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タイトルタイトル: 「特攻出撃30分前」 番組名番組名: [NHKスペシャル]特攻 ~なぜ拡大したのか~ 放送日 2015年8月8日
名前名前: 粕井 貫次さん(海軍特別攻撃隊 戦地戦地: 日本(鹿児島)  収録年月日収録年月日: 2015年6月27日

チャプター

[1]1 チャプター1 海軍航空隊の日々  06:25
[2]2 チャプター2 厳しくなる戦況  04:22
[3]3 チャプター3 練習機での特攻  02:39
[4]4 チャプター4 爆弾を積み重くなった機体での飛行は困難を極めた  05:41
[5]5 チャプター5 理屈抜きの攻撃  03:26
[6]6 チャプター6 香川・観音寺での突入訓練  05:36
[7]7 チャプター7 穴だらけの飛行場  03:21
[8]8 チャプター8 特攻出撃30分前  10:03
[9]9 チャプター9 空虚感に包まれた終戦  04:29
[10]10 チャプター10 帰郷  03:02
[11]11 チャプター11 一変した戦後の価値観  03:21

チャプター

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番組名番組名: [NHKスペシャル]特攻 ~なぜ拡大したのか~ 放送日 2015年8月8日
収録年月日収録年月日: 2015年6月27日

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Q:これはいつごろのお写真ですか?

これは航空隊で、特攻編成となったときぐらいですね。

Q:これが特攻編成されたころの。

はいはい。

Q:ああそうですか、何歳ぐらいですか?

21歳ですか。

Q:これはどこで撮られたんですかね?

それはね、たぶん人吉(熊本県)だと思います。人吉基地で。

Q:このころのお気持ちというのはどんなお気持ちだったですか?

だからやっぱり腕を磨いて、お役に立てるような技量に早くならなきゃなあ、そういうふうな気持ちですね。

Q:早く一人前になるぞ、という。

はいはい。

Q:これ、これは「赤とんぼ」ですか?

赤とんぼ、はい。

Q:これ爆弾を付けるときはどこに付けるんですか?

これこの下に。

Q:車輪のあいだですか?

車輪のあいだです。

Q:じゃあもう相当重いんじゃないですか、ここに付けたら?

だけどね、これがね、爆弾を付けないときには1.3トンくらい。それが全部重量でね、1.65トンぐらいですからね。そこにまあ0.25トンですかな。250キロ付けるんですから、だから普通軽いときの2割ほど重くなるんですね。

Q:この航空隊、これはどなたの集合写真ですか?

これは、たしかどこかに私がおるはずですが。これかな?

たぶんこれだと思いますな。

Q:この方、このまん中、この方ですか? が粕井さん。

はい。

4人いますわね、この次のが私です。これ、はい。これが練習生です。

Q:へーえ、これは第39期飛行練習生、じゃあこれはあれですか、粕井さんが教官だった時の?

そうです、教官だったときの。

Q:これが粕井さん?

はい。

Q:これはだいたい乙飛の何期ぐらいだったんですか?

これは甲飛、甲飛の13期。

Q:はあ、じゃあ甲飛の13期の教官をやっていらっしゃった。

はい、これですね。

Q:これは粕井さんですか? かっこいいですね。

はい。

Q:これ他の方々はみなさん教員、教官ですか?

ああそうです、教員、教官です。

Q:ちなみにこのお写真は、これはいつのお写真ですか?

