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タイトルタイトル: 「“赤とんぼ”で特攻した友」 番組名番組名: [NHKスペシャル]特攻 ~なぜ拡大したのか~ 放送日 2015年8月8日
名前名前: 庭月野 英樹さん(海軍特別攻撃隊 戦地戦地: 日本(徳島) 日本(沖縄・石垣島) 台湾  収録年月日収録年月日: 2015年6月8日

チャプター

[1]1 チャプター1 九三式中間練習機“赤とんぼ”  07:39
[2]2 チャプター2 パイロットとしての歳月  03:53
[3]3 チャプター3 特攻隊員の募集  03:54
[4]4 チャプター4 はるか上空を飛ぶ米軍偵察機  03:10
[5]5 チャプター5 出撃していく仲間たち  05:47
[6]6 チャプター6 同期生があげた戦果  07:59
[7]7 チャプター7 8月15日の出撃待機  10:06
[8]8 チャプター8 続く臨戦態勢  01:45
[9]9 チャプター9 解散命令  05:15
[10]10 チャプター10 月夜に思い浮かぶ戦友  02:16

チャプター

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提供写真提供写真

番組名番組名: [NHKスペシャル]特攻 ~なぜ拡大したのか~ 放送日 2015年8月8日
収録年月日収録年月日: 2015年6月8日

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赤とんぼですね。

Q:庭月野さんはこれに乗って特攻訓練をしていらっしゃった。

そうですね。大体この飛行機はですね、陸軍も海軍も最初の、パイロットは最初にこの飛行機を大体4か月間訓練をして、そして単独飛行。1人で飛べるようになったら次の戦闘機に移るんですが。だから陸軍も海軍も特攻隊に行った人もみんなこの飛行機は乗っていると。ちょっと陸軍のほうがこの辺が違うだけでですね、同じような感じの練習機ですね。赤とんぼです、やっぱり。

Q:みなさんこれでまず最初に飛行訓練をされた。乗り心地はどうでした?

まあこの飛行機は乗り出したらですね、本当にアクロバットでも宙返りでも背面飛行でもきりもみでも、練習生でもできる。そして復元できる飛行機でしたね。いわゆる練習性能が、飛行性能が良かったんですよ。

Q:逆にそんなにスピードも出ない?

スピードは75ノットですから1.8倍すると100ちょっと切るんですかね。130何キロですね。1.85倍ですから。

自分が初めて1人で空に上がったのはこの飛行機ですからですね。ええ。その代わり徹底的にたたかれましたよ。こんなにたたかれた人がいるんですよ。飛行機の上でたたかれた人もいます。私は飛行機の上ではたたかれませんでしたけれども、地上では徹底的にたたかれたんですよ、こんなふうにして。

Q:これはご自身が描いた絵ですか?

いや、これはですね、後輩の人たちが描いた。自分たちもたたかれたものだから。これだから服装が生徒の服装になっているでしょ。

Q:バッターでたたかれるわけですね。

野球のバットで思い切りたたかれるんですよ。本当にうっぷんを晴らすみたいにたたかれましたね。ですから、まだやっぱりね、右の。結局たたかれると、左からたたくから、右の方がこたえるんですね、やっぱり。先の方でしょ。だから時々右の腰がおかしいですよ。それで私は、尻が腫れてですね、2~3日休んで、そうしたら一緒に訓練するペアからタオルで冷やしてもらったことがあるんですよ。

Q:当時のお写真はありますか?

写真はありますよ。これが最初、三村君の日記を渡してもらったときのやつですね。私たちの同期生の写真がこれです。それで丸印をしてあるのが戦死。私が一番これです。私の列は全部戦死しました。

Q:庭月野さんは?

私は一番これですね。私の列は全部、印がしてあるのは全員戦死です。そして中に点があるのは特攻隊で戦死。黒い点があるのは特攻隊で戦死です。2班に分かれていましたけど、私の班のほうがこっちよりうんと戦死者が多いでしょ。

Q:半分くらい亡くなっていらっしゃるんですね。

もう私の列は全員戦死でしたから。

Q:三村さんはこの中には?

