症患者を残して、於茂登山で、入るところが決まった時にみんなを運ぶというようなことで、私たちは先に行ったんですよ。そのときに、私たちは食料運搬をしたり、薬剤運搬をしたりしてね、2人で担いで、ずっと山中を、於茂登山の上に下ろして、また来てまた運んで、1日に2~3回もやってね。

山の中で風呂の中、風呂と言ってもね、川の流れの所を囲んでね、川の中でよ、囲んでここを風呂場にして、だから水は流れていくわけですよね。そこを風呂場としてね、ちょっと深水がよくたまるところだった。そこに、入るようになっていたんですよ。ある日の夜、風呂に代わる代わる行くんですよね。行って風呂から帰ってきた人がね、「とってもおかしいよ。みんな下でわいわいわいわい騒いでるさ」って言ってるときにね、もう1人の人がね、下の道で、私なんかは宿舎は上だし、風呂は下だし、道があって。そこでね、通信兵がね、通信兵と言ったら農高、農林高等学校の生徒とか、中学校の生徒たち。その人たちがね、「日本が負けたよ」と言ったらしい。言ったよ。だけど自分は、本当とは思わないけど、自分が言ったら、大変、非国民だというようなことになるような感じでね、本当とは思わないけど、「通信兵が負けたよと言ってるよ」と言ったのよ。そうしたらね、みんなね、「あんなことがある?日本がね、神国なのに負けるわけないでしょ。もし負けそうな時があったらね、神風が吹くとか、絶対日本が負けることはない」というようなことを教えられていたから、絶対に負けることはない、神国だというようなことを、強く言われていたもんだから、「だから本当とは思わないけどよ、本当とは思わないけど」って言い訳しながら言ってたけど、次に来る人がね、「おかしいよ、おかしいよ」って言ってたから、じゃあ私たちも行こうって、私も交代で行ったわけですよ。で、風呂に入って、そうしたらね、下士官室・・・兵舎、下士官室、将校室っていうのがあったんですよね。兵隊の所ではわいわい騒いで、何して、すすり泣きをする人もおるし。下士官室ではまたね、「もうこれで自分は帰れる!」って言ったりしてる人もおるし、涙を出して泣いている人もおるし、将校室ではね、日本刀をね、バンバンっと日本刀をみんな集めてたんですよ。日本刀をね、パパパッてね、投げてね。みんなもう黙ってたけど、みんな「やっぱりおかしいよ、おかしいよ」と言ってね、上に行ってね、「おかしいよ、あんなふうに言ってるよ。こんなにして、剣も日本刀も投げてるよ」って言ってもね、全然負けるってことは考えてないわけ。

「今日からは壕堀りをやめます」と言ったんですよ。それで、戦争に負けたとか、原子爆弾が落とされたとかいう話はなくて、今日からやめますと言ったんですよね。だからちょっと変ねと思っていながらもみんな、私なんかも、またもう1回下りてきたんですよね。下りてきたら、今度は伍長兵がね、集めて、「実は長崎と宮崎(広島)に落とされた」って。それが1個落とされたらね、そこを中心に四方、4里四方は何にも残らないと。植物も何も植えられないと、何もできないというようなことを知らされたんですよ。日本が負けて玉音があってどうのこうの…だから、下士官とか兵隊は聞いてるわけ。私なんかは聞かされていないわけ。そしてそのときはね、1日何もしないで、木の根っこでみんな座ってね、「本当に負けた?本当に?」って言ってね、ずっとこうしていたんですよね。翌日からは炭焼きをさせられたんですよね。そして炭焼きをして、炭をどうしたかも分からないの。炭焼きをさせられてね、ずっと炭焼きをして、あれから帰還といって、みんな帰るあれをやったみたいだけど、野戦病院はマラリアの重症患者がいるでしょう。傷ついた兵隊がおるでしょう。こんな重症患者をね、今、行かされないからということで、私たちはしばらくおって、6月頃に・・・6月頃じゃないね、8月15日より後に、一緒、今の中学校・・・、町なかに来たんですよね。町なかに来て、そこでまた衛生の仕事をしたわけです。残りはみんなもう帰ってるわけですね。野戦病院の人たち、だけど一部は重症患者を残してずっとしばらくおって、翌年の1月何日かに業務終了ということで船に乗せられて、行って、それから・・・

