ホーム » 証言 » 柳井 和臣さん

証言証言

証言をご覧になる前にお読みください。

証言一覧へ戻る証言一覧

タイトルタイトル: 「特攻出撃・会敵せず帰還」 番組名番組名: [NHKスペシャル]特攻 ~なぜ拡大したのか~ 放送日 2015年8月8日
名前名前: 柳井 和臣さん(海軍特別攻撃隊 第721海軍航空隊 ゼロ戦搭乗員 戦地戦地: 日本(鹿児島)  収録年月日収録年月日: 2015年4月4日、6月23日

チャプター

[1]1 チャプター1 筑波海軍航空隊の記録  05:17
[2]2 チャプター2 同期の桜  03:15
[3]3 チャプター3 学徒出陣で海軍へ  03:45
[4]4 チャプター4 戦闘機乗りを目指す  04:17
[5]5 チャプター5 特攻隊への志願  03:26
[6]6 チャプター6 筑波隊の編成  02:44
[7]7 チャプター7 特攻訓練  07:55
[8]8 チャプター8 鹿屋基地へ  05:23
[9]9 チャプター9 出撃命令を待つ  03:39
[10]10 チャプター10 5月14日、出撃の朝  04:22
[11]11 チャプター11 第6筑波隊、出撃  06:40
[12]12 チャプター12 戦果を上げた隊長機  02:55
[13]13 チャプター13 負けないための特攻だった  09:00
[14]14 チャプター14 特攻戦死を遂げた野球選手たち  03:43

チャプター

1
2
3
4
5
6
7
8
9
10
11
12
13
14

提供写真提供写真

番組名番組名: [NHKスペシャル]特攻 ~なぜ拡大したのか~ 放送日 2015年8月8日
収録年月日収録年月日: 2015年4月4日、6月23日

証言をご覧になる前にお読みください。

再生テキスト再生テキスト

Q:これはいつ書かれた?

これは筑波時代ですね。特攻隊に編成になってから。だから(昭和)20年の2月の20日に特攻隊になりましたからね。それからですね。

Q:特攻隊は志願された?

まあ志願っていうのは120名ですけどね。全員がほとんどそういう志願って言いますかね。「希望する」ということね、特攻隊を。120人おったんですよ、筑波で。その中の50人だけを特攻隊に編成するっていうので、「おまえたちね、諾否を書いて出せ」ということになって。それでほとんど全員がね、希望するということだったと思いますけどね。

Q:50人はどうやって選ばれたんですか?

それで大体普通は三つありまして。まず120人の中では操縦がうまいと。ある程度上位クラスの者ですね。下手でないということですね。それから2番目は、やっぱり結婚していないということ。1人か2人おりましたけどね、結婚しておるの。3番目、これはまあほとんどおりませんけど、海軍では。3番目は長男でないということですね。だから次男か。男なら少なくとも2人ぐらいおって、その場合長男でなくてね、次男とか以下っていうのでね。だからこれ私全部該当するんですよ。

Q:長男ではなくて、奥さまもいらっしゃらなくて、操縦がうまい?

まあうまいっていうことはないけれどもね。まあうまい下手っていうのは実際のところは分かりませんけどね。初めに単独飛行っていうのをやるんですよ。赤とんぼ(練習機の通称)からゼロ戦に変わりましてね。その単独飛行でまあ順番が決まるわけね。だからある程度習得が早い者は1人で乗ってもいいよという、まあそれは私はトップクラスだったですからね。

Q:これはどんな気持ちで書いたんですか?

これは私は母に。これ全部写真がありますから。ごらんになっていただいて。あなたは漢詩に造詣が深ければあれなのですが。

Q:どういうことが書いてあるんですか?

「死生有命不足論」ってあるんですけど。これは死生は決まっているのだと。要するに何です。早いところ、ただ子孫って言うかね、親や何でしょう。自分の尊敬する人のために報いるということでね。要するに今からつらいことに向かって死を覚悟していると。まあそういうのですね。まあ当時の何ですか。戦時中のね、日本男児の気概って言いますかね。これは私は両親にね、これから特攻で出発するということでこれを書いて。

Q:これは遺書として、お父さんたちに差し上げた。

そうそう。ただこれはもう特攻隊になって、筑波で訓練に入ってからですね。

Q:「人殺しの隊なり」って書いてあります。

戦闘機はお互いにね、殺し合いですからね。

Q:結構強い言葉だなと思うんですが。

それは今の感じは・・・当時はやるかやられるかですからね。まあもたもたしていたら。戦闘機っていうのは相手、敵を落とすのが任務ですからね。あるいは日本の攻撃隊を守るとかね、要するに敵の飛行機を落とすということですね。

Q:おいくつぐらいのときですか?

これが少尉になっていますがね。23のときですね。

Q:これは同期の桜ですね。

そうですね。吉田君(吉田信少尉・5月11日に出撃し戦死)とね。これは歌にありますわね。だからこういうのは訓練のない日ね。天候が悪いとかね。悪天候のときにはこういうのも書いてね。まあ準備したわけなんですよ。

Q:吉田君は最も愛すべきと書かれている人ですね。

そうそう。吉田君はね。

Q:なんか、悲そう感がないですね。

これは僕はね、もう両親に特にそういうこと。海軍の。そういう全く特攻隊とかそういうのにはないということで、死んでいくよということで。全くあなたの言われるとおり、悲そう感がないという。だから他のね、何とは全然違うんですよ。だから僕、この映画に出てても、他の人はしゃべっているけど、僕は割合ね、悲そう感的なものはなかったっていうことですね。

Q:それは心から悲そう感が、本音からなかったのか?

それは要するに悲そう感はないと。両親を安心させようという形のものは多分にあったということですよ。それは悲そう感はありますよ、それは。人間だものね。だけど、それをしゃべるかしゃべらないかっていうね。両親にまで言うか言わないかっていうことでね。彼女の前なんかでは一切言いません、それは。楽しい思いをしているということばかりでね。これはそういうことから、やっぱり男の美学。あなた方マスコミは悲そう感的なものを追いかけるわけですよ。戦争反対につながりますからね。もちろんそれはありますよ。だけど私たちは、要するに男の美学でね。泣き言は言わないということでね。これはありましたね。あなたがもし男性でね、泣き言ばかり言うのと、大丈夫って言っているのとどっちがいいかっていったら、それはそうですよ。両親でもそうですよね。自分の子どもがずいぶん苦労しているんじゃないかということでね、非常に悲惨な目に遭っていて、それで死んだっていうのとね、やったるぞっていうのとはそれはどっちが。両親が安心しますよね。

Q:柳井さんは予備学生ですが、飛行機へのあこがれはあったんですか?

