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タイトルタイトル: 「陸軍特攻隊の援護で出撃」 番組名番組名: [NHKスペシャル]特攻 ~なぜ拡大したのか~ 放送日 2015年8月8日
名前名前: 有川 覚治さん(陸軍航空隊 戦地戦地: 台湾 フィリピン  収録年月日収録年月日: 2015年6月3日

チャプター

[1]1 チャプター1 しまい込んできた功績の証し  07:32
[2]2 チャプター2 陸軍飛行第20戦隊へ  03:49
[3]3 チャプター3 台湾沖航空戦  07:14
[4]4 チャプター4 空中戦の難しさ  04:18
[5]5 チャプター5 特攻が始まる  04:27
[6]6 チャプター6 レイテ湾に向けて繰り返し出撃を掛ける仲間  06:05
[7]7 チャプター7 特攻隊で出撃し、戦死を遂げた仲間たち  05:04
[8]8 チャプター8 未明の出撃  06:28
[9]9 チャプター9 突入を見届ける  14:14
[10]10 チャプター10 台湾へ  07:32
[11]11 チャプター11 望めなかった特攻の戦果  11:18

チャプター

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番組名番組名: [NHKスペシャル]特攻 ~なぜ拡大したのか~ 放送日 2015年8月8日
収録年月日収録年月日: 2015年6月3日

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Q:これは何ですか?

これは賞詞です。これ直筆ですな。これ、表装したんです。裏打ちして。裏にやって。この前写真で。これが封筒です。これが封筒になっております。

Q:何と書かれているんですか。有川…

覚治中尉に与うる賞詞。有川覚治中尉に与うる賞詞。航空軍司令官。花押です。それでここに賞詞ですか。飛行第20戦隊付陸軍中尉有川覚治。

功を重ね、かつその報告。その報告常に毫も飾らず、断じて偽りなし。本職、よくその武功を認むると共に、戦いの特義を守るその節操を喜び、ここに賞詞を与える。昭和19年12月17日、第4航空司令官、陸軍中将富永恭次、花押、軍司令官直筆。

Q:これはどういう趣旨の意味合いの賞詞ですかね?

これはやっぱり、後ろの方じゃないかと思います。断じて偽りなしということで。この武功の方はみんな私以上に働いておりますから。ただ、報告はそのまま全く偽りなしということで。

私も当時21歳でしたからですな。もう他の…ありのままをただ報告しただけでですな。その他にも艦船攻撃なんかも何回かしまして、その度に報告していたわけですな。

Q:偽りなく飾らずに報告するのは難しいことなんですか、戦場では?

まあ私は昔からですな。生まれつきおやじが厳しいおやじで、うそを言っちゃいかん、うそを言っちゃいかんって。小さいころからすごく言われてきておりましたからですな。だから士官学校のときもそのまま、事故を起こしますと必ずそのまま事故報告を。私がいちばん多くしたんじゃないかと思うんです。だから、士官学校に行ったとき、賞罰を食ったときもですな、その分はそれで連隊長にもそのまま申告したということで。まあ生まれつきそういうふうになっておりましたからですな。今で言えば当然という言葉でしょうけれども、あの当時は自分ではそれが当たり前だと思っておりましたから。

まあこれだけは私、台湾から帰るときもポケットにしまい込んで、それで持って帰って。これは実は両親にも見せたことがないんです。

Q:どうしてですか?

見せたくなかったんですね、こういう賞詞をもらったとか何とかっていうことは。負け戦で帰ったものですから。武功章もですな、このときもらったんです。武功章、キールン(台湾・基隆)の波止場で捨てまして、それは。これだけ持って帰ったという具合だった。

Q:戦争に負けたときに捨てたと。

復員して帰るときに。武功章もこのときに、賞詞をもらったときにもらったんですが。

Q:負け戦…

そうです。それがあったものですから。だからずっとこれを警察予備隊に入りまして、そして、入間に来ましたときに表装して、それでそのまま仏壇の後ろにしまい込んであったんです。そのままずっと。だから家内たちも全然知りません。今度初めて家内もこれを見たわけです。

Q:有川さん当時戦っていらっしゃったときに、戦の徳義を意識したことは。

ありませんです。ただ、もし生きて帰ったらどう言われるか分からないというあれで、決してひきょうなまねはしたくないと。ひきょうなまねはしたくないというのがたった一つのことだったんです。僚機が付いておりますから。もしおかしなことをして帰ったら、どう言われるんだろうかというような思いはいつも心の中にありましたから。ただそれだけだったです。結局ひきょうなことはしたくないということだけだった。その他はもうありませんです。

