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タイトルタイトル: 「宮古島空襲・友達が重体に」
名前名前: 砂川 末子さん(沖縄戦 戦地戦地: 日本(沖縄)  収録年月日収録年月日: 2014年6月17日

チャプター

[1]1 チャプター1 セーラーからヘチマ襟に  03:55
[2]2 チャプター2 兵舎になった校舎  03:15
[3]3 チャプター3 宮古島への空襲  06:39
[4]4 チャプター4 水くみ当番で重傷を負った友達  08:20
[5]5 チャプター5 焼失した校舎  03:57
[6]6 チャプター6 陸軍病院で終戦を迎えた  04:44
[7]7 チャプター7 英語に携わった戦後  06:30

チャプター

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収録年月日収録年月日: 2014年6月17日

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Q:女学校に入学されたのが昭和16年の4月となりまして。そうすると、そのころのことは覚えてらっしゃいます?何か。まだ太平洋戦争は始まっていないかと思うんですけど。

日支事変(日中戦争)ですね、その時は。日支事変で、やっぱし物価もみんな節約、節約で。それで入学した時はね、今までずっと女学校はセーラー服で、みんな憧れておったんですよ。けど、もう私たちの時代にはへちま襟。写真も持ってきたけれど。

Q:白い、こういう襟ですよね。あれはどうでしたか? 憧れてセーラー服だと思ってたのにへちま襟。

もう生地の節約で。スカートもプリーツスカートだったけどね、あれももうタイトスカートになって。

Q:生地の節約で?

はい。

Q:じゃ、どうでしたか?がっかり?

もうがっかりだけども、しかたがないでしょう。

Q:みんなそうですよね?

みんなそうだから。

Q:なるほど。そしたら女学校入られて、その頃は?

女学校に入ったのは、やっぱし、また憧れは、1年生はおかっぱ、2年生は分けて、それから3年生は2つに分けて、4年生は三つ編みと決まっとったんですよ。

Q:じゃ、髪形で?

髪形も決まるし、ほんとにいろんなことがありましたけど、私たちはもう、入学の時からですね、もう竹やり訓練とか。

Q:もう入学のころから?

そうです。1年・2年・3年、みんな竹やり訓練とか。それから閲兵分列といってですね、並んで行進しますよね。あれもやって、終わったら竹やり訓練、それから防火訓練か、消火訓練ね、そういうのが、もう頻繁にありましたね。それと防空壕掘り。これは、もう2年・3年ぐらいからですね、防空壕掘りは。防空壕掘りと、それからたこつぼといって、1人用に入る、あれもよく掘りましたよ、たこつぼ。防空壕とかたこつぼなんかね。主に、もう学校周辺だからたこつぼ堀りが。

Q:大変だったんじゃないですか?

大変だったですよ、ほんと。もう勉強は後回し。

Q:訓練をされてだんだん戦争の影が強くなるというか、そういうのを感じて?

そうですね、影がもう厳しくなって。それから3年はもうひどかったですね、だんだんとひどくなって。それからもう、4年になった時は学校がですね、28師団かね? 取られたんですよ、師団に。それで、それからはもう私たちは民家、空いてる民家ですね、借りて。そこでもう寺子屋みたいに勉強して、午前中は授業して、午後からはまた飛行場作業、飛行場作業にみんな駆り出されましたね。

Q:飛行場作業はどういうことをされたんですか?

もっこで土を運んだり、石ころを拾ったり、そういうもんです。

その時ですね、軍からの命令で疎開するようにっていう指令が下ってですね、疎開。私たちのクラスも一応56名おったけど、約半分、20何名はもう疎開して、残ったのがもう25名しか残らなかったですよ。全部疎開に行って。

Q:それはどちらに疎開に行かれたんですか?

台湾ですね、ほとんど。そのうちには熊本に行ったり宮崎に行った人もおったけど、台湾が多かったですね、台湾に疎開する人。

Q:その疎開する人、しなかった人っていうのはどういうふうに分けられたんですか?

いや、やっぱし希望する人は行くし、希望しない人はもう…残る人は残る。

Q:砂川さんは?

