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タイトルタイトル: 「戦火をくぐり抜けた戦車」 番組名番組名: [静岡スペシャル]陸軍少年戦車兵学校 ~少年たちがあこがれた戦争~ 放送日 2015年7月31日
名前名前: 吉留 一利さん(少年戦車兵 戦地戦地: 中華民国 日本(静岡)  収録年月日収録年月日: 2015年7月4日

チャプター

[1]1 チャプター1 戦火をくぐり抜けた戦車  12:15
[2]2 チャプター2 戦車兵学校で学んだ「人車一体」  05:12
[3]3 チャプター3 薄い装甲  02:02
[4]4 チャプター4 死に対する心構え  03:32
[5]5 チャプター5 戦車に懸けた日々  02:46
[6]6 チャプター6 平和を守るために  03:38

チャプター

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提供写真提供写真

番組名番組名: [静岡スペシャル]陸軍少年戦車兵学校 ~少年たちがあこがれた戦争~ 放送日 2015年7月31日
収録年月日収録年月日: 2015年7月4日

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Q:これは?

97式中戦車と言いまして、戦時中のいわゆる日本機甲軍の中核的な戦車です。

Q:吉留さんがいらっしゃるあたりはどういう方が乗られていたんですか?

ここは操縦席、操縦手が乗っているところです。これが走行用のレバーなんですよ。

これがステアリングクラッチです。4本レバーがあったんですよ。内側のレバーを引っ張りますと、クラッチでもって左側のほうはけっこう、動力が伝わらないので90度旋回するんですね。外側のやつを引っ張りますと右側に対して左側のほうが7割に減速されるんですよ。だからカーブとかそういうものをするときにはね、2本のレバーでいわゆる方向変換をしていたんですよ。

左には前方銃手。

Q:機関銃を撃つ方ですね?

機関銃を撃つ方、通信手なんですよ。そしてここには車長が立っていたんですよ。

これは57ミリの戦車砲ですから。ここには、いわゆるこれは動くんですよ。こちらにもこちらにも。上下左右。砲塔が360度回りますから・・・。砲手は砲を持ちながらですね、砲を動かして。それで弾はこのまわりにずーっとね、57ミリのりゅう弾砲だとかそういう砲の弾がついていた。弾が。

Q:壁際ですか?

壁際にです。ここにね。

Q:弾はどれぐらいの大きさだったんですか?

57ミリなんですよ。

Q:それが、いくつぐらい並んでいたんでしょう?

いくつぐらいかな・・・戦車の中には、戦車砲弾は、そこにも書いてあるけど、114発かいくらかだったと思いますが。もう覚えていませんから。

Q:壁一面という感じでしたか?

そうです。下にも弾を置いてたんです。機関銃の弾もですね。機関銃は2つついておりますから。機関銃は弾倉があって20発弾倉で撃ってたんです。20発撃つと弾倉を交換するか、あるいは弾倉にまた弾を詰め込んでね、そしてまた機関銃に付けるかと言うことをしていたんです。この付近にはここにちょっと空間がありますけれど、この辺には機関銃弾の銃弾を入れた弾倉がちゃんとついていたんです。いくつあったかというのは覚えておりませんけれど。

Q:でもこの空間に4人はかなり窮屈だったんじゃないですか?

そうです。窮屈ですよ。操縦手と前方銃手は腰掛けがあったんですけども、車長と砲手は腰掛ける場所がないから、ここにあったエアクリーナーとか、この付近にいわゆる、座って休めていたんですよ。休んでいたんですよね。

Q:思うように身動きってとれましたか?

結局、それぞれの職務と任務に従いまして、その範囲内だったからですからね・・・慣れてくるとちゃんとします。しかしいちばん大変だったのは、車長や砲手は大変だったと思います。立ちっぱなしですからね。

車長はこう立って、下にまだ台があったんですがね。これが覘視孔(てんしこう)と言って、見るところですよね。だから、天蓋を閉めた場合は、ここがちょうど車長の目の高さというとこだったんですよ。

Q:細いですよね、何ミリぐらいで見えたんですか?

2ミリの10センチです。そしてここには、社務所にありましたガラスのあれがついていたんですよね。だからこの近くに弾が当たると、小銃弾で弾が当たると、鉄の所にガラスでしょ、ビビーと来て真っ白くなっちゃうんですよ。だから砲手は逆にこれが動くものですから、こっちは、車長がここにいるときには砲をこういうふうに向けて、こちらのほうに、こういうかたちに立っていたんですよ。

Q:ここに2人立っていたんですか?

そうです。ここに2人。

Q:ここに2人?