私、お話しましたとおり、転科しまして。しかも転科してからも最初は襲撃機だったわけで。襲撃機から20名ですか。戦闘の方に変わりまして、そして明野の飛行学校に行きました。明野の飛行学校の卒業直前に、阿久根君と2人だけ、飛行20戦隊に行けという命令を受けました。それでここの所沢の補給敞(しょう)に行きまして、隼の3型を受領しまして、それで阿久根君と2人で台湾に行ったんです。その途中で新田原の飛行場でいったん2機で台湾に向かって出発したんですが。間もなく阿久根君が翼を振ってきまして、燃料の補助タンクが下にある。蓋を開けていないということを本人が気付きまして翼を振って。それでまた後から行ったわけです。それで新田原の飛行場に最初阿久根君が着陸しまして。続いて私が着陸したんです。ところが、着陸すぐ目の前でしたところが、前に台湾に向かって出発していた複戦、双発戦闘機、それが1機、滑走路の向こうのほうから逆に不時着してきたんです。エンジンか何かが不具合だったらしい。それで私は着陸して、向こうが下りてきて、ちょうど着陸した途端に向こうは下り、それで目の前で追突しまして、地面に。すぐ火が噴いて。火を吹いたものですから、それに突っ込んだら大変だと思って、フットブレーキをあれして飛行機を、隼を飛行場の外に出したんで。滑走路の。それで1日遅れまして。それで私は九七重(97式重爆撃機)に乗せられましてですな。それで台湾に行ったんです。

昭和19年ですか、8月の3日で。行って戦隊長に報告したわけです。戦隊長が山本中佐だったわけです。山本中佐から、「女みたいなあれが来たな」って言われまして。何でも女みたいなって言うのかなと思ったんですが、それが最初の20戦隊に着いた印象だったです。

それですぐ、もう明くる日からちょうど杭州湾とか、福州に陸軍が上陸しているわけです。それの船団の護衛を上からやっておりましたですよ。ここで大体2機から4機ぐらいで交代交代で。それを続けているうちに、敵の機動部隊が台東の沖合に来ているという話がありまして。その後はもう杭州湾の船団援護のほうは取りやめになりまして。それで飛行場の脇に小港の飛行場、サトウキビ畑の中に1本滑走路がずっとあれして。その両脇に1中隊、2中隊、3中隊って飛行機をこう滑走路に沿って並べてあったわけ。

「敵機、敵機」という監視所の叫ぶ声が聞こえたんです。それで上を見る暇もなくて、私真っ先に飛んで、いちばん滑走路の右側に。そこで飛び乗って、それで始動車がいちばん最初に回してくれて。手動車というのはプロペラの先端にかませて回すわけ。そういうのを始動車が回してくれたので、ちょうど落下傘を爆弾に付けるという。スロットルから手を離した途端にプロペラがスルスルと止まったわけです。エンジンが止まった。しまったと思って手を上げたんですが、始動車はずっと1機ずつ回して向こうのほうに行っている。それで結局、いちばん最後に飛び上がっていったわけです。それでその前から集合場所は屏東のちょっと北のほうに旗山という街の上空に集合することになっていたんですが。そこに向かって上がっていったときに、右側を見ましたところが、ちょうど隼(陸軍戦闘機)が1機宙返りをしているわけです。それでちょうど腹の横のところの日の丸が鮮やかに見えました。その瞬間、ああ、空中戦闘が始まったかと思って。それで思って、まだほら、射撃装置をしていなかったものですから、射撃装置をしてひょいと見たところが、向こうから1機来るわけですよ、黒いのが、飛行機が。

その次の瞬間は、紫電改かなと思って。翼を振ったわけです。友軍機で。振った瞬間に撃ってきましたです。それはちょうど曳(えい)光弾がバーッと渦を巻いて回ってきて、自分の飛行機の、隼を包むような形でワーッと曳光弾が来たわけ。ああ、敵かと思って。なあに、負けるものかと。射撃装置したばかりだったものですから、あれを押したわけです。それでこちらのほうはしょんべん弾で。13ミリ2門ですから。

Q:(弾が)垂れていってしまう…

曳光弾がただ行くだけ。そのうち、その次にはもうすれ違いましたからですな。それでふと見たところが窓が見えましたのはマフラー。敵機のマフラー。緑色のマフラーしとるのが窓に映りまして。それで上を、こちらの方を見たのがですね、やっぱり青い目んたまですな。

ちょうど背面状態でファーッとすれ違う。それからあとどうしていいか分からないわけですよ。こうやって見たところが、後ろを見たら向こうはずっと上昇しているわけです。なにくそ、こっちも隼だ。負けるものかと思って、上昇したわけ。それが上昇しているうちに失速しましてですな。きりもみ状態になってですよ。

Q:性能が全然違った?