私は一応、親戚と一緒に行くと準備しておったけど、両親が「死ぬのは一緒」だと言って引き止めて、もう行きませんでした。残りました。

Q:19年に沖縄本島では十・十空襲といわれる、あれは宮古ではいかがだったんですか?

宮古でもね、ありました。私たちもうちょうど・・・そうです、その前に看護教育といって、4年生は陸軍病院で看護学校を勉強したんですよ、こんな分厚い1冊の本を。三角巾の巻き方とか使い方とか、包帯の、いろんな勉強したんですけど。それしたあとに、十・十空襲があった時は、宮古の平良港にですね、ちょうど輸送船があって、もうこうやられて、いっぱい私たちも動員されて。担架で運んで、向こうで、漲水港の近く…平良港の近くに漲水港という漲水御嶽という御嶽(うたき/拝所・聖地)があるんですよね、そこにみんな待機してるから、そのけが人を乗せるトラックが。そこまでみんなで担架で担いで応援したんですよ。

Q:その港から漲水御嶽まで?

そうです、はい。

Q:どんな様子でしたか?

もう大変だったですよ、ほんとに。もう罵声を浴びて、聞くだけでももう…けどもう、そうしちゃおれないから、もう。

Q:罵声とは?

痛いとか何とか、けがした人たちが、やけどした人たちが、やけど多かったですね、港。

Q:では、その時はその船に乗っていらっしゃった…

船がやられたから。そのやられた人たちがみんな上げられたのを担架で港に…漲水御嶽まで運んだんです。

Q:すると、兵士の方が多かったんですか?

軍属ですね。兵隊というよりも、軍属の方がいっぱいでしたね。そしてそのあと、私たちは看護師として行かなきゃいけないということで。 
私は陸軍病院のほうに配られたんですけどね。4年生が、陸軍病院が13名、3年生が10名。それから第1野戦病院が…これは上野国民学校、城辺ですね。そこで4年生が5名、それから3年生が3名。それから第4野戦病院いったら城辺国民学校、ここは4年生が7名、3年生が10名、配置されたんですね。それでもう、野戦病院のことは分からないですけど、私たちは陸軍病院でやっぱし外科勤務になって、やっぱし沖縄みたいに地上戦が激しかったらあれですけど、宮古は地上戦はなかった代わりに空爆がひどかったんですよ。それでその空爆でやられた人たちが、学校でももう部屋が足りなくて、あぶれて。廊下までももう、いっぱいけが人が出てそれを介護するのにもう大変でしたよ。やっぱし日にちがたつにつれて傷口からはウジはわくしね、あんなの見たことないし、初めほんとにもうぞっとして、貧血起こすぐらいに驚きました。

Q:それは傷の手当てとかされたんですか?

はい。そして女学生がまた当番で包帯洗い、それがもうずっと遠い所に移動。そこに行って、当番がありますからその当番で、ドラム缶半分切ったあれで炊いてですね、もう石けんもないから、それにお湯沸かしてその傷ついた、汚れた包帯入れて、こうやって炊いてから洗って、それをまた井戸水で洗うとかそういうふうにやりました。

Q:それは当番でしたんですか?

そうです、当番です。

Q:どのくらい?何日置きとか。ほかにどんなお仕事とかしたんですか?

もう女学校はそういう当番、それから水くみ当番ですね。

Q:水くみ当番?

そうです。遠いとこからも担いでですね、宮古でも水がそんなにないですよ、あんまり。

2人で担いで。

Q:そのころは、どんなことを思って水運びとかされてたんですか?

戦争はもう勝つと思って、勝つまではと言って、もう私たちが一生懸命頑張らんといかんという意味で一生懸命でしたよ。まさか負けるとは思いませんでした。もう勝つべきもんとばっかし思ってさ。

Q:じゃ、その苦労ももう勝つまではと?

そうですね。

Q:ほかにも空襲で何か覚えてることってありますか?

水くみの当番の時にうちの同級生がやられたんですよ、空爆で。一緒に当番しとって、向こうは先に着いて、私たちはあとから。先に着いた人がもうやられてですね。もう、2人当番ですから先に着いて休んどったら、そこに直撃が落ちてですね、飛ばされて。1人はもうずっと…。

Q:どのくらい飛ばされたんですか?