それはありましたよ。それは陸軍でスッタカスッタカやるよりもね。飛行機に乗りたいっていうのは、当時のもう何はみんな飛行機にあこがれていたんじゃないですか。

Q:何に乗りたいとか。

それはもう何でもいいから飛行機。それはほとんどが海軍に行きたいっていう感じがあったと思いますね。海軍の方がスマートだったですよ、陸軍よりもね。

Q:これも他の方が書かれたんですね。髪型がきっちりと。

これ桜花っていうのはね、桜花隊っていうのが当時できていましたからね。そういう意味合いもありますけどね。これは筑波のちょうどね、隊門を入ったところで、両方が桜並木ですから、その桜なんかをあれして。

Q:このときは特攻で行くことは決まっていたんですか?

もちろん、これ特攻隊のときですよ。(昭和20年)4月ですから。特攻隊編成が2月ですからね。だからいちばんいいときですよ。桜が咲いて筑波でね。4月の初めごろでしょう。

Q:海軍に入られた経緯を教えていただきたいんですけど。

学徒動員ということになりましたでしょ。これは約10万人なんですよ。それで陸海軍に分かれてね。それで私は慶應時代からもう、大体ああいうね、教練っていうのが嫌いだったんですよ。だから配属将校っていうのがおりましてね。陸軍の古手の。そういうのがあまりいい印象が。だからいい成績をもらっていなかったと思うんですよ。嫌いで。そういう点でね、まあ陸軍に行ってもね、あまりいいことはないだろうと。それから私の兄も慶應だったんですが、これは陸軍に行きましてね。これはもう陸軍で相当成績を上げたんです。3回ぐらい召集されましてね。兄が、「おまえは、陸軍は向かないよ」って言って。だから「おまえは海軍に行って、船に乗るか飛行機に乗れ」というようなことで、私もそういうつもりでおりましたから。それでさっき言ったように海軍の方がスマートですからね。ということでまあ海軍を希望と。ところが、これはなかなかね、そういう点で海軍もね、行けるとも限らないわけです。というのは10万人の中でね、海軍大体は1万8千人と言うんですね。残りの8万いくらが陸軍で。まあそういう点で徴兵検査は両方一緒にやりますから。「時に希望はあるか」というので、「海軍に行きたい」と言って。「海軍で何をするんだ」って言うから、「船に乗るのか?」って、「いや、飛行機に乗りたい」って言って。「分かった」と。まあ徴兵官にそういうことは言ったものです。

Q:海軍に入ることができて、それで訓練が始まるわけですよね。

海軍は最初はね、二等水兵なんです。海兵団で。これを約2か月。その間に予備学生の試験がありまして。私も必ずしもいい成績ではなかったと思いますが、予備学生に入って。それで特に飛行機関係で土浦に行って。4か月間基礎訓練を受けて。土浦で今度はいろいろ分かれるわけですよ。飛行機の中でもね。だから操縦するとか偵察とか、陸上とか水上とか、要務ですか。そういうのに分かれて、僕は操縦にということになって。幸い操縦に行けるようになって、それで出水という赤とんぼのところに行って、そこで徹底的に飛行機の訓練を。その中から今度は、いわゆる実用機ということでね。戦闘機とか中攻ね。艦爆・艦攻とかね、そういうのに分かれるということですね。

Q:どういう飛行機乗りになりたいなと?

私は戦闘機だったですからね。戦闘機なぜなのか、自分で戦うとか言うよりもね、1人なんですよ。まあ戦闘機っていうのは当然操縦員ですからね。中攻(中型の攻撃機)とかは必ずしも操縦ではなくてね。航法とか無線とかいろいろなのがおりますね。機長であっても操縦しないとか、そういうのはおりますけれども、私は操縦したいと。それからまあ戦闘機だと1人でしょ。だから、どうせ落ちるときとか何とか言っても1人だからね。自分の判断でいいわけですよ。ところが中攻とかね、複数乗っていると、自分の判断だけでね、まあこれから突っ込むぞとか、あるいは死ぬときでもね、他の者がおるということになると非常に気を使うと思いますね。僕は。そういう点はね、やっぱり戦闘機がいいと、いうことでね。だから花は桜木戦闘機乗りはっていうので、僕はやっぱり戦闘機がいいという考え方でおりましたね。これはやっぱり自分で希望し、それからチョイスしていったということですね。

Q:それから実用機の訓練があって、実戦部隊に行くという。

そういうことですね。実戦部隊というのが特攻になりましたけどね。

Q:その経緯は、特攻隊に任命される経緯はどういった経緯があるのですか?

だから筑波に120人ね。だから1万8千人の海軍にいた。もっと言えば10万人の学徒動員で行った中に、筑波の海軍戦闘機隊っていうのはね、120人。戦闘機は440名なんですよ。440名の中の筑波が120名。谷田部とか元山、大村とか分かれましたけど、まあ筑波に行って。筑波がいいのは、東京に近いっていうことですね。まあそういう希望もありましてね。筑波に行ったと。だから戦闘機と言うとね、やっぱり何か伝統的にね、筑波というのはきついと言うかね。 鬼の谷田部に地獄の筑波というぐらいにね、いちばんね、鍛えられたというそういうまあプライドって言うかね。何かそういうのがあったようですけどね。

Q:それはどういう意味なんですか?

