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タイトルタイトル: 「石垣島の陸軍病院に動員」
名前名前: 徳山 昌子さん(沖縄戦 戦地戦地: 日本(沖縄)  収録年月日収録年月日: 2014年6月16日

チャプター

[1]1 チャプター1 八重山高等女学校へ  05:08
[2]2 チャプター2 建築資材になった新校舎  04:22
[3]3 チャプター3 病室となった墓  03:33
[4]4 チャプター4 マラリアに苦しめられた人々  03:00
[5]5 チャプター5 山で迎えた終戦  03:21
[6]6 チャプター6 教師になった戦後  03:43

チャプター

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提供写真提供写真

収録年月日収録年月日: 2014年6月16日

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Q:八重山高等女学校に行かれるきっかけっていうのを伺っていいですか?

そうですね、だからそれはね、八重山は沖縄本島の離島になっておりましてね。それで中等学校がありませんでした、八重山にですね。それで、私の一期上の先輩たちが、沖縄本島の中等学校にね、受験をして進学しておられたんですよね。それで戦争が始まって、八重山にも中学校、女学校を作ったほうがいいという郡民のね、強い要望でできた学校なんですよ。そこに、昭和17年に、私たち1期生として入学しました。ところが、もう女学生になりたてで、とてもうれしい気持ちでいっぱいでしたけれどもね、学校創立はしたけれども、校舎や教室、まったくないんですよね。それで、登野城小学校の作法室、そこで64名のね、生徒が不自由な学校生活を始めました。ところが、翌年18年に2期生が入学してくるんですよね。そしたら今までの私たちの教室は2期生が使うことになって、私たちはちょっと離れた新川会館という所にね、移動して、そこでしばらく通学してましたけれども、同じ学校の1期2期生がこんなに離ればなれではね、いけないじゃないかっていうことで、保護者会とか、教職員、それから生徒が協力して、現在の八重山高校の敷地内に仮教室を… かやぶきのね、床やドアまでよ、とてもお粗末なね、仮教室でしたけど、初めて1期生と2期生が共に学習できるということで、とてもうれしかったです、あの時はね。そういう状態で。そして校長先生はですね、元の一高女(県立第一高等女学校)の体育の先生で、とてもダンスのお上手な先生でね、私たちに「ファースト」というダンスを教えてもらって、そして運動会には、直接、この校長先生の指揮で踊りました。楽しい思い出になっております。それからまた、音楽の担任はですね、糸洲長良先生といって、八重山出身の宮良長包先生ってご存じですかね? その方のね、まな弟子で。それで、その長包先生の作詞作曲なさった曲はほとんど教えてもらって、私たち最高の喜びでした。そして、そうですね、いろんな先生方が沖縄本島からいらしてましたけれども。

Q:そのころはまだ、戦争の影というか、

そうですね。だんだん、だから激しくなってきてですね、もう授業どころじゃないんですよね。私たち体験したこともない竹やり訓練とか、消火訓練とかね、防空壕掘り、それから飛行場のね、作業にも連れていかれましたよ。それで私たちはもう、戦争も経験ないしね、それから、その当時はもう言われたことを行動することしか、もう教えられてもいませんしね。「キツイ」とも何とも言えませんでしたからね。そういう時代で、また日本はね、必ず勝つ、それから負けそうになったらね、神風が吹いて必ず勝つんだって、どの先生からも言われた。今で言う皇民化教育のね、指導をされていましたので。英語の学習は、そのときなくなりましたけどね。

