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タイトルタイトル: 「偵察用練習機での特攻」 番組名番組名: [NHKスペシャル]特攻 ~なぜ拡大したのか~ 放送日 2015年8月8日
名前名前: 田尻 正人さん(海軍特別攻撃隊 戦地戦地: 日本(鹿児島)  収録年月日収録年月日: 2015年6月16日

チャプター

[1]1 チャプター1 「白菊」の操縦員に  03:36
[2]2 チャプター2 “幻の特攻隊”  06:52
[3]3 チャプター3 練習機での特攻  11:37
[4]4 チャプター4 白菊隊出撃  04:11
[5]5 チャプター5 帰らなかったものたち  06:50
[6]6 チャプター6 突然の出撃中止  14:53
[7]7 チャプター7 終戦後の出撃待機  05:46
[8]8 チャプター8 無謀な特攻作戦への憤り  09:32
[9]9 チャプター9 まひする“死”への感覚  02:46

チャプター

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提供写真提供写真

番組名番組名: [NHKスペシャル]特攻 ~なぜ拡大したのか~ 放送日 2015年8月8日
収録年月日収録年月日: 2015年6月16日

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Q:これは何の時の写真なのかご説明していただけますか?

これはただね、昔の私の写真という意味で持ってきているだけです。これは上海におる時のゼロ戦に乗っていた時代にね、撮った写真で。私の仲間がね、同期生が撮ってくれた写真です。

Q:おいくつぐらいですか? このときに。

22。22歳。全部。

Q:もともとはゼロ戦に乗っていらっしゃったんですか?

もともとはね、ゼロ戦。ゼロ戦に乗っていたわけ。我が海軍年譜を読まれたと思うけど、あれにあるようにね。ただし、まあゼロ戦と言っても、私なんかは本当にひよこぐらいのものでね。上海のこれ実戦部隊ではあるんだけれども、私は実戦には幸か不幸か遭遇していないんです。だけど、この上海はゼロ戦の実戦部隊だった。これは徳島にね、着任してから後の、これは白菊(機上作業練習機)です。

Q:これがお正月で、こっちが4月で、3か月後ぐらいで。

うん、そうですね。

Q:ゼロ戦に乗っていらっしゃったのに白菊に乗られた。その違いは今も覚えていらっしゃいますか?

昨日までね、昨日まで何て言うかな。プリウスに乗っていたものが、いきなり今日は軽四に乗るようなものですよ。たとえて言えばね。上海の実戦部隊ですからね。いちばんいい最新鋭のゼロ戦に乗っていたわけですよ。ところが徳島に来てみたら、私の見たこともない飛行機がおってね。何だろうかなと思って聞いたら、それが白菊だということでね。まあびっくりしたわけですよね。私はもう徳島の航空隊に転勤って聞いた時には、引き続き徳島のゼロ戦に乗れるものとばかり思って来て、同期生3人が赴任したの。ところが、あに図らんや、来てみたら見たこともない。私、今まで見たことがない。この白菊というね、飛行機はね。びっくりしたんですけどね。

Q:こっちはどこにいらっしゃるんですか?

書いてあるでしょう。そう。これがね、私が言う幻の特攻隊の仲間です、これはね。

Q:幻の特攻隊。

というのはこれから説明するわけだけれども、実際に串良まで行っているわけですよ。そのときの仲間です。命令を受けて。ところが私たちのこの隊だけは、昼間攻撃。昼間の攻撃だったわけです。他の徳島・高知の白菊隊は全部夜間出撃で戦死しているわけですけれども、なぜか私たちのこのね、隊だけは昼間攻撃と言って昼間飛ぶ特攻になっていたんですよ。資料をお送りしていると思うけれども、各第1次から第5次までの特攻隊は全員氏名から階級から出撃の時間から全部書いているのがあるでしょ。これは海軍の公報というのに全部載っているわけですよ。ところが私たちのこの隊だけは載っていないの、全然。

Q:それは直前で中止に…

だから私は幻の特攻隊だと。ね。私の同期生でさえもね、「それはうそだろう。串良まで行ったというのはうそだろう」と言うぐらい。なぜかというと、「海軍の公報に載っていないじゃないか」と、こう言うわけですよ。

Q:これはどこの基地で撮られたんですか?

これは徳島の航空隊。出撃の前に写しているわけですよ。

Q:このときは死を覚悟されている。

もう決まっているわけですよ。串良まで行って特攻で行くということはもう決まっていたわけ。

Q:なんか、みんなちょっと、少しだけ…

座っているのはね、僕らの同期生。13期の予備学生出身者ばかり。この人はね、分隊長でね。まあ我々の分隊、海軍の組織を分隊と言うんですけどね。分隊長ってこの人がいちばん偉い人。あとはこれもこれも、私、これ、これは同期生。13期の予備学生出身の同期生で、あとの立っている人たちは下士官、兵隊さん。下士官と兵隊さん。出撃の前に撮っているわけですよ。5月の何日かって書いてあるでしょ。

Q:26日と書いてあります。26日早朝って書いてあります。

早朝に上がるようになっていたわけです。

Q:なんかちょっとこう、みんな複雑な表情ですね。

そう?