結局海軍の戦闘機の伝統精神を俺らは継いでいるっていうことでね。まあそういう誇りと同時に気合いの入れる材料にしていたんじゃないですか。

戦闘機に入ったのは19年ね。昭和19年の10月なんですよ。さっき言ったようにぶん殴られたとかいろいろありましたけれど。それで10月の20日過ぎにはね、フィリピンでゼロ戦の関大尉なんかが爆弾積んで突っ込んで、多大な戦果を上げたわけですね。そういうのは全部入っていますから。だからゼロ戦にようやく乗って、これからイロハから勉強しようというときに、既にゼロ戦が爆弾を積んで。なに、ゼロ戦というのは敵を落とすのだろうと。それが爆弾を積んでね、体当たりするという。そういうことを既にフィリピンのレイテでね、やっているということは、そのときに全部話がありますからね。そうするとね、いずれ俺たちもそういうふうになるなという予感はしましたね。しかし、あくまでも早く技量上達して、戦闘機のね、同士のいわゆる空中戦をやりたいという考え方のそれは訓練をしていたんです。それから年が変わって、2月にね。だから昭和20年の2月の20日に特攻隊編成になりましてね。そしてさっき言うように希望するかしないかということで、120人のうちの50人を選ぶということになって。みんな「希望」ということで出して、その中に50人選ばれて、私もね、私の友達の吉田君。もう話していて。もうこれは俺らが必ず50人の中に入るよと。案の定大体見込みどおり入りましたけどね。そういうことで特攻隊に入ったということです。

Q:初めて関大尉が特攻隊として戦果を上げたというような話を聞かれたときは、どのような・・・

これは戦闘機とすれば邪道だと思いますけどね。しかし、当時の戦略としてはこれしかなかったんじゃないかというね。あえて特攻をね、採用したのだということでね。まあ戦局は非常にひっ迫していましたからね。当然来るべきものが来たという感じだったですね。

Q:戦況があんまりよろしくないというのはお感じになられていたんですか、当時も。

それは感じていたです。それはもうずっと戦況はね。サイパンが落ちたというので、ずっと後退しているわけでしょ。だからそういう点で、特に向こうで戦った人たちで負傷して帰ってきて、それで筑波のね、教官とか教員とかいうね、というのになった人たちもおるんですよ。だからそのときの何がね、まあサイパンのときなんかでも、これはもうね、話にならない数が向こうは来るからね。だめだっていうことは言っていましたからね。

それで2月の20日に特攻になりましたけど、その4日前、2月の16日に筑波航空隊がアメリカの機動部隊にね、急襲されているわけです。アメリカ・・・関東地区のね、海軍の航空隊。陸軍もたたいたんじゃないかと。それから中島飛行機の工場とか港湾施設。それから交通施設とかそういうのを艦載機が攻撃していきまして。約延べ千何機ぐらいだったんでしょ。2月16、17と。そのとき筑波のね、我々に教えてくれた教官のね、72期なんですけど。それがみんな飛び立ったんです、筑波から。邀(よう)撃に。アメリカの艦載機に。全機未帰還ですよ。だからそういうのを目の当たりに見ているし、それから私などはちょっと航空隊の山の方へ、林のところに避難していたときにグラマンが飛んできてね。そしてガーッと襲撃して、回転しながらね。そのときのパイロットの顔なんか今でも覚えているの。青いマフラーした若造のやつがね、ダーッと。グラマンF6Fですよ。もう縦横無尽に何してね。だから筑波もそのときなんて相当の被害を受けたし。まあ全般的に日本としても、海軍で何でしょう、100機ぐらいは邀撃に立って全部未帰還になったと。200機ぐらいは地上にいてたたかれたとかね。そういう情報が全部入りましたから。そういうので、ああ、これは戦闘機と言ってもなかなか大変だなというその4日後に特攻隊編成になったわけです。ですから、さっき言うようにフィリピンの情勢とか何とかいうので、受け入れやすい状態にはなっていたということです。私たちがね。だからみんな希望という形になったのだと思いますね。普通考えると死の問題でね。だけど当時とすればね、戦って落とされるか、望んで突っ込んでいくかというね、そういう形も仕方がないなという感じのものは理解したと思いますね。

それで今度は特攻訓練っていうのが2月の20日に選ばれてからね。それから約2、3、4(月)とでね、大体2か月ちょっとでね、特攻訓練をね。大体ね、あれ、7項目ぐらいあったんですよ。まあ定着するとか、編隊飛行とかね。洋上航法とか計器飛行とか。特別攻撃方法とかね。それから薄暮、夕方ね。薄暗くなってから定着する訓練とか、そういうのを大体7項目かぐらいありまして。それにそれぞれまあ5回とか10回とか、回数を割り振ってね。あれこれ51回ぐらいになったと思いますけどね。そういうのを訓練をして、それで鹿屋にたつということだったんです。だから、そういう訓練を2月の20日からね、ずっと毎日やったということですね。

Q:特別攻撃、それはどういったもの?

結局ね、高高度、大体2,000(メートル)ぐらいでしょうけどね。これから突っ込んでいくわけですよ。突っ込み方というのも何度の角度で行くかとかね。戦闘機っていうのはやっぱり、揚力がありますからね。操縦かんで押さえても上に上がろうとするのね。訓練のときは大体500メートルで下りたときに引き起こす。そうするとね、計器の遅れがあるんです、誤差がね。高度計の。で、500となったときはもう400ぐらい沈んでいる、飛行機がね。それからグーンと弾みが出るからね、へますると地面に激突しますけどね。まあそういう点で大体500になったらすぐ引き起こせという形で。まあ『永遠の0』で訓練中に突っ込む、地上にっていう、そういう事故というのもありますけどね。急激に引き起こすとね、血液がザーッと下に落ちますから失神するわけですね。そうすると、飛行機がこういう姿勢で上がっていってというのが分からないわけです、失神しているから。そうしたらそのまま結局ね、落っこちるというそういう事故も起こるわけなんですけどね。そういう訓練をやるわけ。だから本当にぶつかるのね。何度の角度。例えば45度と言っても、45度って言うと真っ逆さまに行くような感じがしますよ。訓練中に引き起こさなければいけない・・・。それからまたね、ぶつかる瞬間にね、大体ちょっとみんな恐怖感があってね。グッとね、目をつぶったり。目をつぶると操縦かんを引くっていうわけね。そうするとバーッと目標に当たらないとかね、そういう。だから絶対最後まで目をつぶるなというようなことは言っていましたね。だから死の瞬間までよく見ていろということね。これは僕はある程度の恐怖があったと思いますけどね。また恐怖があってグッと引き起こすとかいう何がありますし。それに行く前に落とされるという場合もありますしね。だからまあそういう訓練はするということですね。特攻の訓練は。