やっぱり操縦のあれだったんですな。そのまままっすぐ上がったものですから。それでそれもきりもみ状態になって、ちょうど旗山の端っこだったですが。姿勢を整えて、そしてずっと今度は阿里山(ありさん)。台湾の阿里山の朝方だったですから。阿里山のほうに行って、太陽を背に受けて、今度は高度を上げながら来たらいいと思って、高度を上げながら1機だけ来たわけ。そのときに高雄の上を見たところが、ものすごい飛行機だったんです。アメリカの。それがもう編隊をいっぱい組んで、それで北上していくわけ。高雄の上空を台中の方に向かってずっと。それで初めて、ああ、やっと戦争が始まったかということがパッと頭に浮かびまして。それまではただ無我夢中と言いますか、ちょうど中学校のときに、講堂の裏でけんかをしましたけど、けんかと同じ気持ちだったです、最初は。それがもう最初の初陣だった。

Q:それまでは隼で戦えると思っていたと思うんですけど、そのとき初めてF6Fと戦って、そのときどんなことを考えましたか?

どうしていいか分からんということだけ。空中戦闘のやり方というのが全然分かっていないなという感じを持ちましたです。それはもうずっと後々まで頭から離れませんでした。フィリピンに行くまで。というのは、空中戦闘のやり方というのは、明野(陸軍飛行学校)のときにちょっと習っただけだったんです。前上方とか後上方とか、そういうことだけと。それからドイツではやっておりましたロッテ戦法。2機、2機でいわゆるすり鉢戦闘というやつで。敵機が下におって、それをすり鉢状態で。そういうことしか習っていなかったんです。

Q:連携しながら戦う…

ところが、それではやっぱりフィリピンに行ってからも、どうしても疑問で。

パラワン島の、行ったときにちょうど武蔵(戦艦)がレイテに行くときに護衛のゼロ戦がプエルトプリンセサに着陸したんです。その古い兵曹長クラスの古いパイロットの方をつかまえて、「海軍さんの戦闘方法を教えてくれ」と聞いても、どうしても納得が行かない。 それから、昔甑島でよくトンビとカラスがけんかしているのを下で見たことを思い出して、いわゆるトンビとカラスの空中戦のやり方なんかを見たりしておったのですが、どうしても納得がいかない。とうとう最後まで空中戦闘についても疑問を持ち、全然自信のないものだったわけ。艦船攻撃については鉾田飛行学校で対戦車攻撃で習っておりましたから、これだという方法をつかんでいたのですが、空中戦闘については全然つかめません。

Q:有川さんは現地にいらっしゃったときに、既に台湾沖航空戦、大戦果を挙げているという知らせが。

船が機動部隊が、台東の沖合にもう来ているわけです。あんな大きな、最初のときにごう沈された航空母艦なんかも来て、そこから台湾を空襲しているわけです。そのときに疑問を持ったわけです。

Q:そのときに疑問を持ちました?

疑問を持ちました。…戦果については。それと台湾沖航空戦の後ですか。やられた3日目ですか。3日目に考えた。どうして台湾の飛行機で機動部隊を攻撃して、航空母艦をやっつけたら敵機があんなたくさん、何百機と飛行機と実際来るのか。船がいなくなれば、全部海の中に藻くずになっちゃうんじゃないかとまあ思ったこともありましたけれども。

Q:昭和19年10月に特攻が始まりますけど、体当たり攻撃を海軍が始めたというのを最初に聞いたときは、有川さんはどんなお気持ちでしたか?