Q:少し笑みを浮かべている人もいれば、しかめている人もいれば。

これは僕らが徳島の航空隊をね、出撃、串良に行く前ですからね。みんな緊張しているはずですよ。

これはええっとね。これは私たちの分隊です。私はここにおりますけどね。私がこれです。でね、この写真もね、出所は僕じゃないかと思うんです。引き延ばしていますけどね。元はもっと小さいの、原画はね。僕が出したやつじゃないかと思うけど、それは根拠ははっきり言えませんけど。

Q:この写真はどこにいらっしゃるんですか?

これはだからこれですよ。これ。

Q:どういう仲間と写っていらっしゃる写真ですか?

どういう仲間ってね。どういう仲間って言ったらいいか。これはね、私が幻の特攻隊と言ったんだけども。ここに写っている人たちは、もともと徳島の航空隊でずっとね、白菊というこの偵察練習機。偵察の練習機で偵察の訓練をもともと受けておった人たちがほとんどです。ここに載っているのはね。ところが、ここにおる私を含むこの人たちは、言うなればね、外様です、外様。徳島におった者と違って、昭和20年の3月の末に全国って言ったらオーバーになるかもしれないけれども、よその、徳島以外のよその航空隊から寄せ集められた人たちばかりで編成した31分隊という分隊。さっき組織と言いましたけどね、ここに52名おるんですけどね。その分隊です。さっき言ったように、この人がね、この31分隊の分隊長でいちばん偉い人ですけどね。あとは私たちと、それからさっき言った下士官・兵隊さんという人たちの記念写真です。これも出撃の前の記念写真です。

Q:最初は中国でゼロ戦に乗っていらっしゃったんですね。

うん。中国でって言うよりも、中国に行く前に台湾でゼロ戦に乗っていた。ゼロ戦の訓練を仕上げて、そして今度はそれぞれいろいろ隊に分かれるわけですよ。卒業したらね。我々みたいに実戦部隊に配属される者もおれば、さっきの白菊のね、操縦に回されるものやらいろいろ分かれるわけです。それで私は、幸いに実戦部隊である上海の航空隊に配属になったということ。上海に行ったのは10月から11、12、それから1、2。2月27日付けで徳島海軍航空隊付けという辞令が出たわけです。ところが、もうその当時はもうね、飛行機がなくてですね。我々を乗せて内地に帰る飛行機がもうないんです。もう戦争に負けている時代ですから。そういう余分な飛行機がないものだから、発令が2月だったけれども、実際に我々が、我々というのはこの上海の256(海軍航空隊)では私と3人。それからね、上海でもう一つね、上海航空隊っていうのがあったんです。白菊の偵察の訓練をするね。上海航空隊っていうのがもう一つあって。その連中からやはり何人かな。4~5人がね、高知の白菊特攻隊じゃない。白菊。高知の航空隊に、まだ特攻隊になっていないですよ、その時点ではね。高知の航空隊に転勤になる連中と私たち3人とが内地に帰る飛行機に幸いに乗って帰ることができて。そして、ひと月、辞令よりもひと月遅れて、3月の末に初めて徳島の航空隊に着任したと。着任してみたら、さっき言ったように、私たちがこれまでに見たこともない飛行機がいっぱいおったと。それ何って聞いたら、これは練習機だと。偵察の訓練をするための練習機で白菊という飛行機で、そして更にびっくりしたのは、この練習機でどうやら沖縄に特攻を掛けるらしいと。その時点ではね。3月末ですよ、まだね。正式には発令にはなっていないということで、びっくりしたわけね。最初の予想と全然違ってね。ゼロ戦に乗れるどころか、いま言うように見たこともないような飛行機に初めて乗るということでびっくりしたわけですよね。

Q:練習機だと聞かれた時はどういう心境でしたか?

今言うように生まれて初めて見る飛行機ですよ。私たちはほら、操縦員ですから、操縦の部隊でずっと来ているから。しかも、ゼロ戦というのは1人乗りだから、偵察員はいらんわけ。ところが、同じ操縦員でもね、後ろに偵察員を乗せる操縦もあるんです。例えば艦上攻撃機、艦上爆撃機とかいうのは、後ろに偵察員を乗せて飛ぶ飛行機。ゼロ戦は後ろは誰もいない、1人で飛ぶわけですね。ですから、なおさらのこと偵察員なんていうのは、訓練する航空隊があって、しかもこれはその、練習機だと聞いてもうびっくりしたわけですよ。
だけど、もうそういうことが分かってもね、これは戦争中ですからね、びっくりはしたものの、それはもう命令ですから、命令に従わざるを得ないわけですね。それから3月の末に着任したでしょ。それから4月に入って間もなくね、この搭乗員全員が集められて、今の海上自衛隊っていうのがそのまま残っているのよ。昔の海軍航空隊がね。建物も滑走路もそのまま残っていますけどね。その中に4月の日にちははっきり記憶していないんですけどね。4月の初めだったと思いますよ。集められてね。そしてこの中でいちばん偉い人が司令って言うんですけどね。その司令がみんなに、「おまえたち、徳島白菊特攻隊員を命ずる」という命令が伝達されたわけですよ。正式にね。「特攻隊に命ずる」と。それでそれからその白菊による訓練を我々は受けるわけです。