Q:それ、全部で何回ぐらいですか? 特攻の、その下りる訓練とか。

これは10回ぐらいありましたね。いわゆる2月20日からね。4月の終わりから特攻のそういう訓練の何はね。特攻訓練。最終段階ぐらいだったんですけどね。大体10回ですかね。だからグーッと引き起こして、また今度こうやりますからね。だから着陸して、明くる日にまたどうだって言うよりはね。そういう点で1日に2回ぐらいやる場合もありますからね。だけど、大体10回やるという考え方で。これを下からみんな見ていますからね。

Q:突っ込み方が甘いとか。

それはもうそういうのは。その指揮官っていうのも名前までしっかりして、サブの指揮官もどうだっていうので。そういうのが全部ね。特攻訓練用にはちゃんとね、第何号って言うか、命令みたいなものが出ていて載っていましたよね。4月末までに完全に習得させろとかいうね。特攻で。そういうことで。それを習得したら鹿屋にね、行けということですね。だからそういう訓練はちゃんとやりましたからね。だからまあ、敵の反撃はどうか知りませんけど、ある程度満々たる自信を持ってね、まあ自信って言うか過信かも分からないけど、その訓練は受けていたということですね。だからよくね、もうそういう飛行時間200時間足らずのよぼよぼのものが特攻に行ってどうだって、いや、特攻に対してはある程度の訓練はしていたからね。これは例えば17歳の陸軍なんかの若い少年航空兵の人たちも、それで行っていたわけですから。よぼよぼっていうのはね、むしろ飛行機の方が少し古いやつでね。僕たちは52型ですからね。要するに新車ですよ。だからそういう点ではまあ自信を持っていたっていうことですね。

Q:52型は500キロ爆弾。

500キロ爆弾。

Q:訓練のときはどうするんですか?

訓練の時は富高で訓練して、それだけの重量がありますからね。本物の爆弾は積みませんけどね。

Q:500キロに相当するものを積んで。

相当しているものを積んで。これは地面を蹴るのが手間取りますからね。滑走の時間、距離が長くなりますからね。これは確かに僕は特攻で行って、途中で「反転、帰途につく」って無電を打ってね、途中で爆弾を落とさなければいけませんから。というのは、安全装置を離陸したらすぐ外していますからね。それでずっと攻撃に行きますから。帰るときはこれで着陸なんかすると・・・これが飛ぶから、途中で落とすんです。高度1,000か2,000ぐらい上げてね、落としましたよ。すると一瞬パーンと飛行機がね、ゼロ戦が浮きましたよ。バッとね。これをね、他の本を見たらやっぱりね、何だあれ。中攻ではなくて、艦攻型の・・・2人乗りのやつなんかのね、そういうようなのでもふと一瞬浮くと言っていましたね。これはそうだと思います。おそらく桜花ね、積んで。桜花というのは重いんですよ。これはポーンと離すとワッと一瞬ね、一式陸攻が浮くって書いてありましたから、僕も実感だったっていうので、ゼロ戦がフッと、52型が一瞬バッとこう浮きましたね。

Q:実際に鹿屋に行かれたのは何月頃のことですか?

4月の20日過ぎにダグラスで富高(宮崎県)に行って、4月の末にもうその間に52型の訓練をして待機していて、4月末に鹿屋に行きました。そのときはね、攻撃へどんどん鹿屋で出まして。補充ですね。次の順番っていうことで。8機編隊でね。行きましたとき、1機がエンジン不調で宮崎の河原にね、河川に不時着をして、バンクしながらこう下りていきますからね。どういうことだって。最後まで見届けなかったんですが、みんな飛んで鹿屋に行きますから。もう出撃命令前ですからね。鹿屋に7機で行って、上空で着陸態勢って言ったら、鹿屋はね、大きい飛行場でね。滑走路が2本ありましてね。陸攻の基地ですから。戦闘機の筑波なんかよりずっと滑走路が長いわけなんです。だけど、途中でみんなね、穴ぼこがあるんですよ。あれ大体300メートルぐらいのところで上空に行ってね、こう飛行場の上を飛ぶわけです。それで風向きとかね、何とかを見て、それで着陸です。見たとき相当穴ぼこがたくさんあったからね、実際に陸攻の滑走路で広い長い滑走路だけど使えるのは半分ぐらいじゃないかなっていうのを確認しまして。そうすると、いちばん手前から下りていってやっとね、穴ぼこのところぐらいで止まるという、そういうのを確認しながら。

Q:穴ぼこは?

爆撃です。毎日の爆撃。もう毎日が空襲ね。そして下りていくとすぐに整備員がね、こうして誘導して。途中で降りて、あとは整備員が操縦して。我々7名は岡村司令のところに行って、「ただいま到着しました」というそういう報告をしたということで。その鹿屋に着いて、それでまあ宿舎と言うか。宿舎って横穴なんですよ。防空壕(ごう)みたいな穴ね。それで風呂はドラム缶なんですよ。食堂は野里という小学校で、空襲を受けて屋根がボロボロのところで、そういうところで食事をする。完全に第一線部隊だっていう感じがしましたね。富高だとね、普通のまだ航空隊なんです。筑波はもちろんのこと。だけど、鹿屋は第一線部隊。全てがね。もうその野戦部隊って言うかね。

Q:どういうお気持ちがしましたか?

だから、ああ、これはもう本当にね、まあ身の引き締まる思いがしましたね。これで毎日出撃していきますからね。それで食堂なんかにいるとね、遺品はここに何していてね。あとは出撃した後の遺品でこう置いたら、間違いなくね、あなたの自宅に届けるからとか、そういうのがみんなあるわけですから。だから私なんか。筑波隊だけじゃなく、さっき言った陸軍の報道班員のね、川端康成とか丹羽文雄とか、山岡荘八先生とかああいう方がみんな報道班員で来ていましてね。食事なんかも一緒にしていましたけどね。

Q:出撃が決まったのはいつなんですか?