これは特攻編成になったときですね、だから昭和20年ですね。

Q:昭和20年の1月。

そうそう、そのぐらいでしょうな。

我々、航空隊はその上の組織としては、第5航空艦隊だったんですよね。そこから指示というか、命令が来て、いわゆる資材、人員を絞った形で教育訓練をするということで、特攻編成を行うということで、この名称は誰が決めたのかどうかは知りませんけれども、神風特別攻撃隊「乾龍隊」、「坤龍隊」どういう意味かというと、いわゆるけんこんいってき(乾坤一擲)の大勝負をするという熟語がありますわね。それで「乾」は乾くという字と、「坤」は土(つちへん)に申すという字ですね。これが2つで人員構成が、もうその当時、練習生の3分の1ぐらいに絞って、その人選を私が任されたんですよね。乾龍隊のほうは。

Q:そうなんですか。

はい。それでそのときに、技術が優秀で、そして意志も強固で、しかも操縦技術……。長男を省いたんですね。次男、三男、それからどうしても足りなかったから、1~2名だけ弟がおるというような、そういうふうなのを1~2名だけ選んだことがあります。

Q:長男の方を。

長男。

まあ、そのときはね、すごく厳しい状況が、刻一刻と我々の身辺に迫ってきてますわね。だから我もそういうふうな任務を負わなきゃいけないなというふうな、そういう気持ちですね。それからやる限りはやはり全力を尽くして自分の技量を磨かなきゃいかんなという気持ちですね。

Q:その戦局が厳しいということはもう…。

日々に分かってきてます。そこへ大本営発表は割に戦果が上がったように言うてますけれども、だけどやはり前線から帰ってきて耳打ちしてくれる中には、必ずしも大本営発表のような戦果ばかりじゃない。味方のほうの犠牲も相当あるんだということですし、航空隊ですから全国の飛行機がやはり国分なんかにはよく着陸するわけですよね。そうすると5千人近い4千7百何十人が卒業したでしょ。同期生がね。そうすると必ずですね、降りてきた連中の中には知ってるやつがおるわけですよね。でそうして、「おい、今晩泊まれよ」ということで、そのときに「どうだった? 戦局は?」って言ったらね、「こうこうこうで、あいつも死んだよ、あいつも死んだよ。こういう戦果はあったけれども、誰それはもうおらんのよ」とかね。そういうようなことがやっぱり耳に入ってきますからね。そうするとこれは大変なことだなという気持ちになりましたね。

Q:そうやってどんどん同期だったり、亡くなっているというのを聞いてるから、やっぱり覚悟はできてたということですか?

そう、そう、だんだん覚悟はできましたね。それからね、今は人間一人死ぬいうたらね、大ごとのように思いますけどね、そのころは「ああ、死んだか」ぐらいの、そんなにすごく大事件が起こったっていうふうなことじゃないですね。それとね、私が思うのはね、心っていうのはね、命というのは心。ところがね、その当時のわれわれが考えてるのは、もうちょっと一段上の魂といいますか、いわゆる霊魂の「魂」ですね。その魂というのはね、一段上の理想というか、目標というか、そのようなものの神経になってますね。例えばね、靖国神社にね、「花の、庭の梢に咲いて会おう」という、そのようなことの歌を歌うでしょ。そうすると、命のほうはね、確かに惜しいかもしれんがね、その魂のほうはね、「ああ、そうだな、靖国神社で桜になって咲いたらまた会えるな」というふうな、何かそんなフッとした感じになってきますね。不思議なものですね。

Q:そういう実際の命というのを越えたところの魂というところで、皆さん、少なくとも粕井さんは考えていらっしゃった。

私もそういうふうに。だからほかの連中だって、いろんな考え方あるでしょうけれども、少なくとも表現の仕方は別として、そういうふうな少なくとも命の惜しいような、女々しいような行動だけはとりたくないと。やはりさすがあいつだと言われるようなね、人から見上げられるというか、そういうふうな生き方、最期をやはり遂げたいというような気持ちになりますわね。

Q:特攻に行かれた方は多いと思うんですけど、粕井さんの場合は、93中練ですよね。これで行くのかというような気持ちはなかったですか?