もう、100メートルぐらい飛ばされたそうです。それでもう、脊髄やられて。1人はまたちょっと体重があったから近くに入ったけど。向こうが傷がひどくて、こっちは心配しとったけど、飛ばされた人がもう重体で、脊髄やられて。あとはもう、ずっと… もう亡くなったけど、終戦後10年ぐらいしてから亡くなったんですけどね。もう、同級生で犠牲になったのは、この垣花美恵子さんだけですね。もう陸軍病院もひどかったですよ、空襲が多くてですね、空爆が。炊事場なんかも直撃やられたり、もうひどかったですよ。

Q:どんなふうになっちゃうんですか?

もう、やられてですね、従軍医なんかみんな、はらわたなんかちぎれて、直撃だから。向こうに木が、相思樹の木がいっぱいあったけど、それに引っ掛かったり何したりしてもう怖かったですよ。

Q:変な話ですけど、それは誰か片づけたりとかっていうことはあったんですか?

私たちはもう片づけはしないけどね。多分そこのアレがやったかもしらんけど。

Q:つらい体験ですよね。

とにかく、空爆だけで済んだけど、地上戦があったらもう大変だったなとね。よく沖縄の同様の方たちの話を聞いたらほんともう。宮古も空爆ひどかったけど、やっぱし地上戦がなかっただけよかったかなという感じはしますけどね。

Q:お友達の垣花さん、美恵子さんが亡くなったっていう時は、どう思われましたか?

もうね、向こうもやっぱし女のきょうだいばっかしなんでね、向こうはね。それで生きてる時からやっぱし信仰を持ってですね、それも寂しい顔もしないの、もうニコニコしてですね。手業が上手なもんですから、おうちで蚕の糸を取ってね、それでこれに絞り染めしたり、縫い物したり、もうほんとにいろいろやりましたよ。そして脊髄…今だったら治ったかもしれないけどね、あの時代は那覇に来て、那覇で手術したけど、それじゃもう治らない。あとは諦めておうちでやったけどね。けど、やっぱし戦争の犠牲者でしょう?本当だったらね、国からも何かあるべきではない?補償か何かね。それも全然ないさね。ちゃんと「何が足りない、何が足りない」と言って、一応手続きはしたらしいですけどね、できなかったそうです。

Q:それは、戦争が終わったあとに亡くなったからということですか?

そうでしょうね。

Q:だいぶ、たってからですか?

そうですよ。もう随分、おうちで静養したんですよ、10年あまり。

Q:お見舞いに行かれたりとかもしたんですか?

やりました、行きましたよ。けど、もううちなんか沖縄に来てるから、あんまり亡くなった時も分からなかったですけどね。もう1人は元気で、同級生生きてるんですけどね。全然分からないって。その時のことだけど、「分からんよ、私はもう忘れてる、全然分からん、自分がけがしたのも分からんよ」と言うんですよ。

Q:どんな方でしたか?

もう、とても明るくてですね、「自分は医者になりたい」っていつも話しとったんですけどね。

Q:そういう医者になりたいっていうような夢を奪ってしまった戦争について、どう思います?

嫌ですね。こういう戦争は、ほんともうないほうがいいですね。

Q:垣花さんが爆撃をされたあとの、それ以降の水くみって怖くなかったですか?

そのあとからはね、普通にやらなければいけないから自然にやってましたよ。

Q:砂川さんご自身は、グラマンに狙われたこととかあったんですか?

うちなんかはもう、鏡原に通ってる時からありましたよ。その時はもう、ずっと団体で行きますから、グラマンが来たら、向こうはいっぱい木の山がありますからそこに隠れて、ここに。薬きょうなんかダダダダダって、そばにみんな落ちてきたんですよ。

Q2:どのぐらい近くを弾が飛んでいったんですか?

弾はもう、30メートルぐらいの所までに薬きょうがみんな落ちてましたよ。拾ったら熱い。

Q:その宮高女の皆さんは、砂川さんは卒業式はどうされたんですか?

ちょうど卒業式は3月の27日と決まっとったんですよ。そして、その時も「学校で卒業式挙げるね」と言って待っとったんですけどね。ちょうどその日の朝、直撃が落ちて、そこに。それでもう行けなくて、あと防空壕で。

Q:卒業式を?