4月の末に行ってね、すぐ2~3日うちに出ると思いましたけど、まあ結局天候の関係とかね。ご存じのように沖縄の梅雨入りが早いんですよ。5月になりますと梅雨入りですよ。で、九州は今でもなんですが、大雨の日がありましてね。ゼロ戦は雨天の場合はまず飛べないわけです。その点一式陸攻とかいうのはね、これは飛べるわけなんですよ。航法なんかがきちんとなっていますからね。ゼロ戦は1人ですから。そういうことで攻撃が延び延びで。他の隊は出たかも分かりません。それは特に偵察員なんかがおるのは出たかも分かりませんが、我々筑波隊というのは4月の末に行って、最終的には5月の11日ね。これがいわゆる第5筑波隊が出ますということになったわけです。だから、10日以上ね、鹿屋で生活をみんなしていたんですね。

こんなに長くいられるとは僕たちも思っていなかったです。そのときはね。それでまあ5月11日に攻撃のとき、僕も吉田君たちが出るから、僕も出る予定でおりましたけれどね。僕の飛行機が焼かれて、次期回しということになって、それで僕たちが吉田君を送ってね。だからプロ野球の石丸君なんかも、そのときに僕らが送った仲間ですけどね。僕はだから次の番になったから、今5月14日の第6筑波隊のトップに。だからいちばん北側のコースになったということですね。だから今から考えると、そういうのが運命だと。僕は11日に出る予定だったのでね。これが出ると真っ直ぐ沖縄直行なんですよ。だから燃料も何も沖縄まで行って帰ってこられないわけね。まあエンジン不調で途中不時着して帰った何はおるかも分かりませんけどね。真っ直ぐまともに行けばね。まあ行ったきりになるわけですね。

Q:吉田さんはどうなられたんですか?

だから結局どういう戦果を上げたかどうかは確認はされていないわけなんです。バンカーヒルをやっつけたっていうのもね、後からアメリカの方の情報から分かるわけなんですね。日本の場合は戦果確認があの当時はほとんどできなかったですからね。戦果確認で行く、あるいは直掩(えん)として守っていくというのがほとんど落とされるから。

Q:いちおう筑波隊の戦果確認機、直掩機は出ていたんですか?

出ないです。出ません。第5筑波隊は出ないです。

Q:じゃ丸裸?

丸裸っていうか、特攻は特攻だけで。その代わり、朝早く出ていましたけどね。それまでの第4筑波隊までは、まあ昼とか夕方とかね、時間ははっきりしていなかったんです。はっきりって言うかバラバラです。52型になった第5筑波隊の5月の攻撃から、早朝発進ですね。朝早くたつ。私たちも早朝発進だった。

Q:先に行く同期生の方には何て声をかけられたんですか? 出撃前になんと声をかけられたんですか? 別れの言葉はなんだったのかな・・・

ああ、「後から行くから待ってろよ」っていうようなものですよ。そういう点はね、死期っていうのはね、あまり問題視していなかったんです。だから今日行こうが明日行こうがね、3日前に行こうがね、もうどうせちょっとした差だけなのでね。だからその点は2月の20日にね、特攻隊になった50人は、いつ死んでもいいという覚悟ができていた。だから時期はそうあまり問題視されていない。完全に割り切っているんです。

Q:そもそもは出撃の朝、どういう命令と言うか。

前の晩あたりでありまして、朝の4時頃起こされて、飛行長からの説明がありましてね。隊員が全部。敵の機動部隊が何をして、それでこの情報をね、7時間ぐらい前の陸軍の百式司偵(百式司令部偵察機)の情報だって言うんだから、「海軍の彩雲か何かの偵察機じゃないんですか」って言ったら、「いやいや、これは陸軍だ」と言って。だから情報がちょっと古いからね。だからこういうコースにして、扇のかたちで索敵攻撃。帰ってくるコースで、その途中で向こうを発見したら攻撃しろという説明があったわけです。それでコースを誰がどうだというのがありましてね。だから4時前ぐらいに起こされてね。説明があって、整列して、それで出撃。それでトラックに乗って、飛行機の置いてあるところに行って。飛行機に乗ったらもうエンジン全開でね。整備員が何して。「どうか」って。まあ「エンジンの調子はどうか」って、「大丈夫です」って。「ご武運を祈ります」とかって言ってね。整備員がちゃんといて、「分かった」っていうわけで。それで自分で乗って、いろいろテストをして。いつでも出撃できるっていうときにプラカードで出撃を急げということで。そうするとパッとこうやると、整備員がチョークをパッと外す。あとはドーッと行くわけです。そうすると2番機がね、ついてくる。そういうのを確認しながら。やっぱりね、あの当時、25機ぐらいだから、やっぱりね、勇ましいですよ。それは。やっぱりね、そのときに僕はやっぱり普通の方だったらね、「万歳、万歳」っていう感じでね、まあ今から死にに行くかという、そういうものよりも、何かやっぱりね、違いますよ。「頑張って」っていうような感じのものでね。

ゼロ戦がそれだけのものが順繰りにって言ったらね。上空に飛び上がっていくってなったらね、これはやっぱりね、恐怖と同時にね、勇ましさっていうのを感じますよ、それは。それは軍艦マーチでもないけどね。ええ。それは感じましたね。

Q:5月と言うと結構特攻も常道戦法になっていて、鹿屋から何機も何機も出撃している中だと思うんですが、見送りとか、別杯とかはあるんですか?