Q:黒島さんも、その重症患者の・・・

一緒に来ても、私たちは残されていました。そしてしばらくしてね、何月からかな、何月ごろからかね、学校が始まったんですよ。学校が始まったけど、毎日じゃなくてね、5の倍数、5、10、15日、そのときだけ学校。だから、そのあとも、学校に来てもね、マラリアを再発して。マラリアっていうのはね、背中がぶるぶるって、最初分かるんですよね。ぶるぶるって普通の震え方じゃないんですよ。カッカッカッカッカッカッカッカッってね、こんなふうにやって、そして震えが止まると、高熱が出るんですよ。40何度とかね、高熱が出て、水も水道というのがないから、水をくんでね、何したりしてね。

Q:ご自宅に戻られたのはいつですか。戻っておばあさんと再会されたのは・・・

戻ったのは9月頃です。終戦の後。9月頃トラックに乗せられて、戻ったんですよね。戻ったら、おばあさん帰っていました。大変ありがたいことに、うちのおばあさんはね、マラリアにかからなかったんですよ。かからなくてね、どんな養生していたか分からないけどね。かからなかったから幸いですよね。だけど家に帰ってきても、食べ物がないんですよね。そしてお芋、ムイアッコンっていってね、掘り残したお芋が芽が出ますよね。そうしたら、下にお芋があるのが分かるでしょう。それを拾ってきて、おばあさん毎日、これを拾いに行ったり、稲刈りしたところに行って、稲穂の残りを拾ってきたりして、拾ってきたのを瓶に入れて竹でつつくと精米できるわけですよ。これでやったり、さらにうちのおばあさんは、石垣島でも、本当に田舎の町の人だったわけ。それで、ソテツの実の食べ方も分かったわけですよね。ソテツの実はただ食べると毒になるから、実を割って水につけて替えて、というような食べ方も分かったからね、飢えをしのいだというか。また、海に行って潮干狩りをしたり、それから雨が降ると、畑に行ってカタツムリ。カタツムリも食べましたよ。カタツムリをとったり、また田んぼに行ってタニシがおったんですよ、あのときは。農薬というのがないから、タニシがいっぱいおったんですよ。タニシを拾ってきて食べたり、潮干狩りに行くと海に行って貝を拾ったり、これがもう、タンパク源ですね。こんなにしたりして、庭にある草の中から食べられる物を取って食べたり、そしてある日もうご飯を・・・

Q:戦後、小学校の先生になられますよね。そのとき、どうして先生を目指されたんですか?