最初、海軍の神風特攻隊が出たときは、偶然に飛行20戦隊が戦力補充をしまして、そしてフィリピンのクラークフィールドの北のほうにバンバンという飛行場があったんです。あれが海軍の飛行場だったんだろうと思うんです。そこに着陸したんです。最初に。そのときに、ゼロ戦部隊がいわゆる神風特攻隊が出ていくんだということを、そのとき初めて聞きましたですよ。ただ、聞いただけでですね、それ以上の考えというものは全然。もう自分のその任務ですか、のことしかやっぱり考えられなくて。

神風特攻隊が海軍さんが出ていくということも、何かただまあ、耳にしたということだけで、それ以上の感じというのは起こりませんで。もう自分の任務のことで一生懸命、そういう状況でした。

Q:有川さんは特攻隊はどれくらい戦果を挙げているというふうに思っていました?

戦果は疑問でした。護国隊の場合は、敵機が1機もいなかったんです、当時。ちょうど機動部隊が南のほうに下がったときだったと思うんです。残っていたのが輸送船だけ。だから敵機は1機もなかった。だからもうそのまま戦果確認ができたわけですよ。あれがもう敵機のおる中で戦果確認は到底もうできません。できないと思う。それで任務がですな、誘導、それからその次が直掩(えん)、それから戦果確認。この三つの任務を与えるわけです。たった4機に対してですな。そのうちの誘導は分かります、それは。航法で飛んでいく。それから戦果確認も分かります。戦果は最後まで見る。その直掩ということはどうするんだということ。 戦隊長にもみんなに聞いても、直掩っていうのは敵機が来たときに、特攻隊を攻撃するのをはねのけるのだということだけですよ。はねのけるんだ。ところがそのはねのけるということはですな、できるんだろうかということをいつも疑問を持っていて。だから、私は最後にはもう直掩というのは、特攻隊の飛行機の背中におんぶしちゃってそのままずっと行く。それで敵機が後ろから撃ってきたら、全部自分の背中で弾を受けるのだと。それが直掩だと。ということを最後には感じました。

私が直掩して、それでレイテの艦船攻撃を命じられた。結局、最後までまあ感じたのは、どうしても最後まで突っ込ませるのだという気持ちを上のほうは持っているような感じを、そのときは持ちましたですな。それでちょうど夕方だったんですけど。出発するときには、ふと言葉を交わすこともできないわけです。佐々木伍長の飛行機は双軽で800キロの爆弾を積んで、離れたところにある。それで私の隼とそれから僚機の佐藤曹長で、2機は先に上に上がって。上で回って、それで下から上がってくるのを待っていて、それで上がってきたんですけど。だから話をすることは全然なかったわけです。それで上がって、リフアからずっと南に下って、ちょうどもうレイテが見える、レイテ湾の見えるころになったとき、後ろを見たら2機付いてくるのを見ましたから。それでちょうど佐々木伍長、左下のほう。それから佐藤曹長は横の方に見て、それから真横に行ってふと、高度はあのとき5,000メートルだったんです。5,000メートルに上げてふと上を見たところが、レイテ湾の方にはもういっぱい。艦船が浮かんでおりました。それでその上を見たところが、3個編隊。上に回っていて。ああ、これは敵機だと思って後ろを振り向いたところがいないんです。それは私より先に気付いて、2人とも。それで佐々木伍長もそれを引き返しちゃって。ボルネオの向こうのほうに回って、明くる日に帰ってきている。カローカンに。それから佐藤曹長も先にカローカンに帰っていたんです。私さっき言いましたように上からかぶさって、回避をしているうちに撃たれて。

Q:そこで4機編隊の敵が3個編隊上空にいるのを見て、後ろを見たら佐々木さんも佐藤さんもいらっしゃらなかった。

先に気付いていたんです。敵機を。私より先に。

Q:そこで有川さんはどういうふうに襲われた?

上から仕掛けてきて。しかし、攻撃するのは1機しかおりませんからですな。結局同時突進ということは、空中接触を起こします、敵機もですね。だからもう1機ずつですよ。敵は何機おっても攻撃を受けるのは1機です。だから上を見ていて、大体攻撃してくる方向にひねればいいわけです。上から下りてきたら、こっちの方から来たら左の方に。ということは、向こうはひねりきらないわけです。それから、上からこう見て、こっちからこう来ると今度は右から。それを上を見ながらやっていこうと。いわゆる回避行動と言うんです。

Q:そのときは被弾はしたんですよね?

カバーを吹っ飛ばされちゃったけど。エンジンカバーですが。弾が当たったのかですな。回避行動でやっているうちにびょうが緩んじゃって飛んだのか分かりません。エンジンが裸になりましたから。

Q:でもそれで。

ピリの飛行場に飛んで帰ったわけです。

Q:そのときはレイテ湾上空まで行かれたんですか?