三村はですね、この私たち養成所が三つありまして、海軍系は。三村君のは水上機の訓練所で、福山に、広島県の福山にあったんですよ。私たちのは長崎県の諫早市にあって、もう一つが愛媛県の西條にありました。海軍系が三つでですね。それで愛媛の人たちと私たちは一緒に実用機を習ったんですが、三村君のほうは水上機ですから、琵琶湖の大津海軍航空隊で訓練をして、そして石垣島に転勤していったわけですね。私は那覇に11か月おって、それから石垣島に行きましたら三村君ともう一人、タマイっていうのがおりましてね。それで同期生ですから。

これが出撃の経路ですね。虎尾(台湾)から出発して。

Q:石垣、宮古を経て沖縄に…。

これが出撃のときの写真ですね。

Q:三村さんは?

三村は。これですね。

Q:周りに並んでいるのは一緒に出撃した…

この前列の2、4、6人と、この7人ですね。この人たちとこの人ですが。

Q:…が出撃された…これは?

これは新竹(台湾)で写したみたいですが。この人たちが命令をする人たちですね。それでこっちは見送りに来た人たちみたいですよ。

(航空機乗員養成所に)入ったのは17歳ですね。私が一番年が若くて17歳です。19歳の人もいましたね。

Q:みなさん17歳から19歳くらいの方が。

一番年下で入ったので。だから一番体が、一番小さかったんですよ。

Q:少年たちばかりだったんですね。

そうですね。やっぱりその年代で一つ違いますとね、だいぶ大人。例えば三村君なんかも、一つ大人だなという感じを受けましたね。

Q:予科練とか、少年飛行兵じゃなくて、乗員養成所に行かれたのはどうしてだったのですか?

私はですね、運動神経が鈍くて、走るのも一番ビリだったから、予科練に行ったのではとても通らないだろうと。そうすると、民間パイロットの方はどうかなと思って受けたら、適性検査がみんな落とされるのに合格したんですよ。それでまあ行って途中で落とされるだろうと思って行ったんですけど、何とか卒業してですね。人並みに卒業して。だから戦後もずっと飛行機に乗っていました。海上自衛隊も海軍でもずっと。海上自衛隊でも航空大学校でも、戦後も30年ばかり飛行機に乗っていましたから。

Q:乗員養成所に入ったということは、そのときは軍隊に行く気は全くなかったんですか?

いや、その先にちゃんと書いてあったんですよ。必ず乗員養成所を卒業したら、次に海軍の教育を受けて、予備員の教育を受けて、そして民間に出れるって書いてあったんですよ。そうしたら私の1年前の人までは半分ぐらいはいったん民間に出たんですが、私の1クラス前からは全員そのまま、充員召集。19歳で充員召集を命ずるということで、卒業と同時に全員そのまま海軍でした。

Q:庭月野さんはそれは望んでいたことだったんですか?

もうそういう時代でですね。山本五十六。私たちが入ってすぐ山本五十六長官が殉職しましたからね。南方では歌もありましたし、ブナを思えば悔し泣き、ガタルを思えば血の涙という歌がはやった時代ですから。これはもうとても帰れないなと。当然軍隊に行くしか。そうしたら、とにかく厳しい、たたかれ、走らされだったんですよ。それで戦後、教官に聞いたらですね、とにかく1日も早く前線で使えるパイロットを養成せよと言われたっていうんです。だから海軍より厳しくやられたみたいですが。

Q:特攻隊に編入される前に、特攻自体は昭和19年の10月から始まりますけど、そういう体当たり攻撃が始まったっていうのを最初に知ったのはいつですか?

(昭和19年)11月頃ですね。搭乗員総員集合があって、今度新しい飛行機を作ったから、それの特攻隊に志望する者は飛行長のほうに申し出なさいという話があったんですよ。そのときに私はちょうどさっきの石垣島で乗っていたという飛行機の次に、九九式艦上爆撃機という飛行機をですね、鹿児島の第2国分海軍航空隊に取りに行って、桜島の上から急降下爆撃訓練をやってですね、だいぶこの飛行機はいいなと。あれは空中戦もできる飛行機でしたから。その飛行機はもうちょっと乗りたいと思ったから、上司に相談したらですね、それでいいよと言われたんですよ。「この飛行機にもうちょっと乗りたい」と、私は。「だから特攻隊は志願しません」と言ったら、上司が「それでいい」とおっしゃったから志願しなかったんです。 志願した人は聞きませんでしたね。

Q:周りにはいらっしゃらなかったですか?