(初めて操縦したときは)まあ情けないという気持ちもあるわね、一つにはね。今まで曲がりなりにもゼロ戦の操縦員で来た者がね。何とこんな練習機に乗せられて、しかも特攻機だと言ったらね。まあやっぱり正直がっかりしますよね。ましてや同じ飛行機であっても、乗ったことがない。ほんと正直ね。それに乗るわけですけどね。だからね、普通ののんびりした平時の訓練と違ってね。ここにある我々のさっきの31分隊ね。31分隊がね、交代でね、操縦するわけですよ。前の席に1人で操縦する。いろいろとそれは教えてもらいますよ、先輩にね。同じ飛行機と言ったって全然違うから。ね。違うから、いろいろと先輩に教えてもらうわけですよね。そして、まあ慣熟。慣というのは慣れるという字ね、それから熟は、熟する。慣熟飛行って言うんですけどね。何が何でもとにかく白菊にまず慣れるということから始めなければいけない。だから、その毎日毎日交代でね。1人が操縦が終わったら、はい、次って、後ろのやつがまた前の操縦席に来てと言って交代でね、操縦するわけ。幸いなことにこの白菊という飛行機はね、練習機ですから、非常に何と言うかな。乗りやすいの。スピードたるや新幹線よりも遅い229キロ(時速)。最高スピードがね。高度5,000メートルしか上がれない。それから航続距離も短いというので、練習機ですから、何しろね。それだけに性能もいいし、乗りやすいんですよ、正直。それはもうゼロ戦みたいな実戦の飛行機とは違ってね。実際に乗りやすい。それでも初めてですからね、何度も言うようにね。だから交代で毎日慣熟。何が何でも1日も早く慣れるということをまあ先決にね。訓練をするわけです。

Q:でも乗りやすいだけあって速度も出ない、高度も上がらない。敵からすると攻撃しやすいですよね。

それはそうですよ。実戦ならともかく、言うたらおもちゃの飛行機ですよ。そんなもの、アメリカのグラマンみたいな優秀な戦闘機と、こんなおもちゃみたいなのと、どだい勝負にならないですよ。誰が考えてもそんな、脚が生えたままでしょ。後で説明するけどね。串良から沖縄まで5時間掛かる。海面スレスレでね。それよりもまず今何度も言うように、この白菊に慣れなきゃいかんということで、まあ訓練をする。しかしもうそのときには時間がない。もう今言うように、4月いっぱい訓練をして、5月23日には第1陣の60機がこの松茂(徳島東北部)の航空隊を離陸して、前進基地の串良まで行ったわけですよ。

徳島の串良が前線基地で。5月の23日に60機、第1陣、私も第1陣に入って。そして串良に行った。これにあるように、途中でね、築城あるでしょ。築城に寄って、休憩して燃料を補給して、そして一路今度は南下して串良に行くわけです。途中に私の家、実家の上を通るわけだけどね。あれに書いてあったと思いますけどね。そしてその日の夕方に無事に串良に着いたの。ところが、その日の夕方。これも翌日という説があるんだけど、私の記憶では着いたその日だったと思うんですけどね。早くもグラマンの空襲があった。それで60機の内40機がやられた。それで大急ぎで整備兵が壊れた飛行機をかき集めてね。部品なんかをかき集めて整備して、翌日の24日の晩には第1次が串良を飛び立ったと。そして、徳島の白菊隊。高知もそうですけどね。第1次から第5次まで串良から出撃するわけだが、この5次の特攻隊は全て夜間です。夜間。

Q:それはどうして夜間なんですか?

分かるでしょう。昼間飛べないじゃないですか。ね。練習機ですよ、何度も言うように。練習機に250キロという爆弾を2発。500キロ、脇の下に抱えて、串良から目指す沖縄の慶良間。今の慶良間諸島っていうのがあるんですよ。そこまでアメリカの艦船に向けて出撃するのに5時間掛かるんです。昼間飛んでみなさい。どうです? こんなしてヨタヨタ500キロ抱えた白菊がですよ。真っ昼間、アメリカの戦闘機がわんさと待ち構えている中を、どうして行けますか、沖縄まで。だから、夜間攻撃をした。月面を利してということになっているんだけどね。全部夜間です。時間まで出ているでしょ。離陸した時間まで。1分、あるいは2分おきぐらいにね。昼間は3機編隊でね。普通はね。編隊で上がるんだけど、夜間は危ないから1機ずつ時間を置いて離陸するようになっているんです。それで5月24日には早くも第1陣が飛び立ったわけ。そしてこれには載っていませんが、これには実際に戦死した人たちしか載っていませんけどね。