そうですね。あのね、我々の隊長もね、「これで訓練して、随分技量が上がってきたら、ゼロ戦の古いやつでもいいから、それをもらって、それで突っ込めるように早くなりたいな。そのために頑張ろうじゃないか」と、隊長が言ってましたものね。確かにね、93中練で、台湾では成功してるんですね。ということは、アメリカ軍のレーダー標準の射撃の標準を合わすのにですね、140ノットのスピードが出てる。そういうふうに感じて、計算して、射撃目標を決めたんです。ところが中練で、250キロ爆弾を積んだ場合は、大体70ノットしか出ないんです。その半分しか出ないんですよね。そうするとね、レーダー射撃をしても飛んで行く飛行機のはるか前方、50メートルか、60~70メートルのところに弾が飛びよるんですね。その後を、93中練が飛んで行く。したがって非常に命中率が低いわけですよね。そういうようなことで、最初の台湾の攻撃はそれで成功したということを戦訓で聞いたことがあります。

Q:それは実際に、戦時中に台湾の93中練の特攻が成功したということは聞いてましたか?

聞いていました。

Q:そのときはどう思われました?

だから、なるほど、そういうこともあるんだな。だから中練でもやり方によっては成功するんだなという。

ともかく離陸するときは、スロットルレバーですね。いわゆる自動車でいうアクセルですよね。それが普通は0~10までがあるんですね。普通だったら、離陸するときには、6~7ぐらいで十分離陸していくんですよね。上昇するときも、せいぜい4~5ぐらいで上昇していけるんです。それから水平飛行だったら大体3余りのところで水平飛行ができるんですね。ところが250キロを積むとですね、いっぱい10までレバーを押して、それでやっと離陸して、そして昇るとき、上昇するときにも7~8ぐらいのところじゃないことには、なかなか高度が取れないわけですよね。それから水平飛行の場合でも、普通だったら、3.2か3ぐらいのところで水平飛行ができるんですが、やはりそれが4.5~5ぐらいのところで…。だから非常に、いわばペラの回転が、かなり普段よりもよく回転させなければ、操縦がしにくいというか、高度が保てないとか、上昇ができないとかいうことですね。それからエンジンを絞ると、ずっと降下する速度が非常に早くなりますね。だからあまり絞れない。だから普通、仮に中練だったら3時間半ぐらい飛べたんですが、それはおそらく2時間半ぐらいしか飛べないんですよ。

Q:それはガソリンの消費量が多いからということですよね。

多い。多い。

Q:それだけ機体に無理がかかることだったわけですよね。

そうですね。やはり重い荷物を捨てたろうというように思うんですね。重い荷物をぶら下げてるという感じですね。

Q:でも93中練で250キロ爆弾をつけて、特攻をやるんだと聞いたときは、それは無理だろうというふうに思わなかったですか?

それよりも先ほどの質問に答えなきゃいけなかったけれども、「ともかく粕井分隊士やってください」って言うんで、無理とか無難じゃなしにね、「あんたにやってもろうて、できるかできないか、いっぺん見ましょう」というわけですよ。

Q:ちなみにそのとき粕井さんが選んだ隊員たちは飛行時間は何時間ぐらいでしたか。

そうですね。40~50時間余りでしたかな。

40~50時間弱ですね。だから20~30時間よりもうちょっと上ですね。

Q:そういう子たちに、250キロ爆弾を赤とんぼにつけて、敵艦に突入できるっていうふうに、どの程度思っていらっしゃいました?

これは非常にね、よっぽどぎょうこう(僥倖)がなければ難しいですね。ということは、少なくとも、米軍が正規の戦列といいますか、いわゆる軍艦ばかりで、なおかつ、上空に直掩(えん)がおる。直掩の戦闘機がおるというとき、昼間ということは絶対に成功はできないですね。だからやはり夜間の、しかもよほどそういうふうな直掩がない、あるいは少ないような状況のときに、こちらのほうの、何かの僥倖で割合に出撃機数が多い、そして護衛機が少ないというようなときには成功する可能性はあるけれども、向こうが待ち構えているというような状況では、ほとんど成功率が不可能に近いんじゃないかと思いますね。だけどそのときは、その当時はそういう言葉で考えることは多少の不安はありましたけど、考えること自体がね、非常に不遜と言いますか、そういう考えはあってはならんという気持ちになりますね。