そうですね。その後その話は全くありませんでした。

Q:志願しなきゃという、そういう気持ちもなかった?

そうですね。まだその飛行機、九九式艦上爆撃機という飛行機を乗り始めて、非常に気に入った飛行機だったから、この飛行機をもうちょっと乗りたいと。私なんかは飛行機に乗りたいために入っているわけでですね。その戦闘機であろうが何であろうが何でもいいんです。飛行機に乗りたいというのでですね。特殊な飛行機に乗りたいとは思っていませんから、自分で操縦ができるという飛行機。気に入っていましたから、九九式艦上爆撃機というのがですね。

Q:じゃあ庭月野さんは志願はしなかった。

そうですね。周りの人で志願をしたという人は聞きませんでした。だから沖縄海軍航空隊から最初の特攻志願をした人はいなかったんじゃないかと思いますよ。

Q:その当時は 国分にいらっしゃって、その後沖縄に?

いや、国分に1週間ばかりおって、桜島の上空から、要するに急降下爆撃の訓練をして、そして沖縄に持って帰ったんですよ。10月10日の空襲で飛行機を半分以上やられましたので、今度は代わりの飛行機を鹿児島の国分海軍航空隊に受け取りに行ったわけです。3人いて3機で帰りましたから。

Q:それで飛行機を受け取ってまた沖縄に戻って。

はいはい。その飛行機で沖縄の対潜哨戒や船団護衛、艦隊護衛。艦隊護衛をしましたね。

Q:昭和20年1~2月頃の沖縄の雰囲気はどんな感じでしたか?

もうですね、あれが、高い夜空をですね、キラキラ光る飛行機が飛んでいましたよ。B29だったと思いますがね、偵察に、写真を撮りに高いところを飛んで。あれじゃあ追い掛けても間に合わないなという。

Q:それは日中ですよね? 日中高いところを。

高いところをですね。キラキラ。彼らの飛行機はキラキラ光っていましたからね。まあ高いところを飛べば、下から見ると光るんです、よく。すると日本の飛行機は、下から見たら空色になるように塗ってある。上から見たら緑色に塗ってありますからですね。向こうのは塗っていなかったと思いますよ。

Q:それは、戦争が近いという気分がありましたか?

ありましたね。ええ。沖縄か石垣島か台湾か、どっちかこの三つに来るだろうと。それで石垣島へ行けと言われたから、まあどっちにおっても、残った同期生とですね、「どっちが先か分からないけれども、これが最後だな」って別れました。私が沖縄から石垣島に行く時に、同期生の親友が見送りに来てですね。「お互いに世話になったなあ」と。「これが最後だな。どっちが先か分からんよ」って言って別れたんですよ。ハナダって福岡の男でいい男でしたけどね。だから沖縄で地上戦で亡くなったわけです。3月31日にですね、7機脱出したんですよ。すると8機目のハナダの飛行機だったのですが、見てみたらあちこちふさいであって、とても飛べそうになかったから、彼はやめたみたいなんですよ。だから余計に残念だったと思いますがね。

Q:沖縄に攻めてきたときに、ぎりぎり逃げ出した人もいるし、逃げ出せなかった人もいるし…。

逃げ出したんじゃなくて、脱出して攻撃に行って戦死していますね。19名脱出して、そして攻撃で18名戦死しているんですよ。特攻隊で行った人もいるし。何回か攻撃をして、何回目かに亡くなったとかね。

虎尾の赤とんぼの特攻隊に編入されたのだという話で、たぶん5月15日だと思いますが、みんな一緒に台中の近くの虎尾というところに行きました。そこで夜間訓練をして、そして第1次、第2次(神風特別攻撃隊龍虎隊)が出たのですが、これが与那国島に不時着して。そうすると第3次は、沖縄に11か月もおった私が連れていかなければいけないなともう覚悟していたんですよ。そうしたら、第1次は5月25日、第2次が6月7日に行きました。それで大体月夜ということになっていましたから、6月の20日前後が俺の番だなと思っていましたら、6月20日に723航空隊付きを命ずるという電報が入ってきまして。私とタマイとそれからシマウチというのと3人ですね。そして横須賀だろうと思って横須賀に行ったら、その部隊は木更津だと言って、木更津に行きましたら、この彩雲という特攻隊でした。

Q:最初に、赤とんぼで特攻をやるんだということを聞いたときはどう思いましたか?