手前です。レイテ島のもうちょっと手前だったと思うんですな。手前でもう。

Q:レイテ湾は見えたんですか?

見えたんですよ。

Q:そのとき、レイテ湾の中の状況はどんなでした?

船がですな、ちょうどいっぱい。砂糖にアリが集まっておりますが、あんな状況ですな。いっぱいこう。

Q:船が。

船が。その艦船だけじゃなくて輸送船とか上陸用舟艇とか、そういう舟艇類もおったんだと思うんで。

どうしても岩本大尉の、教練班長のことは念頭から去りませんでした。それで万朶隊の特攻隊長になられたということを聞いてですな、ああっと思って。

Q:それはフィリピンで知りましたか、万朶隊そのことは?

万朶隊は、そうです。フィリピンだったです。そうです。ああ、そうですな。宿舎も、場所も違っていたんじゃないかと思うんです。万朶隊の中に同期生が安藤君という。安藤、あれは安藤…。安藤浩とさっき言いました川島君。これも幼年学校です。安藤君も川島君も偶然に予科士官学校で11中隊の3区隊で同じ区隊だったんです。同じ区隊。区隊というのは大体40名だったんですな。それで安藤君というのは体の大きなほうで、背の高いほうからどこか2~3番目ほど。それから川島君が真ん中頃だったですか。それで川島君っていうのはあれはあそこですな。川内幼年学校ですかな。幼年学校から来ているんですな。大人しい温厚な。あまり口数の少ない。それから安藤君の印象に残っているのは、いつも本を読んでいた。勉強の。

一度会いたいなとフィリピンで思ったんですが、そのときはもう場所も違っておりまして、後でもう戦死したものですから。

Q:その同じ区隊だった安藤中尉、川島中尉がそういう体当たり部隊に入ったと、特攻部隊に入ったと聞いたときはどんなお気持ちでしたか?

あのとき感じたのは……。何でという感じだったですな。何であんな優秀なパイロットが何でというような。安藤君も川島君も、何であんな優秀なのが、どうして特攻隊になったんだろうという感じは持ちましたですな。それはもう事実です。

Q:何でそういう…何があってそんなことになっちゃったのかなって言う、そういうことですか?

まあそんな優秀なものをどうして特攻隊に命じたんだろうという感じだった。自分みたいな者だったら、まあ当然だろうけれどもですな。まあそれぐらい2人とも優秀だったですな。人物も多分成績も優秀だったんだろうと思うんですけれども。人物もしっかりした人物だったですから。それはもうそう思いましたですな。もし戦後、戦死しなかったら、相当な人物になっていたんだろうと思うんですな、2人とも。

護国隊のですな。あのときはもう、私は飛行場に行きましたときはもう、暗闇の。本当に暗闇だったんです。並んでおりましたからですな。そして、ちょうど前のほうにテーブルと言って、杉板か何かをこう長く伸ばした普通のテーブルですが。だったんです。その前のほうに7名ずっと立ってですな、並んで。その姿は、顔形は何も見えません。それで、私以下4名が右側の方に並んでいて。それでそのときに、軍司令官とか師団長とか参謀はこっちのほうから来てですな。それでテーブルの上だったか、杯が置かれて。軍司令官が一升瓶か何かで注いでですな。それでみんなが1人ずつ。それで乾杯。乾杯の音頭もなくただ黙ってこうしていただいてですな。恩賜のお酒だということで。それでそれが終わって、命令も何もなかったような気がするんですな。それであとは私は最初申告しまして。命令。「有川中尉以下4名、誘導・直掩・戦果確認に行きます。」それで続いて遠藤君が、「特攻隊必死必殺の攻撃を」と。もうそれ、エンジンが回っておりましたから、飛行場のほうで。飛行場と言っても滑走路のすぐのところで。それが終わって敬礼して、軍司令官に敬礼して。軍司令官は顔も全然分からないわけです、暗闇で。それで敬礼をしてそのまま走って、飛行機に行って、それで飛び乗って離陸して、先に。それで上空で回っておって、次々上がってくる。それであとはもう援護していったわけです。ただそういうことを一連のあれですな。もう話をすることも全然、握手をすることもしないでそのまま敬礼して行っただけで。まあ今考えれば、あれが軍隊の状況だったと思うんです。

Q:有川さんが離陸して上空で待っていたら遠藤さんたちがやってきた。

そうです。下から上がってきて、上から見ていてですな。それで集まったのを見て、オルモックのほうに向かったわけです。

Q:そのときの状況を教えていただけますか?