はい。だからこういうかたちで砲手は砲を持っておりますから。砲手は砲身を上下するためにこういうちゃんとハンドルつきのものがありましたし、左右にするには砲塔を回すのがこういうハンドルがあったんですよ。だから車長は砲塔をまわすときにはね、ずっとその砲手とのそういう微妙な車内での動き方には注意が必要だったんですよね。だから「人車一体」というかたちで、戦車を全て知っておかないと、そういう小さな動作ができなかったんですよね。だからそこは、訓練によってそれを補ってきたということなんですよ。

Q:こんなに大きいエンジンがあって音はうるさくないんですか?

それは中のほうにも若干はそういうふうなのは聞こえてきましたけれども、慣れてくるとさほどまで感じなかったですね。

Q:4人で話せたりするんですか?

それは無線機使って。言葉で言う場合でない場合は、聞こえないなら無線機で使えばいいわけですからね。車長が命令するとぴしっとして、一方通行の無線機で。各、各、各と言ってから、するとみんなに伝わるという式のものだったんですよ。

Q:操縦手の所からはどうやって外を見ていたんですか?

操縦手のときはそこに前扉がありますけど・・・

Q:どちらですか?

この真ん前、ここのところです。操縦手は、操縦手はここのところで、これは今は扉を開けているから広いけれども、・・しかないでしょ。ここは扉がないので、こっちからこう、さっき言ったように2ミリの10センチがここに1か所。これが1か所。これは今言ったように扉を開けられるんですよね。

Q:吉留さんはそこから外を見ていたわけですね。その前扉から。

はい。この1、2、3か所から見ていたんですよ。視界はここからですね。左右はこちらから見て。だから機関銃手は1.8倍の眼鏡がついております。砲手は4倍の眼鏡がついておりますから。非常に前を見るのは眼鏡で見るとよく分かるから教えてくれるんですよ。だから何回も言いますけど、人車一体でこうだこうだと。だから時計の方向で12時の方向、1時の方向、2時の方向とかいうことで。その向こうにいろんな自然の現象でいろんものがあるでしょ。木が生えておったり電柱があったり、何があったりその方向を全部教えてくれてね。それで無線機は4人とも無線機を付けておりますから。一方通行で無線が入りますから、全てそれを聞くことができたんですよ。

Q:私は熱くなってきたんですけど、熱くはなかったですか?

いや熱いんですよ。エンジンは空冷式だけれど、エンジンの温度がこう来るでしょ。今度は鉄板ですからね。熱いところだったらものすごく暖まるから、熱が伝導してしまうんです。桂林作戦、湘桂作戦のときは、摂氏42度だったから、もう熱くて。どうしようもないくらい熱かったんですよ。蒙古ではマイナス32度で。今度はあべこべで。寒くてですね。だから非常にこういうところに手でやらずに、全部手袋をはめて操作をしていたんですよ。

この戦車はさっき言ったように砲手だけしか残っていませんでしたから、こういうものが貫通してきてもね、しかし、こう来るとここらへんにあった、機関銃や砲の弾薬に当たったらそれが爆発しますからね、非常に危険は高かったということが言えると思うんですよ。

Q:吉留さんが乗られていたときは、戦車は貫通はなかったんですか?

ええ。私はそういうあれは・・・私は河南作戦でも桂林作戦でも、戦車は故障はしましたけど、全部自分で直しましたので、戦闘に対するのは全部無故障で無事通過しました。何ひとつ。無故障で通過しましたからね。全部それも自分で整備して、あるいは部品を交換したり。その時間はやはりあるんですよ。

軍人精神で、5つの軍人精神があるわけでしょ。「忠節を尽くすを本分とすべし、礼儀を正しくすべし」と、そういうこと、ここにもありますけれども、そういうものが全部あるの。だから、われわれはもうこういう形で、「戦車兵は人車一体なり」と。「獅子奮迅せよ」と、「適中突破」するんだと。それで「戦勝の道を開くは第一使命」であるんだと、だからそれの「本領を発揮」せよとかとか言って、そのためにはどうするかというと、そのためにはこういう「認知、判断」とか、「帝国軍人は、股肱(ここう)の臣」であると、天皇陛下の臣であるとね、だから「命令には、絶対服従」で、「士は己を知る人のために死す」と。「信頼、柔順、・・・」こういうこと、だからこんなのはもう全部、習っているんですよ。教科の中で。

この人車一体にするのなんかも、これなんかも学校でこういうことを習っていますから。

Q:これは吉留さんがそのあと作られたけど・・・

そうそう。

Q:当時。

当時はこれはこういうふうな格好で習っているの、「安全五訓」というね、「戦車に乗ったら目の色を変えよ」と、「障害には絶対にアクセルを離せ」と、「車内通話で・・・」というね、車内では4人で、ほら、お互いにするでしょ。「危ないと思ったら戦闘室にもぐれ」と、そして「不明な場所は下車誘導」しなさいと。

Q:「戦車に乗ったら目の色を変えよ」ってどういう意味だったんですか?