この飛行機で本当に250キロ爆弾を積むという話でしたから、積んで飛べるんだろうかと思いましたね。350馬力ですから、フルパワーでやっとこだろうと。そんなフルパワーでずっと出しっぱなしで行っていいんだろうかという危惧がありましたよ。だから、しかも小隊長で行かなければいけないでしょ。まだ飛行時間の若い甲飛の予科練の人たちを連れていくんですから、そういう人たちが無駄死にしないようにするにはどうしたらいいかと。それを真剣に悩みましたね、やっぱり。だから死ぬことよりも、どうしたら成功できるのか考えることで、一心でしたよ。そうしたら順番がなかなか、出動命令がこないうちに電報が入ってきたって言って、3名。私とタマイとそれからシマウチだ。

ぐるっと回る外房線ですかね。あれで木更津に行きました。そうしたら彩雲という飛行機で、この飛行機なら俺の棺おけとして言うところがないなと思いましたね。他の飛行機がまあ練習機みたいな。陸軍の飛行機もそんなにいい飛行機では。ここの都城から行ったのは四式戦闘機っていい飛行機ですが、他の飛行機はもう古い飛行機ばかりですからね。行った後を見るとですよ。ですから、この飛行機で成功しなきゃ誰が成功するんだろうという感覚でしたね。だから、ああこれで俺の棺おけはってそう思いましたよ。

Q:特攻の志願を募られたときに、自分は志願しなかったっておっしゃってましたよね、今度は新竹に来たら命令だったわけですよね。

そうです。もう特攻隊編成に全員一緒になりましたから。石垣島におった人も、よそから来た人も。その部隊はもう特攻隊でしたから。

Q:そのときには葛藤と言うか、嫌だなと思う気持ちは全くなかったですか?

もう昭和20年の5月、6月と言ったらですね、どんどんやられっぱなしでですね。日本という国がつぶれる。そうすると自分の肉親にしても友達にしても、大体昔はそのころは、戦争に負けたら男は重労働をさせられる。女性は陵辱されるというのが私たちの若い年代の戦争の敗戦の結果ですから。そうするとそれを防ぐためには、自分たちが防ぐと言うか、どこかで講和をさせるためには何かをしなくては駄目だろうという感覚でしたよね。

Q:三村さんとはどこで?

石垣島で。5月15日に沖縄から石垣島に行ったわけですから。そこで、「あ、おまえも同期だったか」ってお互いに一緒に苦労してきたことについてですね、同期生ですから。入った時期も一緒だし、同じような訓練を受けて来ていたわけですから、これはもう同期生というのは非常に心が通じるんですよ。ですから、戦争から帰ってからもすぐ私は、三村とタマイとそのシマウチと、もう一人誰かとね、ちゃんと頭に住所を全部覚えていて、帰ったらすぐはがきを出したんですよ。そうしたら三村君のところは戦死しているから、告別式をするから出席してくれないかって来たものですから、その年の11月に行ったんですよ。

Q:三村さんたちが赤とんぼで突っ込んで、しかも戦果を挙げたと聞いたときはどう思いました?

結局もう向こうは、南のほうからはほとんど来ていなかったわけで、まだその時々九州のほうからは特攻隊が来ていたけれども、南のほうからは、台湾からはほとんど特攻隊が来ていなかったんでしょうね。それだから成功したわけですけれども。それと布張りですからね。レーダーに早く映らんのですよ、やっぱり。

Q:三村さんが実際に赤とんぼで突っ込んで亡くなったと初めて知ったときはどんなお気持ちでしたか?