そのときは雲上を飛んだわけです。ちょうど雲が湧いておりまして。それでレパーの手前の方で高度を上げまして。それで雲上を、3,500メートルだったと思います。高度は。それでずっと雲が満つるんです。それで下が全然、島も何も見えないわけです。それで2時間半ぐらい飛んで。大体2時間半ぐらいでオルモックに着くんですが、艦船攻撃を何回かやっておりましたから。2時間半たっても下が見えないものですから。するともう引き返すにしても、燃料が切れるといけないと思って。というのは、特攻隊のほうは片発。片一方の方に爆弾250キロ。こっちの方に増加タンク一つ。それで誘導の方は二つ落下タンクを積んでおりました。それでもう燃料が切れるといかんと思って引き返したわけです。雲上で。それで引き返してレパーの付近に来たときに、もう下がずっと天気が良くなって、雲が切れておりました。それで、あとは特攻隊の方は翼を振ってきてですな。それで下の方から行って、マルランで攻撃の態勢で。爆弾を落として。それで自分で飛行場に帰っていく。それを見届けてから私なんかはカローカンに帰ったわけ。

2回目の(出撃の)ときは、1回目終わってカローカンに着陸したときに、村岡戦隊長が、「午後は俺が行くよ」とこう言われたわけです。だから私は「もういっぺん行かせてほしい」と頼んでですな。それで私がまた午後出発する。それでカローカンを昼飯を食べたんですかな。昼飯を食べた覚えも全然ないんですけど。やっぱり同じ編成でですな。4機で上がって、カローカンを。そしてすぐ近くですから、特攻隊の基地は。そこの上空に行って、1,500メートルですよ。高度1,500で上をグルグル回って。それでそのうちに1機ずつ砂煙を上げながら、引きずって1機ずつ上がってきた。それで7機、下のほうで回って、集合したのを見てから、オルモックに向かったわけです。それでそのときはもうきれいに晴れておりましてですな。それでもう島も全部見えておりました。あそこのフィリピンのあそこの島の間の海を飛んで。確か3,500メートルだったです。高度は。あまり高くは飛べないです。爆弾を積んでですな。

それでちょっと行ったところは、輸送船が3隻と駆逐艦が2隻か3隻だったか。浮いているという感じだったですな。こう。動いているんじゃなくて、何か浮いているという感じだった。

Q:停泊しているような?

まあ停泊でもなくて、いわゆる何か浮いているという感じです。それでそれを見て、もうちょっといよいよ南に下がれば機動部隊がおるはずだと。いわゆる艦船が。軍艦とか航空母艦なんかがおるはずだと思って行きかけたところが、下から遠藤君がこう、下のほうからこう、すり抜けるようにしてこう、横を通っていった。それで見たところがこう、こちらへ、左手へ、こっちのほうに。ああっと、そのときにああっと思ったんです。その前はもうちょっと南へ下れば機動部隊がおるかもしれないと思っていたわけです。それがもう遠藤君が右下へずっとすり抜けて、手を振って。それで1機ずつ。あと6機が付いてきたわけだ。それで行って、その後はこう、追って行こうとしたところが、そのままこう輸送船に向かって横広の隊形でそのままずっと突っ込んでいった。ああっと思ったところが上昇したわけ。やっぱり予行をしたんだと思う。それでずっと上に上がって、またこう回ってですな。それで編隊をまた組んで。7機。それからまたこう来て、やっぱり西のほう。ちょうどもう3時半頃だったか。夕方。夕日を背に受けたような格好で横広になって。それで今度は横広になって、そのままそこへ。ああ、いよいよ突っ込むかと思って。私は遠藤君の、遠藤隊長の後ろのほうにおって行ったわけです。 それから、自分の僚機のことなんかも全然もう見る暇がなかった。ただ遠藤隊長の飛行機だけを。僚機はもう見えない。それで行ったところが、ちょうど飛行、風防を閉めていなかったと思うんですね。開けたままだったですよ。それで後ろのほうから風防のあれが、飛行帽がびくとも動かないわけ。じっとしたまま。それでちょうど突入する直前に私、引き上げて。それで高度を上げながら見た。それから他の飛行機も、特攻機も一斉に突っ込んできた。それでそのときにですな、どの飛行機がどこに突っ込んだのか分かりません。1隻の船にバーッとまっ赤な。それこそ深紅の光がバーッと。すぐに真っ黒い煙がもうもう噴き上がってきて。それからあとは2機だったんですかな。2機はこっち側の船の先のほうに水煙が、白い水煙がサーッと上がりましたから。

Q:それは命中しなかったっていう…

と思うんですけど。水煙がサーッと。すぐ船の向こうのほうです。3隻ずつですね。

Q:船を通り越してしまった?