私たちはですね、20年の2月5日から、3月30日までは看護術教育を受けました。そして、これは実習が主でしたけどね、包帯の巻き方とか、副木の当て方とかね、実際に看護の指導でしたけど。そうしてその後に、私たちはへちま襟の制服でしたけど、それがもんぺに変わって、それから学校に持っていった学習用のかばんは赤十字のマークをつけた、あとで写真をお見せしますけど、それを肩に掛けて、野戦病院に30名、それから陸軍病院に20名、それから海軍病院に10名行ってね、配置されたんですよ。それで私は、さっき書きましたけど、球4173部隊のね、陸軍病院(船浮陸軍病院)、そこに配属されて。病院には軍医が5~6名と、それから正看護婦が3名、准看護婦も3名でしたね。それに衛生兵とかね、それから炊事班の兵士、あの方たち数名と、学徒隊の私たちが勤務するようになりました。

そういうことがありまして、それから、その間にですね、仮教室をね、1期2期が学習できるようにって仮教室を作りましたよね? その仮教室の横にね、赤瓦の立派なね、私たちの校舎ができたんですよ。ところがね、それは私たちも土をこねたり、瓦を上に上げる作業の手伝いをしたりしましたけどね、きれいにできあがった校舎をただ眺めるだけで、私たち一歩もそこに入れてもらえなかったんですよ。それはね、軍のね、兵舎のね、建築資材になって、撤去されてしまったんです。せっかくできた校舎をね、見るだけでね、中にも入れてもらえない。もう、そういうことってありますかね? 今考えたらね、そのときはもう、抗議することもできないし、軍の命令にはもう従わないといけませんしね。そういう状態で、私たちは学校生活でしたけど。

今だったらね、抗議もできるはずですけど、あの当時はただね、言われたことをただ忠実に守るほかありませんでしたね。そういう時代でした。

Q:徳山さんとか、お友達の方とか、どういうふうに言ってました?

だからもう、「眺めるだけで、こんなことってあるねえ?」って言ってから、みんなね、涙流して。撤去する場面はもう私たちは看護隊に動員されて、見ていませんけれどもね。たぶん1期生と2期生は仮教室で勉強してましたから、2期生は目の前で撤去されたのを見ていると思いますけどね。そういう状態。このようにもう、学校を落成したけれども入れなかったという悔しい思いね。いまだにね、もう忘れられないです。もう女学校に入学はしたけれども、校舎もなくて仮教室でね、卒業もまた、黒島さんが話すと思いますけれど、卒業のときもね、仮教室でしたよ。もう転々と。自分たちの校舎というのに入ったことがなくて卒業しています。

陸軍病院に行きました。私は薬室勤務でしたけど、それは話しましたかね?

Q:それは伺ってないです。

薬室勤務でね、それで正看護婦の元に、薬の調合をしたり、包んだりね。それから、それを配ったりという仕事で。私たち陸軍病院は、野戦病院ほどね、仕事はきつくなかったんですけど。あとで、この野戦病院の人たちの話を聞いてね、とてもすまなく思ってるんですよね。

Q:それは、どういう?

仕事が軽すぎて、私たちは。特に私は薬室勤務しか体験していないしね。ほかの病室勤務の人もいましたけれども、そういう経験をしてないもんですから。

Q:薬室勤務っていうのは、具体的にどんなことをする?

だから薬の、正看護婦さんがいらして、その人の指示どおりに、薬を調合したり。それから、それを包んで、それを配ったりね、する仕事。簡単な仕事でしたけどね。そういう仕事しかしていませんしね。それで病室勤務の人はまた、大変だった話はね、帰ってきてから兵舎で、夜はみんな、さびしいって泣いてましたけれどもね。そういうことで、1人が歌い出したら、またみんなが外に出て・・・あのときはね、私たちは・・・舎監の先生で女の先生がね、あの方、子どもさん2人をね、連れて、一緒に私たちと行動を共にしていらっしゃいましたけどね。中で泣いたりしたら怒られるけど、外に出て月を眺めながらね、みんな、1人が泣いたら・・・って、そういう時代でしたよ。何しろ、15~6歳のね、まだおうちを離れたこともないような時代でしたから、大変な目に遭いました。

Q:そのころは、ご自宅から通いで行かれてたんですか?