いやあ、やっぱり行かされたかと思いましたね。俺たちが残っていたら俺たちも行かされたんだなと。1人だけ残されてかわいそうだったなと思いましたね。

だから今でもね、月夜になったら、ああ、あの人たちはよく赤とんぼで行ったなと、本当に感心していますね。赤とんぼでよく攻撃をして、成功して、すごいなと思っていますよ。

Q:しかもくらい中。

まあ月齢が月はこうこうと照らしていたみたいですね。そして船からも影が。船の影も見えたって。向こうの米軍のほうは書いていますね。

Q:月明かりの中でも…

月明かりの中でもね、水平線っていうやつはよく見えませんよ、やっぱりええ。月と下と月を見ながら姿勢をね。こうやって見るわけでしょ。今みたいにこんなに大きなやつに水平線がはっきり傾いても、上に下になっても分かる今のやつははっきり分かるからですね。水平儀というのがあるからですね。盲目飛行だとほんと、何と言うか。地上はね、立っていれば重力が分かるでしょ。しかし、空中に上がるとですね、遠心力なのか重力なのか分からないんですよ。だから私もクニヤで雲の中に入って、全く分からなくて上り下りやってて、後ろの人が雲のあるところは「スピード、スピード」って言うものだから。下が海面でしょ。雲の中に入って下に下りたら海にひっつく。上は雲だと思っているから、上がったり下がったりしていたら、機首を上げたら速度が減るから後ろは感じるんですよ。「スピード、スピード」と言ってのたうち回っていて、最後に雲の下に出て、太平洋を向いていたから生き残ったもののですね。あれが向こうに向いていて雲の下に出たらですね、生きていませんよ。

Q:それだけ難しいことなんですね。

とにかく重力と、地面が足に着いていれば重力が分かりますけどね。

Q:空中だとなかなか。

何回かそういう。どうして自分の力で着陸できたかなということはありましたね。まだ未熟ですからね、戦争中は。計器飛行もそんなにやっていないしですよ。いい計器もないし。よく飛んでいってよく突っ込みましたよ、やっぱり。

Q:どんな思いで出撃して、どんな思いで突入していったのか、もちろんこれは想像でしかないですけど庭月野さんの目からはどういうふうに見えますか?

(龍虎隊の)第1次、第2次が失敗しているんですよ。8機ずつ行ってですね。第3次がですね、同じ失敗をしたらいかんと思って一生懸命。なるだけ全機出したいという気持ちで、責任を持って行ったと思いますよ。彼の責任感の強い人ですからですね。だって、1次、2次が失敗して、全部与那国島に不時着している。それをちゃんと宮古島まで行って、爆弾を抱いて出てみたら、とても飛べそうにないからいっぺん引き返している。そしてエンジンをチェックしてみたら、エンジンのほうはそんなに悪くないのだということが分かったら、また出ているという。そういう気持ちですね。みんなを連れていった、行くという気持ちはやっぱり彼の責任感だと思います。責任感の強い、ええ。

1機残っていたんですけど、それをまた帰ってきて連れていっている状態ですからですね。

8月15日に出撃する。朝になってちょっと待てと言われて。今日、天皇陛下の放送があるからちょっと待てと。それまで待てということでした。

Q:それを聞いたときはどんなことを考えましたか?

もう考える余地はありません。とにかくこのままじゃ日本はつぶれると。ここで何とか一矢報いて、何とかしなければという気持ち。みんなそう思っていましたからね。もう話し合いをする余地はないわけ。なかったですよ。とにかくそこまで来ているわけですから。戦争に勝つとは思っていませんが、ここで一矢報いておいて、それでまあ後で考えたことは、講和条約を早く結んでもらうしかないわけでしょ。手を結ぶ。

Q:戦争に勝てるとは思っていなかった?

思っていませんでしたね。あれだけになるとですね。第一、台湾から帰ってくるときにほら、上から見ても明かりは何もないし、それから焼け跡しか見えんでしょうが。ほんと、京都以外は全部やられていたわけですからね。京都だけ残っていたんでしょ。

Q:上空から見ると焼け野原になっているのが見えると。

見えますね。それで私も昼間、夕方飛んだと思いますがね。関東を飛んでもどこもやられていましたからね。

Q:東京の上空も飛びましたか?