卒業式は防空壕で受け持ちの先生が、このくらいのB5のざら紙みたいなの用意して、みんなに配って、これを。あったらよかったけど、その証書。

Q:その焼けた校舎は、ご覧になったりしたんですか?

跡地ですね、行きませんでした。

Q:じゃ、それは直撃でやられたと聞いただけ?

直撃でやられてもうなくなって。とってもきれいな学校だったんですよ、校舎だったんですよ。

Q:では、それを聞いた時にはどう思いましたか?

もうあぜんとして。でもうちなんかがもし行って、午後からでもその空襲があったら「私たちは全滅したね」と言って。「朝でよかったね」っと言って話をしたんですけどね。

Q:砂川さんがいちばん怖い思いをしたって思い出は何かありますか?

ありますよ。やっぱし、私たちは手術室でしたからね。手術した時に切断しますよね、そん時に、足を持たされて…足を持たされてじゃなくて、明かりをつけるのを持たされるでしょ、あと卒倒してしまって。あれはもう見られなかったですね。

Q:何を見る?

切り落とす時の。あれが、あんなの見たことないさね。ああいうのを手術の場面に行ったらいちばん怖かったです。

Q:卒倒して、そういうのだんだん慣れていったりとかしました?

はい、慣れましたね。慣れましたけどね、それでもまだ、ほかの人みたいにはできないもんですから、あとは軍医がですね、手術室から離れて、カルテのアレを手伝わしてもらったんです。軍医が「体格・栄養ともに中等」と「顔色・顔貌ともに尋常」と言うの、これ書くんですよ、みんな。「血圧いくつ、脈拍いくつ」カルテってね、それを作るのをさせてもらいました。

Q:ほんとにつらかったんですね。

もう大変だったですよ、ほんと。

Q:終戦というのはどういうふうに知ったんですか?

終戦はね、陸軍病院で。みんな集まれということで集まって、そこで聞きました。

Q:どういうふうに説明があったんですか?

ラジオ聞かしたんですよ。

Q:玉音放送?

はい。それで、まさかまさかという、みんな疑問に思ってましたけどね。

Q:言ってることは分かりましたか?聞こえましたか?

あんまり聞こえなかったけど、みんなの話を聞いて。まさかでしょう、日本が負けることはないっていうことしか。

Q:負けたって分かった時は、どう思いましたか?

やっぱし、なんでこんなに負けなければいけないかっていう、みんな疑問に思ってましたけどね。やっぱしアメリカという国は大きいから、その小さい国が大きい国を相手にしては勝てなかったのかなという、あれも持ちましたけど。でも今までずっと、あっちこっちでね、小さい日本だけど、あっちこっちで勝ってるさね。そのイメージがあるもんですから、負けるということは、もう考えられない。

Q:なかなか認められなかった?

そうですね。

Q:その後、解散になるわけですよね?

はい。終わってからね、陸軍病院は、もう鏡原からザラツキという所に移ったんですよ。その時はもう、半分はみんな輸送船でどこに行ったか分からんけど、残った人はまた向こうに残って、けが人もいるから。それなんか治療するために一応移してですね、私たちも少しそこに行って働きをしたんですけど。

Q:じゃ、戦後もしばらく看護のお手伝いを?

はい。

Q:ご家族の皆さんはいかがでしたか?無事でいらっしゃいましたか?

はい、無事で。

Q:宮高女は空襲でなくなってしまって、その後は学校というのはどうされましたか?

その後は女子校となって、宮古高等女学校から女子校となって、女ばっかしのアレで、そのあとからまた宮古高校といって、今一緒になっていますけどね。だから私たちもここでは、宮高女と女子校の同窓会があるんですよ、在沖。宮古高女は1期・2期・3期・4期・5期・6期…7・8・9期まで。それから女子校が2・3・4・5・6…6期までですけどね。もう6期からは宮古高校になってます、今、宮古高校に入ってます。

その後の進路は、私はもう本土に行けないから、ちょうど宮古にですね、英語教員養成所といって、これからもう終戦なったら英語も必要でしょうということで、英語教員養成所といって、1か年そこ出ました。出て、うちは免許証はもらったけど、その教科が英語だから、これでは英語教えられないということで、すぐLST(米軍の戦車揚陸艦・人員輸送に使われた)飛び乗って沖縄に来たんですよ。沖縄来て、ここのライカムポストエンジニアという所に勤めて、そこでちょっと英語を、西へ行ってもかわいがられて。そこの基地内のですね、いろいろタイピストとか、そういうところ出してもらって、軍でも働きましたけどね。

Q:その空襲とか戦争をしていたアメリカとしていたわけじゃないですか。それはどうでしたか? 英語を学んで、生活の糧にするっていうことについて、アメリカに対する気持ちみたいなのってありましたか?