それは、結局、戦車の操縦をしても限られたところでしょうが。だからそこの中を非常に、さっきの「認知、判断、操作」じゃないですけど、十分に目の色を変えてもう集中せよということですよ、集中力を持ってせよということですね。

Q:じゃ、そういう精神力を鍛えぬけと。

そうそう。精神一到何事か成らざらんという言葉があるでしょう。そういうことだから、上官の命令に対して、こうして操縦手だったらこういうふうにすると、だからどこまで行くんだ、あそこの目標まで行くんだと、絶対その目的地まではもう無故障で持ってする、そのためにはエンジンの油圧とか、それからラジエーターの温度だとか、エンジンオイルの温度だとか、速度だとか、そういうものを全部調整をしながら、そういう面では、何回も言いますけど、認知、判断、操作ということをするわけですね。だから、1じゃなくてすべてのそういうものを知っておかなくちゃいけないわけですから、そういうのはもう全部学校の中で、こういうことで、徹底じゃないですけど、総合するとこういうことになるんですよ、2年間の教育訓練の中で。2期生と3期生だけがまだその少年戦車兵でも2年間の教育訓練を受けたんだ、1期生はもう7月31日に卒業しています。2期と3期は11月10日で卒業、4期はまた早かったんですよね。

Q:だんだん戦局が変わってきたんですよね。

そうそう、戦局、変わったの。

Q:戦車って先ほども拝見したように狭かったりですとか、あと当時は壁もずいぶん薄かったみたいですよね。そういう兵器の中で力を発揮するときには、やっぱり精神力が重要だと言われたということですか?

そうですね、そういうことですね。だから、精神力という、それは心技体でしょ、だからそういうことで、結局、精神的な面で、この技術的な面と学力的な面を今度は全部集中して戦車に持っていけば、戦車はちゃんとそれに対してはちゃんと受け答えしてくれるわけですから。ちゃんと整備すれば、グリスアップなんかしたらちゃんと・・・もきれいに回りますしね。
だから、そういうことも、だから何時間おきにグリスアップしなさい、何時間おきにエンジンオイルをこうしなさいという。だから、戦争が終わったら、戦闘が終わったら、まず燃料が何リッター残っているか、エンジンオイルはどれだけ入っているか、もう全部そういうのを調べなくちゃいけない、それはもう食べることはあとにして。だから、操縦手というのはもう第一線のところはそういうもので、全部、戦車の、何ですか、整備が終わってから食事していたんですよ。そうすると、戦闘する間は操縦手は弾を撃つことはないんですからね。動かすだけですから、だからそれぞれの任務と使命というものを、命令を受けて行動するわけですからね。

Q:日本の戦車はアメリカやソ連の戦車や軍力と比べてはどうだったんですかね。

どうだったかと、それはわれわれは外国の戦車までは習っておりませんから分かりませんけれどもね。

Q:でも、貫通してしまうということは、向こうの兵器にも力はあったわけですよね。

そうですね。だから、行軍するときも、小銃や機関銃で向こうから撃ってくるでしょ、そのときもまっすぐ行くんじゃなくてこう蛇行していくんですよ。そうするとまるいところがちょっと斜めになると貫通しちゃう、直角に当たれば貫通するけれども、そうでなかったらということでね。

Q:じゃ、そういうのは技術でカバーしろという。

そうそう。だから、それはもう全部命令的な面もありますし、技術的な面と、それから戦車の材質を、砲塔の材質と、それからキャタピラの横っちょのそれと、前のほうの扉なんかというのは全部材質が違うんですよね。マンガン鋼か、ニッケルクロム鋼かということで、それにもあるように、そういうものをちゃんとわきまえなくちゃいけませんから、それはちゃんと覚えておかなくちゃいけないんですよ。かぎを閉めるところ、こうするところですね、全部そういうものも。ですから、ここに、戦車を知らずして戦車兵というなかれと、だから少年戦車兵というのは、勅令でもあるように、現役下士官を育てる教育ですから、そのところは十分に勉強しておきなさいと、それを知らずして戦車兵とは言えないんだということだったんですよね。