東京の立川、あっちまで飛びましたから。そうしたらほとんどやられていましたもんね。

15日出撃だと言われましたから。普通は特攻隊の何名か出撃で、前日に搭乗割りが出るんですよ。しかし私たちのは全員特攻でしたから。出るときは一緒に出るという。だから名簿は出ていないんですよ。

Q:搭乗割りが出てなかった。

搭乗割りというのは、ほら。3人の組み合わせは決まっているわけでですね。私が操縦で偵察員がおって、電信員がおるというそういう組み合わせはもう決まっていましたね。

Q:彩雲で言うと、こういう言い方するのはあれですけど、操縦員だけでも行けたわけですよね? 偵察員と電信員が乗って行く必要は?

いや、海の上に行くんですから、洋上でですね。しかも敵も動いているわけですから。だから無線員もおって、ちゃんと何時何分にどこにおったのがどっちの方向に何時動いたよ。だからそこへ行くんだよということを計算しなければいけないでしょ。そうすると操縦員だけでは太平洋上では。向こうは陸上の基地ならそれでいいけれども、動いているわけですから。それを計算して、次はどっちに向かっていかなければいけないということを、計算する。それから今どこでどんな風が吹いているから、どっちにいかなければいけないとかっていうのを計算する人がいる。それが偵察員と言います。それから電信員のほうは、無線で向こうの位置を聞いたら、偵察員に報告して、そして次はどこに、どっちに行くから、どこに向けなければいけないということを考えると、そうするとパイロットに、次は進路は何度だということを計算する人がいなければいけないでしょう。 沖縄の場合はですね、あれですよ。編隊で行ったみたいだから。操縦員だけで行った部隊がありましたね。

Q:洋上の敵の機動部隊を攻撃するとなると話が違うと。

そうですね。沖縄だとですね、島づたいが可能なんですよ。島づたいで行きだしたら、向こうに落とされだしたんですね。陸軍の場合はほとんど1人で行ってます。というのは島づたい作戦で、ちょうど十島村と三島村とありますから、沖縄のほうまでですね。

Q:その、彩雲の特攻隊の中で別に3名一緒に行かなくてもいいのではないかという話は、全然出なかった?

全然出ていませんね。これはもう洋上に行くんだから、当然3名で行かないと。無線もちゃんと途中で位置を知らせることがあるから、ちょっとしかも距離も、海の上で、太平洋で距離も遠くなるでしょ。

Q:8月15日、朝起きてどう過ごしていた?

もうとにかく早く飛行機のところに行って、飛行機をね、様子を見ておかなければいけないでしょ。いつ行けと言ったらいつでも行けるように、準備しておかなければいけないからですね。

Q:朝から。

そうです。朝早く起きて、もう。飯を食ったらすぐ飛行機のところに。もう飛行服のまま寝ているわけですから。

Q:そこで出撃命令を待っていたんですか。

そうですね。個々に行くんじゃなくて、みんな一緒に行くのだと言っていましたから。何機出すとかっていうんじゃなくてですね。全部一緒に出るのだと言っていましたから。機動部隊があったらとにかく一緒に突っ込んでいかないと、一部分ずつ行ったって始まらないからですね。そのための723(航空隊)だと思っていましたから。

Q:最後の、特攻出撃前だから、同期と話したりすることもなかったですか?

もう行く話とかそんな話はしませんね。どうして突っ込んだらいいかということはしてもですね。

Q:そういう話はしたんですか?

ええ。もうとにかく低空で行くしかないと。敵が近づいたら低空で全速で突っ込むしかないと。弾の下をくぐっていくしかないという。ところが、波をプロペラで切ったらいっぺんでおしまいなんですよ。ペラが曲がって全然推力がなくなるんですが。だからそのいちばん波に食われない高度で行かなければいけないんです。それをやっぱり、見極めるのはパイロット。前はこんなになっていますからね。操縦席を見てごらんなさい。こんなになっているでしょ。そうすると、波の高さがどのぐらいかを見ながら、それよりも上で行かなければいけないわけでですね。波をかぶったらおしまいです。プロペラの先端でも。
高い高度で行ったら向こうがどんどん撃ってくるわけですから。射撃はすごいですからね。

Q:対空砲火が?