飛行長とか司令のときは別杯はあります。水杯ね。これが何してね。一応訓示がありましてね。細かい打ち合わせは事前にありまして。それで「敬礼」っていうようなことをしてね。それはもうまた普通の儀式的なものでね。淡々たるものですよ。それはもう何もそこには何もないね。哀愁的なものは全くありません。やっぱり男の世界だもの。これから戦いに行くっていう。まあ死に行くっていうのは後から来るわけでね。戦いに行くという形のものですから。だから勝ちどきを上げていくっていうのが、普通ですからね。その代わりもう帰ってこないと。全員帰ってこないという形のものだね。これが特攻なんですね。で、普通の戦闘機なんかが出ていくのは、勝ちどきで上がっていくと。おそらくね、1機か2機は帰ってこないのがおるかも分からないけど、まあ全機帰っておいでというような感じのものだけど、特攻隊の場合はね、全機これが最後だという考え方。

私もね、実際に出撃して、僕は海面すれすれだった。2機編隊でね。全部は17機出たわけなんですが。本当は18機だけど、1機どこかで、僕はちょっと定かではないのですが、ともかく僕らは2機編隊、2機編隊で4機編隊でね。2機は海面すれすれ。2機はね、上空を高度をある程度取っていくという。電波探知機をよけるというので。海面大体50メートルぐらいすれすれで行くわけなんですよ、私はね。だからそういう点で、まあ鹿屋を飛び立って、2番機が来るかと思ったけれども、わーんと当時でもやっぱりゼロ戦だけで25機ぐらい出るんです、朝。朝早く出ますからね。発進を急げとかいってね、エンジンが調子が良かったらもう飛び立っていくっていうのでね。上空で待っていたらこないからもう僕は単機で行って。途中でずっと行って、予定のコースを行ってね。敵の船がいないかと思ったら、ふと見たらいるわけですよ。敵の船が。どうも空母じゃないし、普通の巡洋艦クラスなんだけど、面倒くさいからこれでいいやっていう感じがそのときは。さっき言ったようにもうね、長い間特攻がなんだったから、これにぶつけてやろうと思ってね。それで高度をグッと上げてね。突撃態勢を取ったら、何か向こうの船からの抵抗もないし、弾幕もね。結局ね、錯覚。まあ雲が低かったし、波の関係で。巡洋艦の形は見ているんですよ、いわゆる食堂で。だからそういう形を連想して、先入観があるから。それで波を蹴立てて行って、この野郎、やってやろうという感じの気持ちはそのときあったんです。これは、あ、違うということでね。低空のときはそこは感じたけど、上空に行ったらいないから。それで所定のコースで、最終的には帰ってきたわけですけど。そのときの一瞬の気持ちはね、もう突っ込んでやろうと。死と言うよりは一発やってやろうという、そんなには一瞬ひらめきましたね。だから、みんなもそうだったと思う。本当の船でバーッと、防空の弾幕が出る中でしょうけどね、より好みせずにね、近くのやつにぶつかってやろうかという気は、僕は起こっても不思議はないと思いましたね。私のそのときの感じからして。はっきりと疲れたと。特攻の待機でね。見敵必殺でね、そのままやってやろうという感じのものはありましたからね。

Q:5月14日の出撃のときをもうちょっと詳しくお聞きしたいのですが。出撃をされて、先ほど敵らしきものを見たときにバーッと高度を上げて、ちょっと違ったと。その後はどういう経路でどう・・・

それは予定のコースを飛んで。こう行ってこう行ってこういう形でこうやって帰ってくるっていうね。それで敵の機動部隊はこっち側におったんでしょうけれども、私のところにはね。多分防空の弾幕が上がっていないですから。だから向こうが僕を発見していないということは分かりますしね。だからコース上にはいないなという形でね。それで途中反転して、それから反転して、こっちに帰る途中に「反転帰途につく」という無電を打って、それからさっき言ったように爆弾を落として。それで一路ね、鹿屋に帰ると。鹿屋も真っ直ぐ鹿児島湾からは進入しないんですよ。必ず志布志湾の方を回って。鹿児島湾から来るのは米機だということで、日本の場合は志布志湾から。北側から鹿屋に入ってくるというこういうコースだったですからね。まあそのときは燃料計を見てね、燃料があるかどうかというのは、ギリギリの燃料を積んでいますからね。そういう点では。だからまあ燃料がもってくれればいいという感じはまだ。生の執着って言うかね。無事帰投するというね、そういう問題はありましたね。

Q:生の執着。

生、生きる。そのときは。途中で、だから帰ってきて途中で燃料がなくて墜落して死んだのではね。だからそういう点の生への執着というのはそのときに起こりましたね。まあ捲土重来ということでしょうけどね。

Q:そういう気持ちで飛び立って、敵が見つからず帰ってきて、そのときのお気持ちは。

これはさっきちょっと言いましたが、ちょっと照れくさいって言うかね。帰ってくる。特攻隊に出てね、たとえコースにいなくても照れくさいっていう感じの。だから、私が特殊な索敵コースで、帰ってくるというそういう特殊な。エンタープライズの位置が分からないからそういうことなんですけど、普通の場合は沖縄直行でしょ。柳井さんが帰ってきたっていうので、エンジン不調かっていうので。帰ってきたのかって言う。これは聞きますよ。だからエンジンはピンピンなんだけど、コースがと。そういうちょっと特異なコースだったのね。ただ、レイテあたりでは、関大尉なんかでは3回目ぐらいかに激突したので。出ても帰ってくるわけで。索敵攻撃に出るわけだから、いないわけで、発見できないわけでしょ。そういうことがあったと思いますね。だから敵の艦隊も目標物がおって初めて特攻を掛けるということで、おらんところで特攻を掛けるはずはないからね。

この富安中尉(5月14日に出撃し戦死)っていうのがね、僕らと一緒に出てエンタープライズにぶつかった。戦果を上げたわけですよ。

Q:富安さんとは日頃会話などはされていたんですか?

それは、隊長だもの、僕たちの。

Q:どういった方だったんですか?

13期です。途中からね、筑波に来た人なんですよ。だからさっき言った石橋中尉や金子中尉とはまた違った。あれは筑波で育っている。この方はね、他の隊から来ましたね。

僕は一番北側を飛んでいるの。富安さんは南側を飛んで、エンタープライズに。だからあのとき、17機筑波から、第6筑波隊が出てね。3機帰ってきたの。僕を入れてね。3機。あとは14機が全部して、その14機のうちの1機、富安中尉がエンタープライズにぶつかって。

Q:第6筑波隊は、出撃は何月何日ですか?

5月14日。僕が帰ってきて、索敵攻撃ですからね。予定のコースで、この間でおったら攻撃しろっていうので帰ってきて。岡村司令(721航空隊司令・岡村基春大佐)に報告したのね。だから文句を言われるんじゃないかと思ってね。「ご苦労だった」って言ってね。

Q:文句を言われるんじゃないかとはどういう?