どうしてっていうか、もしかして特攻となったら、理屈とか、計算とかいうふうな問題じゃないですね。何かこうあらざるやむを得んというか、こういうふうな自分の定めというかね、そんな感じですね。ということは、東京も大阪も横浜も名古屋も空襲でものすごく焼けてしまってるし、それから犠牲者も出てますわな。軍人以外の民間人も随分と焼け死んだり、それから機銃掃射でやられたり、それからいちばん気の毒なのは、輸送船に乗せられて、未教育の兵隊さんあたりは出航していって、海外に向かうときに、敵の潜水艦にやられてしまって、そしてほとんど全滅してしまうというふうなことを聞いてるとね、何かこう自分らでできることは何としてでもやって、この戦争を勝ち抜かなきゃいかんというふうな気持ちになる。そういうふうなことで、成功率はどうとか、戦略はどうとか、戦術はどうとかいうふうなところを超えた義務感というかね、そんなもんが働いたんと違いますか。

Q:やっぱりそう考えるとすごい極限の状態というか、やっぱり…。

それでも1対1でね、女の人でも竹やりを持って、それで米兵を刺すとかね、それから搭乗輩出、違う人間は海岸線でたこつぼを掘って、それで爆薬を持ってですね、そこでひそむというような、そんな時代でしょ。そんならまだね、例え、93中練でも爆弾積んで突っ込んで行ける。そしたら敵の何百人とうまくいけば刺し違えぐらいできる。じゃあ、それをやってみようと。まだ自分に与えられた任務というものは考えてみたら、1対1で戦うんじゃないときだったら、1対100、1対200、300、刺し違えることができる。それでもやらなきゃしょうがないなというふうに思うんですね。

Q:まだ93中練が与えられるだけましだったということ?

そう、そう、まだまし。

Q:観音寺で突入訓練をされるってさっきおっしゃってましたけど、どんな訓練をしてたのか、もう少し詳しく教えてもらってもいいですか?

はい。あのね、飛行場は割合に海岸線に近いところにありましてね、滑走路らしきものもできておりました。そこで3機編隊で離陸するわけですよね。3機編隊で主に訓練は夜間です。最初のころは明るいうちからやってたんですけど、次第にみんなが慣れてきたらね、慣れてきたというよりも、慣れさせてね、日が暮れてからということも多くなりました。そのときに3機編隊で離陸していくわけですね。私なんか指揮官は1番機で、2番機、3番機と。18キロほど沖合に、先ほど申し上げた円上島というのがあるんですね。そこの上空に、高度が800~1,000メートルで飛ぶわけですね。照明弾を落とすわけです。照明弾は1秒間にどれくらい、1秒間に8~9メートルぐらい落ちていきよるんです。その間、照明弾ですから島の形がはっきりと浮かび上がってくるわけですよね。それで解散するわけですよね。翼を振って。

そうするとね、2番機がそこに突っ込む、3番機が突っ込む。1番機が最後に突っ込んだなというのを見てから突っ込むわけです。ところが2、3番機が突っ込んで、最後、1番機が突っ込むぐらいのときになると、照明が消えるわけです。ということは海中に落ちちゃうわけですよね。そのときに引き返すわけですが、月明かりのあるときは非常に操縦しやすいです。月明かりがあって、星空というのは。これは天地がはっきり分かる。ところが月の出ない日、あるいは、全部雲で覆われているときは、非常に暗いです。だからそのときは、あまり漁船も出てないです。たまに漁船がポツポツ出てる場合は、これは漁船もひとつ上下の判断の基準になるんですが、そこで突っ込んで、起こして、そして帰りは皆バラバラで飛行場に帰ってくるわけですけれども。