もう終戦のこの頃になると飛行機も故障しがちになって。そしてね、夜間でしょ。いくら5月と言っても、もう8時ぐらいになると暗いですよね。その暗い夜間に500キロという爆弾を抱えて、そしてね、5時間掛かる。そしてね、ないないづくしですよ。あるのは500キロの爆弾だけ。ないないづくしっていうのは、ライトをつけてはいかん。ライトをつけたらもう漏れるからやられるからね。ライトをつけてはいかんから、ライトもつけてはいけない。それからね、無線機。普通無線機を積むんですよ。無線機を積むんだけども、これ無線機をね、どういうわけか知らないけれども、例えば第1次の5月24日に出撃した連中は、無線機を積んでいたのはたった2機だけ。

Q:そしたら単機で行くんですよね。途中で引き返せとかあとは突入の電報とかどうするんですか?

指揮所からね、普通はね、無線でね。無線で、おまえ、今から行っても間に合わないから引き返せという指令が出るわけですよ。だけど、無線機を積んでいなければどうします? 行かなきゃしょうがないじゃない。ね。だから、そういうので、ボチャンボチャンと途中で落ちたりしたのがほとんどだと思われるんですよ。それから無線機をまずなんで積まなかったのか。もう死ぬやつだからもったいないと言って外したのか、それは分かりませんけれども。無線機も外してしまう。それからまあガソリンだけはね、いちばんいいやつを積んではくれるんですよ。その他に今度はね、もう一つないのがある。何かというと、チャートと言ってね、海図。海の地図と言うんですけどね。要するに地図ですよ。沖縄まで行くのに、初めてですよ。昼間だったら分かっても、夜は真っ暗なところを飛ぶのに、どこがどこやら分からないから、地図がいるわけですよ。常識ですよ。その地図も渡してくれない。なぜか。何か一説によると、何か地図が燃えて渡せなかったという説があるんですがね。それすら渡してくれない。ないないづくしです。何もない。とにかく行けと、こういうことです。だから、5月24日の第1陣が14機上がって、9機帰ってこなかった。18人がどうなったやら分からんわけです。無線がないしね。

Q:じゃあ戦果が出たかも、突入したかどうかも分からない。

分からん、分からん。だからそのときのね、その司令がね、本部の方に報告したやつには、そのね、みんなの何て言うかね。士気が旺盛で戦果を上げたものと認むというあいまいな電報を打っているんです。分からんです。飛行機から何も言ってこないんでしょ。無線がないから。だからどうなったか分からんっていうことですよ。

私が思うには、途中でね、ポチャンともう極度の緊張感で乗っているわけでしょ。しかもね、ちょっと言い忘れたけどね。高高度を飛んだらいかんのです。飛行機の排気で明かりが漏れたらいかんからね。海面100メートルを飛べって言うんです。真っ暗なところですよ。初めての海面を地図もないままに100メートルを飛べというわけ。5時間。緊張しますがな。だから、中には今言うようにその特攻隊の頃の飛行機たるや、整備員が一生懸命徹夜で整備したと言いながら、途中で故障も出てくるわけです。油が漏れてくるとかね。途中で故障してポチャンと突っ込むとか。あるいは偵察に慣れていない人たち。兵隊さんの中には、自分がどこを飛んでいるか分からないっていうのもおるのよ。何百時間も乗っている人ではないですよ。だから中には引き返してきて、串良に帰るどころか、よその陸軍の飛行場に不時着したなんていうのもあるんですよ。実際にね。これは無理からぬことですよ。何百時間も乗っている人たちと違うんだから。私なんかでも、今言うように、白菊に乗ってもね、ひと月半しか乗っていないわけでしょ。そういう連中が沖縄に行くわけですからね。もうそういうことで、5月24日は14機が飛び立って、9機が未帰還になっている。

その次の出番が私たち。ところがね、私は幻の特攻隊って言っているんだけど。なぜかというと、私たちのこれが20人おるんです。52名の中で20名だけが第1次に選ばれたんです。これみんな操縦員ですよ。そして後ろに偵察員を乗せて、あろうことか、午前5時に串良を離陸するという命令を受けていた。午前5時ですよ。

Q:朝ですね。

朝。午前5時って言ったらいくらね、5月26日といえども、もう5時って言ったら夜が明けていますよ。考えてください。5時にもしも無事に離陸した。5時間掛けて沖縄まで、途中でグラマンに捕まらずに行ったとすると、沖縄に着くのは10時ですよ。行けっこないんです。グラマンがいっぱい待ち構えている。そこにね、500キロという爆弾を積んだ練習機。おもちゃのような練習機がですよ。こんなしてヨタヨタして、海面スレスレを飛んでいって。バーンと撃ったらいちころですよ。そういう命令を受けていた。これはもう絶対に無理だと誰でも思うでしょう。小学生でも分かる、こんなのはね。だけど、そんなことは言えない。私は嫌です。そんなむちゃな特攻は嫌ですなんていうことは、ここから先も言えない、そういう時代なのよね。それで私たち20人は後ろに偵察員を乗せていくわけですけどね。そして午前3時に起きて、そして全部着替えて、こうり(行李)に軍服やら残りを詰めて親元に送り返して、そして白菊もね、串良の飛行場の掩(えん)体壕とか山の中に隠してあるわけですよ。それでそこからね、とっとことっとこ誘導路というのを伝わって、滑走路までの端に持ってくるわけです。