それは特攻隊で出てね、帰ってきてはね。敵がいなくて帰ってきたっていうのは、やっぱりちょっと体裁が悪い。全機が帰ってくればね、また別ですけどね。まああといわゆる通信室見たら、みんな突っ込んだ、突っ込んだっていうのが出でましたしね。ただ私は、一緒に出た3機は帰ってきましたからね。だからそのコースにはいなかったっていう証明はしてくれたという形にはなりましたけどね。だから他のものはみんな突っ込んで、あるいは途中で落とされたかということでね。岡村司令はそういうことでご苦労だったということで、それで僕はね、垂水っていうところの温泉で「休んでこい」って言って、2日ほど休養してね。

Q:当時の感覚としては、もちろん同じときに出撃した方は戦果を上げていますが、当時の感覚として、特攻全体としては、どれぐらいの戦果を上げたというか、例えば何機に1機・・・

それははっきり分かりませんね。

Q:分かりませんがどういう感覚でしたか?

分かりませんけど、とにかく1機でもね、我々の中まで1機でも当たればいいという考え方でね。これにはまあチームワークって言うかね。順番とか何か、どういうふうに突っ込んでいくとかいう感じのものはありましたけどね。最終的にはもうバラバラになったんじゃないかと僕は思います。向こうも。グラマンの邀(よう)撃が激しくて。そしてまた、それをかいくぐっていくと、今度は艦船の弾ぶすまっていうね、そういうことでなかなかぶつかるっていうのは難しいというね。だからそういう点では、今言うね、バンカーヒルをやった、エンタープライズをやっつけた、当たったっていうのは、これはちょうど今で言うサッカーのね、シュートを何回もやったけど、もうそのうちの1回がたまたま何したというような、はっきりとラッキーパンチみたいなものだったんじゃないかと思いますね。

Q:柳井さんご自身は、当時どういう目的で特攻に行くのだと? 何のために特攻に行くんだというふうに?

だから結局ね、戦争にはこれは勝てないだろうけれど、負けはしないというね。負けないためには特攻で死ななきゃいかんというなら行きましょうということね。だから負けるためだったら行かなかったですね。特攻に。全員が僕は行かなかったと思います。

Q:勝ちはしないけども、負けはしないと。そのための手法が当時、日本でいうと特攻という戦法しか残されていなかったっていうことですか?

特攻と言うより、要するに他のね、まあ戦略的なものとか、兵器とか何とか、総合的なものを見ても、命をね、いちばん大事な命を懸けて、命を賭してもやるという。このまあ崇高な精神とか、そういうもので切り札としてね、切っていったということだと思いますね。だから、誰もそのいわゆる生きたいし。まあ今の特攻の人たちでね、言いたいこともあるだろうし、やりたいこともあっただろうし、夢もあっただろうと。全てを23歳で捨てたんですよ。これはね、みんなが感じなきゃいかんということでね。だから、まあご遺族の方だけじゃなくて、本人がね、まあ生きて、自分の夢を咲かせて、青春をおう歌してね。それからまあ中高年になってもね、やりたいことはあっただろうと思うんですけど。これを全てを失わせたということはね、これはやっぱり彼らの死というものに対してね、満腔の謝意をね、まあ表すると共にね、僕はやっぱりみんなを忘れちゃいけないという感じがありますね。

Q:当時、特攻に対して抵抗がなくなったということに対しては、それはどうしてなんですか?

それだけ戦局がね、ひっ迫していましたから。我々はお役に立ちたいというね。だから、よく私申し上げているんですが、学徒動員でね。映画なんかでも雨の中ね、神宮でやるんですよ。競技場でね。雨の中で東条英機がスピーチするか何か。そういうので、要するに学業を捨てて戦争に行ったというので、割合そういう点ではね、マスコミ関係にも一般にもうける立場なんですよね。要するに、学生が被害者じゃないかという感じから見てもね。僕は、時々、いや、そうではなくて、我々はね、徴兵制があって二十歳になると徴兵で行かなければいけないのだと。自分の仲間なんかみんな行っているのだと。我々は21までね、延期してもらっていたのだと。勉強させてもらっていたのだということね。だから、いわゆるペンを捨てて銃を持ったと言うけど、当然来るものは来るのね。むしろ、遅ればせながら我々は参加したと、徴兵にね。という感じでおりますからね。そこに何らね、無理矢理に軍隊に行かされたとかそういうものではなくて。恩恵を受けていたんだから。むしろ恩返しをしなきゃいけないという、徴兵のね。国民の義務だったんだ。徴兵は。という感じでおりますからね。

Q:私は戦中を生きたことがないので、たいへん乱暴な質問かも知れませんが、死を持って戦いなさいということが、私はやっぱり受け入れられないんですね。どうして受け入れられたと思いますか? 死を持って戦いなさいと言うことを、当時としてはどうしてこう、それが皆さん受け入れられるという状況なんですか?

いやいや、ただ犬死にじゃいけないんですよね。戦果を上げるためには君の命がなくなるかも分からないよという形でね。ということ。やっぱり戦果ですよ。だから敵艦を撃沈するとか、やれ敵の何。空母なり戦艦なり、そういう大きい攻撃目標をね。これに対しての決定的ダメージを与えると。それによって日本の戦局を変えるという、そういう点において、しかし死ぬかも分からないよと言ったけど、それはいいです、やりましょうということでね。

それは、最後はもうめちゃくちゃだったと思いますよ。それは今言う白菊は出すしね。他の練習機のおんぼろのやつね。特に陸海軍共に言えるんでしょうけど、まあひどいということね。人の命がかかっているわけだ。その命は敵に当たって戦果を上げたいという熱い思いを持った命なんですよ。そういうのをおんぼろの機材でね、そらそら、行け行けって、それはちょっとまあ人命軽視と言いますかね。日本の悪い何があったと思いますね。

Q:戦闘機搭乗員に選ばれて、その後に特攻隊員に指名された。本当は戦闘機乗りとして空中戦で戦死なり活躍することを夢見ていた方々が特攻で戦死するジレンマはなかった?