飛行機の操縦ってやつは、いわゆる傾くと上下が左右になるわけですよね。そうすると操縦かんを引っ張ると、普通なら上に上がる上げ舵が、今度は逆に回ってしまうというような形になる。人間の体というのは、重力というのは、こういうふうに普通に平地で生活してると、ちゃんと足元のほうが重たいということが分かりますけれども、飛行機に乗ってると、操縦かんを引っ張っていますと、操縦かんを引っ張ったらその下に対して重力を感じてしまうわけですから、だからもし回ったら回ったままで、今度は重力がこの下にあるように思うんですね。

だから回ってるから、回ってるじゃなくて、外の景色がどこがどこに月があるか、星があるかということが分からなかったら、感じだけですわなあ。そこにはちゃんとした水平儀というのがちゃんとあるんですよね。ところがね、やはりうろたえてしまうと、水平儀をパッと見ながら、どのような飛行機が姿勢になってるかという判断がなかなかつきにくいんですよね。つい慌ててしまって、操縦かんを引っ張ってしまう。そうするとグルグルッと回ってスポンと落ちてしまう。そんなんで、2か月ぐらいの間に観音寺で4人死にましたね。

7月にね、観音寺から国分に行きましたわな。そのときに行った地上にあるものは、兵舎も何にもない。みんななくなってしまっている。多分、空襲でやられたんだと思う。そしてですね、飛行場のあっちこっち穴だらけです。穴だらけのところを埋めたね、跡があるわけです。だから、穴だらけの埋まってないところをうまくよけて着陸しましたけどね。

Q:もう飛行場が今度2回目に行ったときには穴だらけ、穴を埋めた跡があちこちにあるような感じ。でもぜんぜん訓練はできなかったですか?

訓練できなかった。飛行機はみな翼をばらして、あちこち分散して、特攻出撃するときには、それを寄せ集めて組み立てて飛べるようにして。

Q:でも、例えば部隊の中で、部隊の中でこういうふうに攻撃をかけようとか、作戦を練ったりとか、そういう研究をしたりとか、そういうことというのはあったんですか?

いや、ないですね。ええ。

Q:例えば飛行隊長以下、こういうふうにやったほうがうまくいくんじゃないかとか、この時間にこういふうに行って、こういうタイミングで行けばうまくいくんじゃないかとか。

ええ、ないですね。

Q:じゃあもうあとは行くだけ?

行くだけ、うん。上のほうであったか知りませんけどね。少なくともわれわれの部隊の中で、士官を交えてのそういうふうな検討会というのは全然なかったですね。だいたい相手がね、そのどういうようなかたち、ということはつまり編成でもってですね、われわれのところに攻めてくるかということについての前提も、それからどういう場合にはどういう対策を講じるかというような、そういう戦術ケースもぜんぜん示されていないですね。

Q:作戦のたてようがない…。

たてようがないわけですね。

Q:じゃあその部隊の中で、決まっていたことというのは、夜、出撃すること、まあいくつかあったと思うんですけど、粕井さんたちの中で決まっていた、この作戦でいこうというのはどういうことだったんですか?

あれですね、夜間敵艦に近づいて、照明弾を落としてそうしてそれにぶち当たっていく、それだけしかないですね。

Q:覚えていらっしゃる範囲で構いませんので、何があったのか、8月10日、そのときのことをちょっと教えていただけますか?

ええ、8月10日ね、昼、昼飯を過ぎたとこぐらいかな、ともかく確か12機だと思いますが、飛行場に組み立てて、そして攻撃3時間待機ということになってですね、整備兵がエンジンを回して、で、あの当時こう飛行機はもう暖機運転をしなければ具合が悪いので、で必ず離陸する前の20~30分前からプロペラを回して、そしてシリンダーの中の温度を上げておかなきゃいけないわけですわね。で、攻撃3時間待機という命令が下って、そして私の搭乗割が張り出されて、で12機の編成の名前が書かれて、で、待機していたわけですね。もちろん爆弾は積んであるし、それから飛行機のプロペラは回っていますし。暖機運転ですから、しばらく15分~20分回して、そして暖まってきたら、しばらく休憩するわけですね。そしてまた1時間ほどすると、シリンダーの中の温度が冷めてきますから、またこう、回すというようなことを2時間ぐらいやっていたと思いますわ。