そして、昼間だから編隊で1機、2機、3機。私は2番機で並んで、エンジンをいっぱいふかして、ブレーキを踏んだままにしておいて、命令一下すぐに上がるように待っていた。そうしたら、向こうの方から伝令がこうして飛んできて。「出撃中止」って。聞こえやしないんです。もちろんエンジン(音)がいっぱいだから。だけど、来て何かと思って聞いたら、「おまえたちのこの隊はね、私たちの隊は、戦いの機会、戦機を逸した」と。「今から行っても間に合わないから、攻撃をやめて徳島の原隊に帰って、もう一度訓練をやり直せ」と、そういう命令だった。それで助かった。

Q:助かったとおっしゃったのは、出撃停止と言われた時はどういうお気持ちでしたか?

だからさ、びっくりしますよね。「え? 何?」って思って。何事かと思ったですよ。ね。命令が、離陸の命令かと思ったらそうじゃないんですよ。中止ですからね。それでしかも中止っていうことだから、何事かと思ってびっくりしたわけですよ。正直ね。そうしたら、今言うように攻撃を中止して、徳島に戻ってとそういう命令だったわけですよ。だからびっくり仰天したわけです。それで、助かったっていう気持ちもあるわけですよ。あと2~3分ね、これが遅れたら上がっているわけ。上がったが最後、何度も言うように無線を積んでいないから、下の指揮所から戻れ、戻れなんていうことを言ったって聞こえない。そのまま沖縄まで行かなければということだったんだけれども、最後間に合ったわけ。

だから私たちの、私の幻の特攻隊というのはね、前の晩にはちゃんと偉い人の訓示もあったんですよ。それで水杯。サイダーだったけどね。しているわけですよ。決して幻でも何でもない。行っているのは事実ですよ。それで26日は特攻を取りやめになって、第2次。本当は第3次の出撃ですべき人たちが第2次に繰り上がったわけです、以下ね。それで、2、3、4、5(次)。あとは全部夜間出撃。だから後にも先にも昼間は私たちだけ。高知にもない。

Q:夜間でもただでさえ危ないのによく昼間という命令が出ましたね。

そういう着想がね、分からんの、私にも。どういう神経をしているかと思って。

だから最初の頃はね、直援機、誘導機とか、あるいは戦果を確認するゼロ戦が付いていって、最初はですよ。ところが特攻に限るって言って、陸軍も海軍も特攻をどんどん掛けて、そういう余裕がなくなってくるわけですよ。だからあとは戦果を確認するのは無線だけ。ところがその無線たるや、今言うように積んでくれていないから。どうなっているかが全然分からないわけですよ。で、アメリカが発する無線なんかも時々入ってくるんだけども、それすら分からんという状況で。だからね、徳島も高知も白菊特攻隊が飛び立ったけど、はっきりと戦果が確実に分かっているのはない、正直言って。実にむちゃくちゃな特攻ですよ。
それで私たちは徳島の原隊に帰った。それで繰り上がって、第3次の連中が第2次に、5月27日に。28日と5月は3回飛び上がって。全部夜間ね。それで今度は6月に入って2回出撃しているわけですよね。でね、6月の最後の6月の25日に最後の徳島の白菊、最後の特攻を掛けるんだけど、前日、前々日、6月23日には沖縄が陥落しているわけですよ、実際に。だから本当は特攻を掛けなくてもいいの、もう。次の機会に回せばいいのに、どういうわけか最後の最後まで特攻を掛けて。戦死者が出ているわけですよ。だからまあ上の連中の考え方というのは、本当にね、もうむちゃくちゃですよ。虫けらぐらいにしか思っていないのね。

Q:1次が出ていって出撃していって、2次だったはず、2次に田尻さんたちがなるはずだったわけじゃないですか?1次に出ていって誰も戻ってこなかった。不時着で助かった人がいたかも知れない。戦果は分からない。そういう中で、俺たちこれ2次で出ていっても、本当にあれなんだろうかってそこらへんはどうだったんですか?

ただね、今私がずっと説明したのは、戦後に分かったことですよ。私たち、串良に行っても、後の前の晩の連中のことやら、私たちの後の人たちのことは、これは戦後私がいろいろな本を読んで分かったことで。串良に行った時には全く分からない。どこが、極端に言ってね、私たちは串良の小学校の教室を借りてね。そこは私たち士官ばかりが泊まっていて。だけど、第1次の連中も来ているわけですよね。どこに誰がおるやら全然情報は分からない。知らしてもくれない。聞こうともしない。後になって、私がこうしてずっとべらべらしゃべっているけど、これは私がずっと戦後に聞いたり見たり調べたりしたことを言っているだけです。

Q:当時の出撃前のお気持ちは決して悲観的ではなかった?