これはね、あなたはいい点を挙げた。要するに中野司令とか横山飛行長とか、ゼロ戦のベテランのね、パイロットっていうのは反対したっていうのはそれは筋で分かるんですよ。ところが先ほど申し上げたように、僕たちの教官の72期の海軍の教官が、2月16日によう撃に上がって全機未帰還になったっていうことはね、もう教官すら太刀打ちできないということです。アメリカのグラマンF6Fにはね。教官以外に更にもっと優れた人でもおそらく太刀打ちできなかった。それをね、目の当たりに見ているわけなんですよ。すると我々のペーペーのね、まだ一人前の戦闘機乗りになっていない者がね、これ勝てるはずがないということは、このときに身に染みて分かったわけ。だから、それから4日のうちに特攻隊編成のとき、じゃあこれで行くんなら、これなら何とか行けるかも分からんっていう感じになったっていうことなんです。

(出水航空隊で14期チームを組んで教官教員チームと対戦したとき)ピッチャー石丸ね。キャッチャーは早稲田のキャプテンの近藤君とか。一塁は法政の本田とかね。写真にあるショートは立教の奥田とか。ライトは慶應の何だって、ほとんど六大学出身のメンバーなんですよ。それでやってね。僕たちは応援団なので。それでどうかと言ったら、バットに触らないのよ。石丸が放るボールが。だからね、もうコールドゲームになったわけ。それほどね、石丸の球は軟球だけどすごかったのね。普通の素人ではバットに触らない。威力があって。

Q:じゃあボロ勝ち。

まあボロ勝ち。ワンサイドゲーム。それでもうコールドゲームで、20対0か何かぐらいで、とにかく1点も入らない。ランナーが出ないんだから。内野・外野の守備が必要ないぐらい。バッテリーでいいっていう。それから我々に対する態度がザッと変わった。それで記憶に非常に残ってる。

Q:どう変わったんですか?

すごいっていうのは。やっぱりあいつら、だてに飯を食ってないって。野球のすごさを。飛行機の方になると、みんな予科練とかね、まあ教官だとか何とか、そういうのが何して、先輩だから上手ですよ。教える方だけど。だけど、飲み込みが悪いとか何とか文句を言ったり殴られたりしたんだけど、その野球があってから彼らの見る目が違ってきた。これはもう歴然として変わりましたね。ええ。これは石丸君のすごさっていうことで。それで初めて私もね、プロ野球のね、石丸っていうのはすごいなっていう感じを持ったわけ。

Q:その後石丸さんはどうなられたんですか?

特攻隊で、さっき言った第5筑波隊でね。5月11日の特攻で吉田君なんかと一緒に行って。そのときに鹿屋で確か本田君とキャッチボールをしていたっていう記憶はあります。すごい球を放るんでね。私も野球はあまり上手じゃないんだけど、見れば分かるんですけどね、すごいなって。ともかく大人っていう、ちょっと兄貴分的なものでね。年齢的には同じようなものなんだけど、やっぱりね、社会人としての何がね。襟度って言うかそういうものがありましたね。それからまあ、苦労してね、何、プロ野球に行ったぐらいのものがありましょうからね。ちょっと我々の仲間の中では違った存在って言うか。良く言えば傑出していた存在じゃないかと思いますね。

Q:最後のキャッチボールは見た?

それは野里小学校。

Q:それはご覧になったんですか?

よくっていうことはないけどね、しょっちゅうやっていたんじゃないかと思いますよ。僕は。時々僕は見ていたけどね。キャッチャーは本田君で。ファーストのね、本田君で。本田君は私と同じで、5月14日にエンタープライズをやっつけに出て戦死しましたけどね。いい男だったですね。

出来事の背景出来事の背景

【特攻~なぜ拡大したのか~】

出来事の背景 写真 爆弾を抱えての体当たり攻撃、特攻。戦争の終盤、日本はこの特攻でアメリカ軍を迎え撃ちました。戦死者は、4500人あまり。その大半が、二十歳前後の若者でした。
 昭和19年10月に始まった特攻は、終戦までの間に急激に拡大して行きます。特攻が初めて行われたのはフィリピンでした。最初に体当たり攻撃を行う事になる特攻隊が編成された10月20日。アメリカ軍がフィリピン・レイテ島に上陸を開始。20万の大軍が押し寄せました。太平洋の各地で敗退を重ねてきた日本軍にとってフィリピンは最後の重要拠点でした。しかし、主要な航空戦力を失っていた海軍には、強大なアメリカ軍を迎え撃つ手段がありませんでした。状況を打破するために立案されたのが、特攻でした。その戦果は、予想をはるかに超えたものとなります。20日に編成された特攻隊の一つ、5機の零戦からなる敷島隊は、空母3隻に命中してうち1隻を撃沈。隊員たちの命と引き換えに大戦果をあげました。
 この結果を受け、現地の海軍航空隊では体当たり攻撃の継続を決定。フィリピンの基地からは連日、多くの隊員が出撃して行くようになります。

 沖縄戦には、日本軍が開発したさまざまな特攻兵器が投入されていきました。ボートに爆弾を取り付け、敵艦に体当たりする、特攻艇、「震洋(しんよう)」。船体はベニヤ板。敵の銃弾を浴びただけで沈没しました。1.2トンの大型爆弾に翼と操縦席を取り付けた、「桜花(おうか)」。搭乗員は、桜花とともに攻撃機で敵艦隊の上空まで運ばれ切り離されました。しかし、桜花搭乗員の多くは、敵艦隊の上空にすらたどりつけず攻撃機もろとも撃ち落とされていきました。

証言者プロフィール証言者プロフィール

1922年
山口県美祢市美東町に生まれる
1943年
学徒出陣で慶應義塾大学から大竹海兵団に入団し、海軍飛行予備学生(14期)となる
1945年
4月、特攻隊員として鹿屋に進出。721航空隊戦闘306飛行隊所属となる
 
5月14日、鹿屋基地から九州方面へ出撃(神風特別攻撃隊第6筑波隊)
 
8月、富高基地(宮崎県日向市)で終戦を迎える
 
戦後は、大手総合化学メーカーに勤務

関連する地図関連する地図

日本(鹿児島)

地図から検索

この証言に関連したキーワードこの証言に関連したキーワード