対空砲火がすごいですから。時々テレビに出るでしょ。あの砲火を見たらすごいですもんね。あれは4発のうち1発だけが曳(えい)光弾って言いまして、火が出るんですよ。だから4倍の弾が出ているんですが。実際に映っているやつの4倍の弾が出ているんですよ。見えない弾が。

Q:それを考えるとすごい数の射撃が…

すごいですよ。光っているだけですごいですもんね。向こうのは。

それで「正午に重大放送があるから、みんな号令台のそばに集まれ」と言って。そしてラジオの放送を聞いていました。ところがラジオの放送は雑音が多くて、全く分かりませんでした。何のことかさっぱり分かりません。それで何か後で聞いたら、戦争、ポツダム宣言の受諾だという、ところが、あそこの厚木の小園安名大佐が銀河で来て、海軍部隊はまだ決戦をやるんだって言って。うちの青木司令が、これからじゃあ四国に行くって言って、そして四国に行ったんですが。それでそこでのぼりを立てて、神風特別攻撃隊彩雲隊というのぼりを民家に立ててですね、住まっていました。

Q:それは8月15日ですか? 

15日からですね。はい。

Q:庭月野さんもまだ戦争は終わっていないと?

ですから、またやるって言って、まだやるのだということで、とにかく司令がやると言ったらやるわけでですね。

そして8月23日になったから、今度は「解散する」と。「おまえたちは無駄死にするな」と。「祖国の復興に尽くせ」と言われたんですよ。それで無意識にやっぱり帰る気になりましたね。そして、「おまえたちはパイロットだということが分かったら殺されるから、その証拠を全部焼いて帰れ」と言われて、写真も記録も全部焼きましたよ。そうしたら、焼いてみたらですね、焼いて出てみたら、飛行機が、彩雲がなくなっているんですよ。上の人が盗んで行っちゃったんですね。それで白菊という飛行機が残っていたから、それに乗せてもらって、宮崎に行くと言うから、宮崎ならいいやと思って乗せてもらったら、日向というところに燃料が足りませんからここに下りますっていうので下りて。それでそこで誰ももう燃料を積んでくれる人がいなくて。赤とんぼがあったものだから、それに乗って離陸しようと思ったら、離陸しかけたらエンジンが止まってですよ。飛行場の端で逆とんぼして、それで逆とんぼで止まったものだから。それで、いやあこれはもう飛行機に乗っていたら大変なことだと思って、町の通りまで走っていったらトラックが来て、それに乗せてもらって。それで宮崎まで来て。一緒に乗っていたトラックのおじさんが、「うちの息子も予科練に行っていたけどまだ帰ってこんから、もう今夜は遅いからうちに泊まれ」って泊めてもらって。明くる朝早く汽車に乗って。帰り着いたのは夜中ですよ、やっぱり。そのときの汽車はね。止まったり走ったり止まったり走ったりして。

夜中に帰ったら、おやじが、「おまえ、ほんとか?」ってここをつまんでいましたよ、やっぱり。家に帰り着いたら。夜中に起こされてほら。もう死んだものだと思っていたらしいから。そうしたら親戚の者を全部夜中に呼び集めて、それで私はお湯を沸かしてもらって、浴びて寝ましたけどね。

Q:びっくりしたでしょうね。

みんなびっくりしました。死んだはずのやつが一番先に帰ってきたんでね。

うちに帰ってから1か月間は寝ていましたよ。もう生きた心地がしなくて、微熱が出てですね。何もやる気がなくて寝ていましたら、お医者さんが来て、「これは特攻病だ」と言いましたよ。そうしたらですね、9月23日に枕崎台風という大きな台風が来たんですよ。今あれでコンピュータで引いても、枕崎台風とちゃんと出ますよ。9月23日。そうしたらですね、何もなくなって。食べ物が何もなくなった。田んぼも畑も、芋までやられたんですよ。いやあ、これではいかんと。ここでまた何とかしなくちゃならんと、ゴソッと起きましたね。それからそのものを、家族が食べるものを集めるために走り回りました。

それまではずっと朝から晩まで寝ていましたよ。それでちょうどね、家に赤インクとノートとありましてね。それにずっとそれまでのことを書いた、ノートに書いた覚えがあるんですが、そのノートがどこに行ったか分からないんですけど。

Q:そのときのことを書き留めて。

ずっと今までのことを、気持ちとか行動とかをずっと書き留めた記憶があるんですけどね。もう、だって、家も建て替えた。その家も建て替えましたからね。そのときにたいていのものを捨てるので、おふくろの大事なものまで焼き捨てたことがあるんですよ。そのときだろうと思いますけどね。