悲観的と言ったらどうなんだろうなあ。正直難しいとは思いますよ。あんた方が考えても分かるでしょ。何度も言うように、おもちゃみたいな飛行機で沖縄まで5時間も飛べるわけがないでしょ。いくら考えたって。爆弾を500キロも積んでですよ。敵の戦闘機が待ち構えている中に行けるわけがない。どんなに考えても。小学生でも分かる。けれども、そんなことは分かっていても、嫌ですというようなことは一言も言えない。これはもう命令ですから。だけど、命令とあれば何としてでも成功はさせたい。無駄死にはしたくないという気持ちはある。みんな私に限らず、死んだ人もみんなそうだと思いますよ。そういう気持ちで行ったけれども、いかんせん気持ちだけではどうにもならないですよ。

Q:立派な軍人さんであらなければならないということと、やっぱり時には人間としていろいろ考えることがあるじゃないですか。このやっぱり葛藤は想像ができないですね、私にはやっぱり、大変なものですね。

それはね、いいことをおっしゃると思うかもしれませんが、そうじゃないんだ、やっぱりね。当時の若者はみんなそういう気持ちを大なり小なり持っているわけでしょ。決してかっこいいことを言っているわけじゃない。今の人たちは考え方、神経というのは、いくら言っても分からないでしょうね。だけど、そういう中ででもですよ。やっぱり生き身の人間ですからね。我々の仲間は妻帯者は1人もいない。だけど恋人はいたかもしれない。ね。恋人が仮にいなくても、親兄弟はおるわけですよ。私なんか長男だから。9人きょうだいの長男だから、下には小さい小学生の妹、弟っておるわけですね。だからそういったきょうだいを残して死ぬということはね、やっぱり死にたくない、人間だから。しかもですよ、同じ死ぬんだったら、戦死をするのであれば、こんな白菊みたいなこんな練習機で5時間も掛けるような特攻をするよりも、関大尉みたいに最優秀のゼロ戦に乗って、あるいはゼロ戦でなくても、まあ他にいっぱい最新鋭の飛行機があったのよ。現に串良からは白菊だけじゃなしに、天山、天の山って書いてね、艦上攻撃機も一緒に出撃しているんですよ。当時の海軍の最新鋭機ですよ。だから、そういうね、飛行機に乗って華々しく死にたいという気持ちはみんなありますよ。だけど、そんなことを言えない時代ですからね。命令とあらばもう何であろうがそのとおりにしなければいけないわけですからね。

終戦が昭和20年の8月の15日終戦。私は今度は第2回目の出撃を予定していたんです、第2回目を。それで今でも残っているって言うかね。秘密飛行場が、第2飛行場っていうのができていたんですよ。そこに移ってね。そこで最後の訓練をしていた。8月の16日に第2回目に出撃するように命令を受けていた。ところが8月15日に終戦、天皇陛下のお言葉があって終戦になった。日本は無条件降伏した。その晩にみんな特攻で行かずに済んだ、やれやれと思ってみんなが上陸した、町にね。そうしたら夜中になって非常呼集が掛かってきた。「搭乗員は直ちにね、原隊に帰れ」という命令ですよ。で、私ら、「え? 何だ」って。戦争が終わったって言うのにと思って、まあ急いで帰った。そうしたら、お隣の高知の白菊特攻隊が、今土佐湾にアメリカの艦隊が来て、攻撃をしていると。高知の町にね。そして真っ赤な炎が上がっていると。それをね、それを高知の航空隊の見張りが見間違えをして、徳島の本隊にね、連絡してきた。そこで徳島の白菊隊。我々の幹部はね、その高知の今土佐湾でアメリカの艦隊が攻撃しているけれども、その残存部隊がやがて紀伊水道を上ってね、上がってくると。その残存の艦隊に向けて我々徳島の白菊特攻隊が攻撃しろと。だから、命令があるまで待機しろということです。えらいことになったと思ったね。正直、戦争が終わってやれやれ、もう行かないで済むと思ったの、みんなね。思ったの、正直。それなのに、またね、特攻を掛けろっていうことでしょ。それでまあえらいことになったと思いはしたけれども、今言うように命令ですから、一晩中ね、待機をしていたわけ。特攻機もちゃんとあるわけですよ。爆弾を積んで用意してあるわけね。いや、爆弾は積んでいないけどね。そこにそういう命令が来た。 それで一晩中ね、まんじりともせずに待っていた。そうしたら朝方になって、それは誤報だった。誤りだということが分かった。それは、さっき言いましたように、高知の航空隊の見張りがね、見誤った。何を見誤ったかというとね、高知と徳島との県境にね、今でもありますがね。手結という港があるんです。手を結ぶという。小さな港が今でもありますが、そこはね、震洋という特攻機、知ってますか。ベニア板のね。頭のところに爆薬を積んで猛スピードでアメリカの艦隊に突っ込むっていうね。震洋の基地があったの。小さな町で私も行きましたけどね。小さな港町で。そこに震洋が出撃に備えて爆薬をいっぱい積んだ震洋が所狭しと手結の港に停泊していたのが、何の間違いかね、1機が爆発したらしいんですよ。そして狭い港ですから、次から次へと誘爆していった。そして予科練の111名という若い人たちが吹っ飛んでしまった。それをね、高知の航空隊の見張りが見間違えたわけよ。アメリカの艦艇が砲撃しているというふうにね。それで私たちは出撃をせずに済んだわけ。