そうするとね、もう少し攻撃3時間待機があとのような気もするし。それが4時頃でしたかな。もう5時ぐらいになったかもしれん。その時に攻撃30分待機に変更というふうに命令が入りましてね。ああ、いよいよ30分待機かと、これはもう…。ところが私遺書を書いていないんですよ。はっきりとね、何月何日どこそこへ出撃するという連中はみな書いているんですよね。ところがあのときに、急にですね、攻撃3時間待機になり、30分待機になった。飛行場ですからね、別にそういう遺書を書くような用紙も持ってないし、せいぜい鉛筆ぐらいはあったかもしれませんがね、ああいよいよ俺の番がきたか。しかし、私はまじめで、一生懸命やる男でね、自分で言うのもおかしいけども。ちょっと口はばったい言い方ですがね、軍人はどうあるべきかといえば、俺を見ろと、一挙手一投足、お前たちの考えている以上の俺は行動をするから、というふうな偉そうなことを言っていた。ということは私、三重空のね、国定少佐(国定謙男・海兵60期)とかね。私の5分隊の分隊長の石井西二(海兵66期)という分隊長が、もうこの人の言動を見ていると、ああ立派だなと思って、あんな立派な方に早くその域に到達しなきゃけないなということで、気持ちものすごくあるんですね。私、実際ね、わりに何でもほれやすい性格ですね。

そういう人のように俺を見習え、だから私はね、普段から言っているような、その自分の最終の死に方についてはね、恥じないような行動を取りたいと自分で思っていましたね。

それからちょっと私の同期生の中でね、やはり特攻に行きたくないために多少非難すべきような態度を取った連中はいますねん、実はね。そういうような、それも伝え聞いてくるわけですね。その名前は私は墓場まで絶対に口外しないつもりでおりますけどもね。だからそういうような人から後ろ指を指されるような、そういうような死に方だけはしたくないと。人からさすがだなというふうな死に方をしたい。立派な最期を遂げたいという気持ちだけだったんですね。だからそんなんでずっと待っていたんです。

ところが天候が、やはりそのとき、やっぱり雲が多くてね。雲が低くて、偵察機のほうからそのあとどのへんに敵の艦艇が来ているのかというような情報がぜんぜん入ってこないんです。それが日南沖に敵艦らしき行動を取ってる艦船があるから、特攻準備せよというだけのことだけでしょう。そうしたらね、どこそこから何度の方向に、どういうふうな船で、何ノットでもってどの方向に行っているというような情報がぜんぜん入ってこないんですね。そこにもってきて、気候が非常に天候が悪くなってきて。ぽつりぽつりと雨が降りかけたような感じです。

しばらくしてから、攻撃30分待機を3時間待機に戻すというふうになったわけですね。日が暮れていきましたかな…、もう7時過ぎか8時ぐらいになったかもしれませんな、7時も8時前になった。そのときに、攻撃待機解散、次のまた命を待てという、そういうふうな連絡が入りまして、まあそういうことで、それまで非常に不安な時間を何時間か、5時間ぐらい費やしましたかね。

Q:不安というのはどういうお気持ちなんですか? その不安というのは。

不安というかね、いやむしろね、攻撃が成功できるのか、するのかなという不安ですね。命が助かる助からないかというのではなしにね、こんな技量の連中を引っ張っていって、敵が見つかって、そして成功できるかなと。とてもじゃないが、夜間、そういう真っくらのところに初めてですね、行ってどこに敵がおるか分からんというようなところにね、さまよって、でまた元どおり帰ってくるというのはね、これは非常に技術といいますか、高度な航法も必要ですがね。そういような、私の後ろに乗っているのは、乙1種(特乙1期生)のね、16歳ぐらいでしたかな、私が何かのことで分からんで質問するでしょう、するとぜんぜんよう答えないんですね。私は操縦ですわな、航法で乙1種の16歳の彼はね、もう前に乗っているのは中尉ですからね、だから階級から言うたらずいぶん違いますわな。だから私も非常にみなを引っ張っていくのに不安感がありましたね。