卒業する前だから、大体もう17歳から20歳ぐらいのところですからね。みんな、ほら、自決の方法は習っているでしょうが、昔の軍人は、武士は切腹していたでしょうが。切腹だけでは、結局、息が止まらないから首を切るとかということで、首筋を切るのか、ここを切るのか、拳銃でこうするのか、それからこの、ごんぼ(ごぼう)剣になったら、こういうので、これは、ここに心臓のところへやって前に倒れれば心臓をするわけでしょうが。だからそんなこともね。これは正式な授業じゃないですよ。だけど、そういうことなんかはちゃんともう、区隊長や班長でも、何でしょう、戦地に行った経験のある人がおるわけだからですね、いろいろなことも、そんなことも雑学の中でちゃんと教わったんですよ。

Q:当時は、吉留さんご自身は死ぬことというのは、死というのはどういうイメージがありましたか?

だから、私はおじさん2人と、父親のいとこなんかがいたのがノモンハン事件で亡くなったので、私はお兄ちゃん、お兄ちゃんと言って小学校ごろからいろいろ面倒を見てくれる人が亡くなっていたから、その人たちはもう名誉の戦死をしているでしょ。だから死は全然怖くないの、もうそういう人が亡くなってからですね。だから、私のうちの、母親の弟が大阪にいたんですけれども、その中でおふくろ2人で、そこに、何ですか、おじさんのうちにいて、それから京都の西本願寺に、うちは宗教は西本願寺ですから。そこをしてから、それで別れて私は戦車学校に来ました。入校する前も、だから宮崎を1日も2日も早く出たんです。だから死は絶対恐れなかったんですよ。

Q:学校でも恐れるなと習いましたか?

いや、そんなことは別にはですね、そこまでは教えてくれないけれどね、間接的にはそういうことがありましたけれどもね。だけど、私はそういう経験をしているものですから。

Q:間接的にはそういうことは教わるというのはどういうことですか?

間接的にというのは、だから散る桜、残る桜も散る桜でしょ、軍人として戦場に行くんですから。いつ死に直面するか分からないですもんね。だから、死を恐れておったらだめだから、その死を越えていかなくちゃ。だからここに止まっているかといったらパーンと動く、どんどんこうして動いて。機敏なる操作によってと言っているんだから、そういうことですると命は、何ですか、敵の弾を受けるのが少ないからね。

怖いとか何とか言っていたらもう何もできませんからね、それを乗り越えて自分でやっていかなくちゃいけないんですよ。僕はそういう考え方で、死は決して恐れないと言って。死は天命ですから。

Q:あと、戦地に行かれて、ご自身の戦車は大丈夫だったとおっしゃいましたけど、戦闘状態になったこともあったかと思うんですけど、そういうときに苦しい思いというのはされなかったですか?

いえ、もう全然。車長の命令で、特に私は最初から、3日目から小隊長の操縦手となったから、もう小隊長車というのは3両ずつ同じ戦車であるでしょ。こっちが中心になっていくわけですから、ちゃんとほかの人は2台はついてくるわけでしょ、だからある面ではリーダー的な面もあるものですから。ちゃんとそれはその人たちのことも考えて行かないと、自分だけがいいこと、こう行ったってだめなんですよ。だから、これはもう人車一体でもって、何につけてもですね。だから、人をとがめず、己の誠の足らざるを尋ねべしって、全部自問自答をして、反省をして、自省の心を忘れずにというのは、そういうのはちゃんと教科で習っていますから。おれはこれでよかったんだというので、それでよかったのかなと自省の心で、そうでなかった、こうすべきだったんじゃない、それは1つの方法だけど、ほかにあったんじゃないかなとね。三種の神器じゃないけど、3つの考え方は常に持っていないとだめなんですよね。

Q:3つの考え。

はい。これでいいのかなと、上官の命令はどうかな、それからここにいる隣近所の人はそれでいいのかなという、そういうことも考えなくちゃいけませんから。

Q:今、振り返ると、少年戦車兵学校のような学校というのは、よかったと思われますか?