そうね、一時は通ってましたけど、その後はみんなで合宿になってですね、民家を借りて、そこでみんな寝泊まりしながら。それから病院に行っては、戦火が激しくなってきたら、今度はお墓がね、病院でしたよ。

Q:お墓が病院?

お墓のね、みんなお墓の中のお骨をね、後ろに片づけて、前のほうは私たちが寝泊まりしたり、それから患者をね、入れたりして、お墓ごとに内科とか外科とか、そういうふうにね、分けて使っていましたけど。空襲のない日は庭で手術。患者の麻酔もない手術などあったりしましてね、もう大変でしたよ。見ておりませんでしたけどね。私は臆病者で、それで薬室に回されましてね。

空襲はもう、飛行機が、機銃掃射とかね、それから夜になったらもう、敵機が来たと言って電灯にカバーをかけて暗くしてね、防空壕に入って。そして、入ったり出たりの生活でしたけれども。時々大きな爆弾が落とされて、たくさんの人が・・・「あちらの人が亡くなってるよ、こちらの人が亡くなってる、どうだ」ってことをね、聞かされましたけど、私たち何しろ、あのとき、まだ幼いでしょ? そういう戦争の体験もないしね、そういう話を聞かされても、自分の身の上のこととは思えない。遠くのことに感じたんですけどね。もう、沖縄本島みたいな激しい地上戦ではなかったですが、そのあとの、マラリアがね、大変でしたよ。戦争マラリアって言ってね。それから…

Q:怖かったですか?

はい、怖かったですよ。

Q:徳山さんのお友達でも、マラリアにかかった方がいらっしゃいますか?

そうね、野戦病院に派遣された人、1人、亡くなった方がいますけどね。私たち陸軍病院には、そういう人はいませんでしたけど。マラリアにかかって、3日熱でね、今までこう、みんなと一緒に同じ行動をしてたのに、震えてるから、急に「寒い、寒い」って言って。このマラリアにかかったらですね、本当にもう不思議なもので、布団をたくさんかぶせても、止まらないんです、その震えが。上から押さえつけたりして。そして熱が下がったら、またケロリとするんですよね。とても不思議な病気でしたけどね。そういうマラリアで、終戦後は大変でしたよ。戦争が終わってまで、戦争マラリアって言ってからね、たくさんの人が。それで避難させられた所も、軍はマラリア地帯と分かっていながらね、そこに強制避難をさせて、たくさんの方がマラリアにかかってね、亡くなっています。

Q:徳山さんは、終戦というのは、どちらでお迎えになりましたか?

終戦は、だから於茂登山でしたけど、あのときは今のような情報も全然ね、分からないし、どういうふうにして玉音(放送)を聞いたか私たちはね、覚えてないんですよね。知らされていなかったと思うんですけども。そして、いつ向こうで解散になって、おうちに帰ってきたか、そこまでのことがね、友達に聞いても、みんな覚えてないんですよね。そういう状態で、終戦のあれは於茂登山でしたけれども、直接は玉音なんかも聞いていません。

Q:では聞きづてで?

そうです、はい。「戦争終わったらしいよ」「なんで神風もまだ吹かないのに」って言ってからね。そういう状態でした。もう学校では、「必ず勝つ」っていうことでね。「そんなはずはないのに」っていうことでね。信じられませんでしたけども。

Q:終戦を迎えて、それでご家族と再会できたっていうことは、いつぐらいでしょうか?

そうねえ、解散したあとが、8月・・・9月ごろ、みんなあれですかね? 学徒隊の動員が解散されたのは9月ごろですかね? もう記憶も薄れて、もう全然。自分の・・・大事なところだけは覚えてるけどね、もう大変で。戦争の話なんか、全然おうちでもやってませんしね。この「青春を語る会」に入って、初めてみんなと一緒に語るようになりましたけどね。それまでは私ね、あんまり家族にも、こんなに話す機会はなかったし、戦争は怖いものだと思ってね、話せませんでしたよ。

Q:怖いから話せなかったんですか? 思い出したくなかったんですか?