あのときはね、先生が足りなかったのかね。先生方もみんな辞めて、先生したら給料で食べられないわけですよね。辞めて畑を作ったり、あんなことをしていたわけです。私たちは、教員養成所というのを町が作ったんでしょうね。そしてそこに入って、そこで講習を受けてから教員になったんですよ。そのときの給料がね、最初4百何十円だったかね。反物、浴衣1枚買えなかった。お芋10キロも買えなかった。そのぐらいの給料でも私たちは、家族が、また、台湾に行った家族がみんな引き揚げてきて、戦地に行ったおじさんたちがみんな引き揚げて、食糧難がもっと大変になったわけですよ。マラリアが大変だったのに、台湾に儲けに行った人、仕事しに行った人、それから台湾は台湾でも、みんな、日本人が追い出してるからね、だからみんな帰して、兵隊に行った人もみんな帰ってくる。人口がばっと増えてね、食糧難がもっとひどくなったわけなんです。そんなときにも雨が降ったらカタツムリを拾いに行ったり、貝を拾いに行ったり、こんなのがタンパク源で、庭にある草を取ってきて、米ちょっとに、ジューシーを炊いたりしてるときにね、いっぺんうちのおばあさんがね、夕飯にするって言って、炊いてるごはんをパッと見たら、兵隊が取って食べていたんですよ。食べていたもんだから私はね、「おばあさん、おばあさん、あんなにしてよ、食べてるよ」って言ってね、そうしたらね、「食べるな」とも言えないからね、黙って見とけって言ったら、その人食べて出て行ったんですよね。翌日も来たんですよ。食べてたから、私もう怒ってね、おばあさんに「私、食べるなって言ってくる」って言ったらね、おばあさんは「言うな」と。こんなにしてね、うちのおじさんも南方に行ってるから、おじさんたちもね、こんなにしてね、ものを欲しがってるかもしれないからね、「いいよ、食べさせなさい。言うな、言うな、そのままにしておきなさい」って言ったんですよ。うちのおじさんたちも、こんなにしてね、欲しがってるかもしれないからね、言うな言うなって言ったもんだから、「あっそう」って言ってね。それからはね、時々来ては、うちのおばあさんもそのつもりで、食べられる草をいっぱい持ってきて炊いたりしておいてね、そうしたらよく来て食べてて、自分は四国の人だと。早くに帰りたいって言っていたけどね。自分の家のおじさんたちも、こんなにしてね、苦しんで物欲しがってるかも分からんから、「言うな、言うな、食べさせろ、食べさせろ」って言ってね。

Q:戦後もこのように語る活動をね、いろんな所でお話をされてますけれども、その源っていうのかな、それは…

戦争の話をしたらね、私はただね、石垣島にも戦争はあったんだって。みんな沖縄本島だと思ってるからね。石垣の人でも。石垣島でも、今の教員でもみんな、中心部の人だから分からないけどね、石垣島でも戦争あって大変だということを知らせなければいけないというようなね、責任感みたいなものがあって、話は下手だけど、「うん、行くよ、うん、行くよ」って言ってあちこち回りました。子どもたちにどのくらい分かったか分からないけれども、感想を見たらね、こんなような、これあちこちからもらった感想をね、抜き取ってちょっとずつ入れてきたんだけどね。これは登野城小学校2~3名よ。もう、こんなもの、ただ2~3…

Q:すばらしいですね。みなさんね。

こんなものをね、もらってきた物ですけど。

Q:最後、その平和の大切さというか、思いをお聞かせください。

今でも時々、新聞とか何か見るとね、憲法9条とかあるでしょう。また戦争始まったらね、またこのようなことをやるのかねと思ったらね、とても胸が痛くなりますね。

出来事の背景出来事の背景

【沖縄・八重山高女学徒隊】

出来事の背景 写真太平洋戦争末期、住民を巻き込んだ激しい闘いが繰り広げられた「沖縄戦」。
離島である石垣島では米軍の上陸はなかったものの、艦砲射撃や空爆によって被害を受けました。
この戦いでは、多くの女学校生たちが軍の病院などに動員され、看護助手や食事の準備などに当たらされました。

沖縄県立八重山高等女学校では、昭和20年3月に念願の本校舎が完成しましたが、そのわずか2か月後、軍の司令部や各陣地の建築資材として解体されてしまいました。昭和20年4月、八重山高女の4年生約60名は、陸軍病院と海軍病院と野戦病院に動員されました。野戦病院の情況は特に過酷で、重傷の負傷兵だけでなく、重度のマラリア患者も運ばれてきました。女子学徒の1人もマラリアにかかり命を落としています。学徒の中には終戦を迎えても、翌年の1月まで野戦病院で兵士たちの看護に当たった人もいます。
また、石垣島では、住民がマラリアの発生する地域に疎開させられたため感染者が続出しました。

証言者プロフィール証言者プロフィール

1929年
台湾で生まれ沖縄・石垣市で育つ
1942年
沖縄県立八重山高等女学校に入学
1945年
2月~3月、看護教育を受ける
1945年
4月、第3野戦病院に動員される
 
8月、於茂登岳で終戦を迎える
 
戦後は、教員となる

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