そういうのはね、考えない。とにかく職があればいいでしょうということで、ここ出れば教員になれるということで出ました。そういうアメリカが何とかとか関係ない。そして、やっぱしここだけでは足りないから、直接に外人と対等に話ができるようにということで、沖縄に来たんですよ。もう1人友達がおってですね、同級生が。この人が米留を目指してですね、一緒に米留しようということで沖縄に一緒に来たんです、2人で。向こうはもう行ったんですけど、私は行かなかったけど。友達は米留に行ってずっと向こうで頑張っとったけどね。そしてこうなってこれから、終戦直後で英語の教員免許持ってる人がいないということで、沖縄の玉城中学校にすぐ採用されたんですよ。そしてそこに7年間、英語教師として頑張って。それから、私事ですけど辞めて、郵政に入ったんですよ。郵政でもう定年退職して。

もう二度とね、こんな惨めな、そういういろんなあれはなくしてね。やっぱし今、もう「平和平和」言ってるけど、これからどうなるかも分からないですよね。偉い人たちは「また戦前のあれに元に戻るんじゃないかね」と言って心配しています。

Q:若い人たちに何か伝えたいこととか、実際中学とかで教えていらっしゃった時に、そういう平和の大切さとか、命の大切さとか、そういうものを含めて何かされてきたこととかありますか?

よく子どもたちはですね、戦争の話をしたら、とても喜んでですね、興味持ってよく聞いとったんですけどね。やっぱし、もうこんな人の命を取るような、戦してはいけないという、あれをみんな心に留めて、聞いとったと思いますけどね。

Q:砂川さんはお話語ることで、何か伝えていきたいことってありますか? 子どもたちであったりとか、今後の人たちに。

そうですね。やっぱし出るのは戦争してはいけないということじゃないですか。戦争をやっていいことはありませんから。

Q:改めて今、「戦争は駄目だよ」って若い人に教えるとしたら、何て伝えたいですか?

やっぱし体験しないと分からんから、今の体験した人たちの話を、よく耳を澄まして聞いて、こういうことが二度と起こらないようにみんなで考えましょうと。

出来事の背景出来事の背景

【沖縄・宮古高女学徒隊】

出来事の背景 写真太平洋戦争末期、住民を巻き込んだ激しい闘いが繰り広げられた「沖縄戦」。
離島である宮古島では米軍の上陸はなかったものの、艦砲射撃や空爆によって被害を受けました。
この戦いでは、多くの女学校生たちが軍の病院などに動員され、看護助手や食事の準備などに当たらされました。

昭和19年5月頃から、宮古島にも日本軍の部隊が配備されました。まもなく沖縄県立宮古高等女学校は、軍に接収され、疎開で空き屋になった民家を何か所も借りて教室に当てなければならなくなりました。10月10日の空襲では平良港に碇泊していた輸送船が爆撃され、負傷した乗組員を搬送するため生徒たちは動員されました。昭和20年の年明けからは空襲も度重なり、3年生と4年生は特志看護婦として出身地域にある病院へ配属されるようになりました。続々と運ばれてくる重傷の負傷兵に十分な治療や看護はできず、女子学徒たちは麻酔無しで足などを切断する手術にも立ち会いました。また、水くみ当番だった女子学徒が、空爆の直撃弾をうけて重傷を負い、そのうちの1人は寝たきりとなり10年後に亡くなりました。

証言者プロフィール証言者プロフィール

1929年
沖縄・平良町(現宮古島市)に生まれる
1941年
沖縄県立宮古高等女学校に入学
1944年
看護教育を受け、陸軍病院に動員される
1945年
8月、陸軍病院で終戦を迎える
 
戦後は、教職に就いた後、郵政管理事務所に勤める

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