思い出したくもないですよね、そんなことはもう。夢であってほしいという気持ちでね。だから私たちの青春はもう、いったい何だったのか。今思い出したら、今の子どもたち見てたら、うらやましい限りですよ、もうね。

もう女学校は出たもののね、勉強らしい勉強もしてないしね、教師は、今言ったら怒られるかもしれないけどね、避けて、「教師はやりません、やりません」って言ってね、断っていたんですけどね。この恩師が「教師はこんなに卑しいものと思ってるのか?」って言われてね。「教師は3日やったら辞められないんだよ」って、言ってるから、「そんなものかね?」と思って勤め始めましたけど、大変でした。教員になってみてから、そのとき教室もまだないしね。今言った、かやぶきの教室でした、校舎もね。そして黒板もそんなに… 黒板だけはありましたけどね、机と。まともな・・・そうねえ、そのときにまた結婚もしましたので、もう、みんなごっちゃになって、公私混同してます。

Q:学校は那覇に行かれたんですか? それとも石垣島?

最初はですね、私、離島に行きました、与那国に。すぐに話を受けていれば、市内でできたんですけど、断って断ってね、断りきれずに、あとはもう与那国のほうに行って。それから、石垣市に戻してもらって、石垣で、そうですね、3~4校勤めて、それから主人も教員で、転勤で沖縄本島のほうに行きましたのでね、それから沖縄本島の学校で勤めて。最後は養護学校で退職しました。大変な時代でした。もう教員は夏休みごとにですね、単位を取るために単位講習と言って、もう休む暇はなかったんですよ。それから琉大(琉球大学)、にスクーリングで、講習で単位取得のために。そういう時代もありましたね。

Q:今の、若い子どもたちに何か伝えたいことっていうのは、ありますか?

そうですね、もう私たちの体験したことはね、二度とそういうような体験をさせたくないので、いつまでもこの平和でね、ありたいものだと思って、戦争をしてはいけないっていうことを伝えたいと思いますね。今、世の中はおかしくなってきてますよね。だから、そういうふうに、もう少し世界の情勢もね、機会見てもらって、戦争だけはもう、私たちだけで終わらせてもらって、そういうことを、子や孫たちには絶対引き継いでいってもらいたくないと思って。それだけは常日頃から、今は孫たちにもお話できますけどもね。

出来事の背景出来事の背景

【沖縄・八重山高女学徒隊】

出来事の背景 写真太平洋戦争末期、住民を巻き込んだ激しい闘いが繰り広げられた「沖縄戦」。
離島である石垣島では米軍の上陸はなかったものの、艦砲射撃や空爆によって被害を受けました。
この戦いでは、多くの女学校生たちが軍の病院などに動員され、看護助手や食事の準備などに当たらされました。

沖縄県立八重山高等女学校では、昭和20年3月に念願の本校舎が完成しましたが、そのわずか2か月後、軍の司令部や各陣地の建築資材として解体されてしまいました。昭和20年4月、八重山高女の4年生約60名は、陸軍病院と海軍病院と野戦病院に動員されました。野戦病院の情況は特に過酷で、重傷の負傷兵だけでなく、重度のマラリア患者も運ばれてきました。女子学徒の1人もマラリアにかかり命を落としています。学徒の中には終戦を迎えても、翌年の1月まで野戦病院で兵士たちの看護に当たった人もいます。
また、石垣島では、住民がマラリアの発生する地域に疎開させられたため感染者が続出しました。

証言者プロフィール証言者プロフィール

1929年
沖縄・石垣市に生まれる
1942年
沖縄県立八重山高等女学校に入学
1945年
2月~3月、看護教育を受ける
1945年
4月、球4173部隊陸軍病院に動員される
 
8月、於茂登岳で終戦を迎える
 
戦後は、小学校教師となる

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