8月15日はね、やはりこの日も官舎で待っておったわけですわね。官舎というのは飛行場からそうですね、2キロ、1キロ半ぐらいのところにあったんですけどね。で、そこで待機をしていたんですが、毎日、特にこれというすることはないんですよね、待機しているだけで。正午に重大な放送があるらしいということで、官舎のラジオの前にまあ集まって、何の放送があるんだろうなんてなもんでね。

そうするとまあよく世間で言われるように雑音の多い非常に聞き取りにくい終戦の詔勅の放送があったわけですね。まあはっきりとこれで戦争が終わったんかとか、何かそのはっきりしないわけですよね。だから、確かに結論としては各自は令があるまで待て、軽挙の行動を取るなというようなことらしい、なことかな。だからいままでは死というものに対して絶えず不安感と覚悟とが隣り合わせにあって、そういう日々を送ってたわけですけども、それが急にですね、張りがなくなったわけですよね。だからへなへなとするような、何かこう、目標がなくなってしまったから、何かほんまにうつろな気持ちになりましたね。一般の人は考えるだろうけど、命はこれで助かったという気持ちは全然そのときは起こらなかったですね。何かいわゆるふぬけという感じですね。それでそうなってきたらね、すべて過去、自分の過去というものを消してしまいたいというかな、何かどうなったんでしょうか、すべてのね、私が、搭乗員には飛行手帳というのがあるんですよね。いついつどこで何時間どの飛行機に乗ってこういうことをした、というのをね。それも一番に焼いてしまったんですね。官舎の庭にたき火をしましてね、そこで過去における自分の行動、飛行手帳をはじめいろいろな記録とかいうものを全部そのたき火の中に投げ込んでしまってね、燃やしてしまいましたね。そして、さあ、どうしたもんかなと。

そこから落下傘バッグに衣類なんか詰めていましたから、それを持ってね、そして西明石から国鉄に乗って、そして大阪駅まで行って。大阪駅から市電に乗って上本町の方に向かった。我がうちがあることは分かりませんねや。ところが良かったことにね、上本町2丁目まで行ったら残ってますやん。焼け残っている。ワーッ、良かったと、私の家はその2つ西に末吉橋の近所にある。歩いて行ったらそのへんが残ってるんです。大阪でも7割が焼けたんですよね。それで残っているわけですよね、ああ良かったなと。それでうちに帰って、もう夕方でしたね。ほんなら、ばあさんがおりましてね。

Q:どうやって帰ったんですか、そのときは玄関から普通に入っていったんですか?

ああ玄関から入り、はい。でね、私、母親はその前に死んでいますのでね。おばあちゃんだけがいましてね。「ただいま」って言ったらおばあちゃんビックリしましてね。私旧姓は「たもつ」言うんですよ。戸籍もいま漢字になっていますけどね。「たもつか、たもつか、へえ」って言うてね、で、私の足を抱えましてね、「あっ足ある、足ある、幽霊と違う」って言ってね、幽霊やったら足ないですからね。だからもうポロポロ泣いてね。

Q:おばあさんもびっくりしたんですね。

ああ、びっくりした。だけど近所に言わんといてくれと。いつ特攻狩りが行われてどういうふうなことをされるか分からんから。まあ、しかしあの時分は特攻狩りはやらなかったですね。

Q:特攻隊があれだけ戦ったから、相手から何をされるか分からないという、そういうことですよね。

そうそう、はい。

Q:そういう不安感というのはどれぐらい続きましたか?