もう成功なんていうのは初めから考えていないわけですよ。練習機があるけれども、その練習機で特攻を掛けたらどうなるだろうと。ひょっとしたらうまく行くかもしれないと。その程度の頭で試しに沖縄に近い四国の高知と徳島の白菊に特攻をさせてみたのだと。初めから成功なんてこれっぽちも考えていないっていうことですよ、要は。

Q:それは戦後元参謀だった方がおっしゃった。

そうそう。慰霊祭に来たときに、その元の特攻隊だった人たち、参列していた人たちにそういうことを言ったと言うんですよ。だからその当時のね、高級参謀たちの考え方っていうのが分かるわけですよ。人間、特攻隊の連中なんていうのは虫けらぐらいにしか思っていないんですよ。もうどうにでもなると。その上にもう一つね、いちばん偉いこの人は、終戦の時にね、また特攻を掛けていくんですけどね。宇垣って聞いたことないですか。

Q:宇垣纏ですか? 宇垣特攻の。

そうそう。宇垣ね。この人は特攻の親分みたいな人ですよ。これがね、戦争中ね、ずっと『戦藻録』。戦いの藻の録って。日誌をずっと書いてあって。その中に、この白菊のことにちょっと触れていてね。それには、成功期しがたしということが書いてある。初めから、いちばん偉い人たちでさえも、こんな特攻機には全然期待していなかった。だから試しに飛ばしてみて、よかったらまたやろうかっていうことですよね。その程度の頭しかないわけ。それに乗って我々は哀れにも特攻をかけて、56人。高知が52名。若い命が戦死しているわけですよ。

Q:それを戦後知って、どういうお気持ちですか?

何とも言えないですよね。彼らがね、特攻に限らないけれどもね。そういう参謀の連中は、東京の大本営におってね、自ら第一線に出てくることはない連中ですよ。だから絶対死ぬ心配はない。そういう連中がね、考えることだから。だけど、そんなことはおくびにも出せない。だからやっぱり立場があるわけですからね。だけどまあそういうことを戦後高知の民放でね、そういう話を聞いて、今更のように腹が立つわけですよ。そういうことも知らずにね、百何名の人が沖縄に突っ込んでいるわけでしょ。

あの時分はね、今みたいな情報っていうのは全然伝わらないんですよ。携帯があるわけじゃない、スマホがあるわけじゃない。あるのはラジオと大本営が毎日うそをついた大本営発表というのと、たまにね、ニュース映画が流れるぐらい。あとは全然情報はないわけですよ。変なことを聞いたら怒られますからね。だから一方的に上から下ろしてくる情報を信じるよりしょうがないわけですよ。日本国民もそうですけどね。勝った、勝った、勝ったってみんな喜んでいたけど、実際は勝ったどころじゃない。負けてばかりいたわけでしょ。だから私なんかもね、今から考えてもね。串良に行ってもね、全然情報なんていうのは伝わってきません。そしてまた聞こうともしない。そんな神経にもない。どうですか? 我が方の損害、戦況はどうですか? なんて聞こうともしない。とにかく死ぬしかしょうがないわけですよ。だから今さらね、聞いたってしょうがないという気持ちもあったんでしょうな。全然聞いたことがない。こんなことを言うのも本当に戦後になって、情報がね、わんさと入ってきてからですよ。

Q:田尻さんは戦争中、何のために戦っていました?

それはみんな誰しも同じことですよ。国のため。ね。国を守る。何とかしてね。親兄弟が住んでいる日本の国を救うという人。天皇陛下のために戦う人、ね。愛する親兄弟のために戦う人。中には恋する人のために戦う。いろいろあったと思いますよ。

Q:田尻さんの場合は?

我々の世代はとにかく何て言うかな。忠君愛国。君のために忠義を尽くして国を愛する。忠君愛国という教育を小学校の時からずっと、そういう教育を私の世代は受けてきているんですよ。だからそういう国を愛する、国のために戦うっていうのが当たり前というそんな気持ちだったですね。だから、海軍がこうして5,000名の予備士官を募集する時も、真っ先に、さっき言ったように志願してね、応募したわけですよ。同じ死ぬんだったらね、お国のために戦死したいと、そういう気持ち。それはみんな、我々の世代はみんなそういう教育を受けてそういう気持ちだったんですよ。

Q:でもいろいろ信じてきたことが幻だったんですね?