いやあ、特攻隊で行った人たちがね、生きていたらね、もっといい仕事を、本当にもっと立派な仕事をしただろうなと。それを思うと残念ですね、やっぱりですね。彼らが、あんな有能な人材がですね、特攻隊に行く気持ちで戦後一生懸命仕事をしたらですね、ものすごい立派な仕事を。私もそういうふうに考えて一生懸命やってきましたけれども。特攻隊に行く気で物事を、仕事をしたら、立派な仕事をしてくれただろうなと思うと残念でなりませんね。行った人についてですね。いつもそう思っています。ですから、彼らは月夜に出ていったものだから、お月様が出る日頃になると必ず月を見ながら、あいつらってちょっとおかしいけれども、あの連中は何を考えて飛んでいただろうなと。とにかく何も考える余裕はなくて、飛行機を飛ばすことが何よりも最大の目的で、よく飛んでいったものだと思っていますね。

特に空に上がったらですね、誰の助けも得られない。いっぺん離陸したら、誰の助けも得られないというのが飛行機のパイロットの運命なんですよ。助けてくれって言っても誰も助けてくれない。自分で助かるしかないという。それを達成するということは、赤とんぼであっても一生懸命やって、ようやく達成できたと私は思っています。その一生懸命さがやっぱり、立派だったんだなと思いますよ。中途半端な気持ちで飛行機、赤とんぼで積んでいけませんから。一生懸命やっていた。それでやることをちゃんとやったと私は立派だと思います。

出来事の背景出来事の背景

【特攻~なぜ拡大したのか~】

出来事の背景 写真 爆弾を抱えての体当たり攻撃、特攻。戦争の終盤、日本はこの特攻でアメリカ軍を迎え撃ちました。戦死者は、4500人あまり。その大半が、二十歳前後の若者でした。
 昭和19年10月に始まった特攻は、終戦までの間に急激に拡大して行きます。特攻が初めて行われたのはフィリピンでした。最初に体当たり攻撃を行う事になる特攻隊が編成された10月20日。アメリカ軍がフィリピン・レイテ島に上陸を開始。20万の大軍が押し寄せました。太平洋の各地で敗退を重ねてきた日本軍にとってフィリピンは最後の重要拠点でした。しかし、主要な航空戦力を失っていた海軍には、強大なアメリカ軍を迎え撃つ手段がありませんでした。状況を打破するために立案されたのが、特攻でした。その戦果は、予想をはるかに超えたものとなります。20日に編成された特攻隊の一つ、5機の零戦からなる敷島隊は、空母3隻に命中してうち1隻を撃沈。隊員たちの命と引き換えに大戦果をあげました。
 この結果を受け、現地の海軍航空隊では体当たり攻撃の継続を決定。フィリピンの基地からは連日、多くの隊員が出撃して行くようになります。

 沖縄戦には、日本軍が開発したさまざまな特攻兵器が投入されていきました。ボートに爆弾を取り付け、敵艦に体当たりする、特攻艇、「震洋(しんよう)」。船体はベニヤ板。敵の銃弾を浴びただけで沈没しました。1.2トンの大型爆弾に翼と操縦席を取り付けた、「桜花(おうか)」。搭乗員は、桜花とともに攻撃機で敵艦隊の上空まで運ばれ切り離されました。しかし、桜花搭乗員の多くは、敵艦隊の上空にすらたどりつけず攻撃機もろとも撃ち落とされていきました。

証言者プロフィール証言者プロフィール

1926年
鹿児島県川辺郡勝目村(現・南九州市)に生まれる。
1943年
長崎航空機乗員養成所に入所(13期操縦生)。
1944年
2月、姫路海軍航空隊に入隊(14期海軍飛行科甲種予備練習生)。4月、沖縄海軍航空隊へ。11月、第951海軍航空隊小禄派遣隊へ。
1945年
3月、石垣島派遣隊へ。5月、第132海軍航空隊へ。「神風特別攻撃隊龍虎隊」隊員となる。
 
6月、第723海軍航空隊へ。「神風特別攻撃隊彩雲隊」隊員となる。
 
8月、徳島で出撃待機中に終戦を迎える。

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