そうですね。まあわりあいに早くなくなりましたね。わりあいにアメリカ軍の人が軍人が制服のまま、何もこの武器を持たずに丸裸なまま街を歩いたりね。

だからその時分のね、どういうんでしょうか、みんなの心境というのはね、いまの時代とはもうまったく違う価値観、まったく違う善悪感ですわな。

兵隊に行った人間はやっと命が助かった。それから一般の人はですね、腹いっぱい白い飯を食べられる、死ぬまでにいっぺん腹いっぱい白い飯を食べたいというような価値観ですもん。だからまあ先ほどちょっと話があった、その女の場合でもね、食うためにはパンパンもやろうかというわけです。そんな時代ですわな。ガラリっとね、過去における価値観が変わってしまった。まあその点、純粋な気持ちで亡くなっていった特攻をはじめ、310万の人が死んでますね。そのうちの軍人が230万、一般市民が何も戦力も何もない、罪も犯していない人間が80万死んでいるでしょう。そういった犠牲に対してね、敬けんな気持ちでもってですね、われわれはそういった人のことを忘れてはいけないと思いますね。

Q:僕らがその特攻ということから、学ばなきゃいけないことというのは何だというふうに粕井さんは思います?

やっぱり純粋な気持ちでしょうなあ、純粋な気持ちで自分の命を投げ出したということに対して非常に敬けんな気持ちでもってその考えかた、行動を理解し…、理解することでしょうな。

出来事の背景出来事の背景

【特攻~なぜ拡大したのか~】

出来事の背景 写真 爆弾を抱えての体当たり攻撃、特攻。戦争の終盤、日本はこの特攻でアメリカ軍を迎え撃ちました。戦死者は、4500人あまり。その大半が、二十歳前後の若者でした。
 昭和19年10月に始まった特攻は、終戦までの間に急激に拡大して行きます。特攻が初めて行われたのはフィリピンでした。最初に体当たり攻撃を行う事になる特攻隊が編成された10月20日。アメリカ軍がフィリピン・レイテ島に上陸を開始。20万の大軍が押し寄せました。太平洋の各地で敗退を重ねてきた日本軍にとってフィリピンは最後の重要拠点でした。しかし、主要な航空戦力を失っていた海軍には、強大なアメリカ軍を迎え撃つ手段がありませんでした。状況を打破するために立案されたのが、特攻でした。その戦果は、予想をはるかに超えたものとなります。20日に編成された特攻隊の一つ、5機の零戦からなる敷島隊は、空母3隻に命中してうち1隻を撃沈。隊員たちの命と引き換えに大戦果をあげました。
 この結果を受け、現地の海軍航空隊では体当たり攻撃の継続を決定。フィリピンの基地からは連日、多くの隊員が出撃して行くようになります。

 沖縄戦には、日本軍が開発したさまざまな特攻兵器が投入されていきました。ボートに爆弾を取り付け、敵艦に体当たりする、特攻艇、「震洋(しんよう)」。船体はベニヤ板。敵の銃弾を浴びただけで沈没しました。1.2トンの大型爆弾に翼と操縦席を取り付けた、「桜花(おうか)」。搭乗員は、桜花とともに攻撃機で敵艦隊の上空まで運ばれ切り離されました。しかし、桜花搭乗員の多くは、敵艦隊の上空にすらたどりつけず攻撃機もろとも撃ち落とされていきました。

証言者プロフィール証言者プロフィール

1923年
大阪に生まれる
1943年
海軍飛行予備学生(13期)として三重海軍航空隊に入隊
1944年
出水海軍航空隊国分分遣隊(後の国分海軍航空隊)に教官として赴任
1945年
神風特攻隊乾龍隊に編入され、人吉航空隊で特攻訓練の後、観音寺航空隊に転属し、特攻訓練に従事。7月、国分海軍航空隊に転属。
 
8月、国分基地で出撃待機中に終戦となる

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