それは戦後のことですよ。戦後になってからそう思うわけだからね。戦争中はそんな幻だとか、そんなことは全然考えない。今さっき言ったようにね、何とか国のために忠義を尽くしたいという、そういう気持ちですよ。

だから今の人たちにこんな話をしたって、ピンと来ないだろうと思いますよ。私がこんなことを言ってもね。自分の大事な命をね、おんぼろ飛行機に乗って、よく行くものだなと思って。今の若い人だったら思うかもしれません。だけど、そんなことは言える時代じゃないんですよ。戦争中は。戦争したらとにかく勝つことを考えなければいけないわけでしょ。初めから負けるなんていうことを考えて戦争しませんからね。もう負けることが目に見えていても、それでもみんな行くわけですよ。戦争っていうのはそんなものですよ、だから。初めから損得づくでね、戦争には行かないわけですよ。負けるということが分かっていても行くわけ、戦争になったら。だから戦争はしてはいかんわけですよ。ね。本当にばかなことですよね、戦争っていうのはね。

Q:一緒の釜の飯を食べていた人たちがどんどん亡くなるわけですよね、白菊で。その死はどう受け止めるんですか?

ああ、おらんようになったなあ、ぐらいのものですよ。俺、明日行くからなって。私たちはですよ。そういう経験はない。他の特攻隊は知りませんけどね。もうはいさようならって。昨日までおったやつが今日名簿を見たら載っていないとかね。そんなような意識ですよ。それが当たり前みたいにみんな思っていた、その当時は。うん。最初の頃はね、この写真にもあるんだけども、最初の特攻隊が出る頃にはね、女学生やらね、地元の婦人会の人たちが花束持って、万歳、万歳って見送ってくれたそういう写真もいっぱい出ていた。ところがもう私なんかの時には見もせん。串良でも誰も見送ってくれる人はいません、誰も。もう終わり頃になるとそんなときですよ。

Q:特攻に関しても死ぬことに関してもまひしてくるわけですね。

それはもうまひしますよね。

Q:それはどういう感覚? まひ。

それはまあ何と言うかなあ。言っても分からんわね。今の人たちに言っても。

Q:繰り返し、繰り返し周りで戦死者が出ていると。

まひしてしまうわね、どうしても。別に悲しくもなくなるわね。神経がそれこそおかしくなるのよね。それは初めのうちこそね、みんな悲しいとかね、いうようなそういう気持ちにはなるでしょうけどね。それがもう次から次と、ああ、またあいつか、ああ、また今日行ったのかというようなことが繰り返されると、人間っていうのはやっぱり神経がまひしてくると思いますよ。いずれは自分が来るんだからね。

出来事の背景出来事の背景

【特攻~なぜ拡大したのか~】

出来事の背景 写真 爆弾を抱えての体当たり攻撃、特攻。戦争の終盤、日本はこの特攻でアメリカ軍を迎え撃ちました。戦死者は、4500人あまり。その大半が、二十歳前後の若者でした。
 昭和19年10月に始まった特攻は、終戦までの間に急激に拡大して行きます。特攻が初めて行われたのはフィリピンでした。最初に体当たり攻撃を行う事になる特攻隊が編成された10月20日。アメリカ軍がフィリピン・レイテ島に上陸を開始。20万の大軍が押し寄せました。太平洋の各地で敗退を重ねてきた日本軍にとってフィリピンは最後の重要拠点でした。しかし、主要な航空戦力を失っていた海軍には、強大なアメリカ軍を迎え撃つ手段がありませんでした。状況を打破するために立案されたのが、特攻でした。その戦果は、予想をはるかに超えたものとなります。20日に編成された特攻隊の一つ、5機の零戦からなる敷島隊は、空母3隻に命中してうち1隻を撃沈。隊員たちの命と引き換えに大戦果をあげました。
 この結果を受け、現地の海軍航空隊では体当たり攻撃の継続を決定。フィリピンの基地からは連日、多くの隊員が出撃して行くようになります。

 沖縄戦には、日本軍が開発したさまざまな特攻兵器が投入されていきました。ボートに爆弾を取り付け、敵艦に体当たりする、特攻艇、「震洋(しんよう)」。船体はベニヤ板。敵の銃弾を浴びただけで沈没しました。1.2トンの大型爆弾に翼と操縦席を取り付けた、「桜花(おうか)」。搭乗員は、桜花とともに攻撃機で敵艦隊の上空まで運ばれ切り離されました。しかし、桜花搭乗員の多くは、敵艦隊の上空にすらたどりつけず攻撃機もろとも撃ち落とされていきました。

証言者プロフィール証言者プロフィール

1922年
台湾高雄州屏東郡屏東街(現・屏東市)に生まれる
1943年
官立大阪外語学校(スペイン語)(現・大阪大学外国語学部)卒業。志願し、土浦海軍航空隊に第13期飛行予備学生として入隊
1944年
10月、第256海軍航空隊に配属され上海へ(戦闘機搭乗員)
1945年
2月、徳島海軍航空隊へ
 
5月23日、鹿児島串良基地へ進出(白菊特攻隊として出撃待機)
 
8月、串良基地で終戦を迎える
 
戦後は、更生保護事業に携わる

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