それはね、自分の夢と希望を達成するためにそこに来たことですからね。選んで自分が入ったことは、それにはもう僕は満足しています。だから、戦車学校に入ったがためにいろいろなことを、勉強できたわけです。だから、さっき言ったように、復員してからでも、戦車学校で免許なんかを取っているから、全部、私は、この前も話したように、宮崎・・・全部、自分で免許の試験を受けて取ったんですから。

昭和16年の11月28日に勅令が出ているんですよ。陸軍少年戦車兵学校を独立しなさいと。そうしたら東京の軍部からここに来て、1週間でこれを30万坪ずつ接収したみたいです。そして、12月15日にはもうこれだけの施設を作るために、あそこにあるね、それの起工式をやったの。だから昭和17年7月いっぱいに終わって、8月1日には千葉からここに来れたでしょう。そういう地元の人たちがここでやって、今のいらっしゃる方のおじいちゃん、ひいじいちゃん、おばあちゃんたちがみんな面倒を見てくれて戦車学校を出たので、そこで私は卒業して戦地に行って、だけど終戦になってこうなったんだから。だけど、今、その人たちの子どもや孫やひ孫という人たちに言っても、それはおじいちゃんやひいじいちゃんの気持ちは伝わっていないんですよね、終戦になりましたから。だから、そういうことを考えると、今、あなたが言うように言い伝えられていないんだと。そうするとこの土地をどうするかということになると、もうどういうふうに話をしたらよろしいか、この教官になった人の子どもやら孫さんや何かもいるけれども、全然、話をしても通じないんですよ。だから、子どもさんは教官だった人が、私がずっと昭和40年から、この塔ができてから今日までしていますから。ずっとお葬式から何かに全部行っていますからね、だからあなたのことはよく知っていましたからねと。あんたが草取りするんだったら電話してよ、私も加勢に行きますよという人は、今はもうたった1人はいます、もうほかの人はみんな亡くなったらね、今度、奥さんや子どもや孫になりますからね。その人たちはもう全然いませんよ。そうしたらね、どう伝えようもないんですよ。

Q:吉留さんはどうしてこの若獅子神社を守ろうと思われているんですか?

それはここで亡くなられた方々に対して、同じ目的を持って、同じ戦車学校を出て卒業して戦地に行って、同じ外国とも戦ってと。その途中で亡くなられた方がここにお守りしているわけでしょ。それは靖国神社として、これは護国の鬼とも言われるしね。だから、もうそういう方たちのために私は、そのおかげで生きているわけですから。平和だから。だから、もうその人たちに恩返しする意味でね、私はここを守りたいと。

二度としてはいけないんですよ、尊い命ですからね。僕はだから戦争はしてほしくない。だから、ここは平和の守り神ですよということと、ここにもあるように、学業成就の神様になってほしいということと、それから交通安全と産業振興の神様であって、日本が平和になってほしいなと、僕はそれだけですね。

出来事の背景出来事の背景

【陸軍少年戦車兵学校】

出来事の背景 写真 陸軍少年戦車兵学校は昭和16年に設立され、14歳から19歳までの少年たちが全国から集められました。学校設立のきっかけは、昭和14年のノモンハン事件でした。日本軍は、中国東北部とモンゴルの境界をめぐって、ソ連軍と衝突し大敗。兵士の育成と、軍備の再構築が大きな課題となったのです。戦車兵には、操縦や整備など、高度な技能が必要とされていました。学校を設立することで、10代から専門的に教育して、戦車兵を増やそうとしたのです。少年戦車兵を募るポスターが全国のまちに貼られ、戦車兵になることがお国のためになると宣伝されました。少年たちは次々と戦車兵学校を目指し、競争率は数十倍の難関となりました。

 学校の育成課程は、2年間。「人車一体」をスローガンに徹底した教育が行われました。戦車の整備や修理ができるように、車体のしくみを学習するほか、通信の訓練や、実戦にみたてた演習なども行われました。しかし、戦局が悪化し始めると信じられない戦法を教えられました。アメリカ軍の戦車は、装甲が厚く、日本の戦車砲では打ち抜くことができなかったため、砲塔の脇ののぞき穴を狙うという戦法でした。それは、500メートルの距離から、数センチの穴を狙えと言うのと同じ事でした。

 一方で、日本軍の主力戦車は装甲の厚さは、1センチから2センチしかありませんでした。車内は狭く、銃弾や砲弾は、壁ぎわに置かざるをえませんでした。薄い装甲を敵弾が貫通すれば、一瞬にして全員が命を落とすこともあったのです。少年たちは、いざというときの自決のしかたや、遺書を書き、遺髪を用意することも指導されました。当初2年間だった課程は、戦況の悪化に伴い短くなり、繰り上げ卒業をして戦地へ赴いていきました。

証言者プロフィール証言者プロフィール

1925年
宮崎県小林町(現・小林市細野)に生まれる
1941年
12月、陸軍少年戦車兵学校へ入校
1943年
11月、卒業し、中国へ。河南作戦や湘桂作戦に参加
1945年
鄭州で終戦を迎える
1946年
復員
 
戦後は、建設省(現・国土交通省)国家公務員になる

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