通り越した感じ。それでそのうちに輸送船3隻は左回りだったか。こう旋回を。その前に、突っ込んでいくときにですな、茶色の、みかん色ですか。オレンジ色ですかな。服を着た船員。船の上でパラパラパラパラ海に飛び込むのが見えましたよ。

そのうちに黒煙がですな、下のほうにこう上がる。海のほうにもこう散っちゃってですな。それからもう黒い煙の中に、船が包まれるような格好になっちゃって。それで1時間ぐらいずっと見ていたんですよ。そのうちに僚機の、特操の私の大坪少尉。それがエンジンから黒い煙を出して。それでもうそれ以上はいかんと思って、それでセブ島を越して、ファブリカ(ネグロス島)の飛行場を目がけて。大坪少尉はやっぱりたどり着けないでファブリカの北の海岸のところのジャングルに突っ込んで逆立ちしました。それをこう最初見ていたんですけど、早く報告しなければいかんと思って、私だけ先に。それで後からヨサッペイが、ひ賊が火をつけて燃やしたんですよ。私は飛行場に頼んで救援に行ってもらったんですけど、もう間に合わなくて。まあそういう状況で。だから1時間ぐらいはずっと浮いとって。最後のあれ、船、海に沈むまで見ていないんです。煙に包まれて姿が、船の姿というのは分からなくなっちゃって。その状況で最後の戦果の確認に。そういうまあ状況でした。

Q:有川さんは、遠藤さんが突入する瞬間は見てなかったですか?

そうそう。その瞬間は見ていないです。上がるときに見たときに、どの飛行機も一斉だったですから。7機が一斉に突っ込んでいきましたから。遠藤隊長を中心にしてそのまま。だからもう全然見ていないです。誰がどこに突っ込んでいったか。上昇しながらこう、見たんですけど。

Q:突っ込んだ後に、遠藤中尉たちが突っ込んだ後、湾の様子というのはどう変わったんですか?

3隻の船が黒い煙を吐きながら左に旋回する状況は見ていたんですが、あとはもう黒い煙が海面をずっとはっておりました。その中にもう包まれてしまって。だからその後はもう姿は分からないわけです、船の。

Q:有川さんは基地に戻ってどういう報告をされたんですか?

まあそのままの状況で、すぐ基地に帰って、そこからもうすぐ私はマニラに1機だけ先に。それからナガイ少尉が分隊長でおりました。それに「後を頼む」と。大坪少尉のその状況をですな。戦死したかどうかも分からんものですから。その後は飛行場大隊に頼んだらそれをあれして。「こっちはもう先に報告に行くから」と言ってですね、先に1機だけでそのまま出発。燃料補給して。そのまますぐマニラへ帰って。カローカンに下りて、そのまま車で司令部に行って、直接軍司令官に報告した。見たものはそのままで。

Q:遠藤中尉が攻撃を掛けるところを途中まで一緒についていって、そのあとずっと上空でご覧になっていたわけですけど、そのときはどんなことを考えながら上空にいらっしゃったんですか?

船が沈むのを確認したかったんです。ただそれだけだったんです。船が沈むのを確認したかっただけで。もうそれ以外のことは全然念頭になくて。敵機のことなんかも全然考えませんでした。今考えたら。それから地上の戦闘がすぐ横の方で、オルモックのあのジャングル地帯で始まっているんですよ。そういうことも全然念頭にない。ただ、その船の状態を見続けるということで。まあいつ沈むかなと言うか。ことだった。

(戦闘機は)出てこなかった。もう本当に運が良かったと思って。敵の戦闘機が出てきたら、もうとても確認はできなかったと思います。もう到底。まあ落とされるのがやまやまだった。

Q:敵の戦闘機が出てきたら。

今考えてみたら。だから、どういうことだったのか。1機も見えなかった。それでその直前に朝、勤皇隊が出ているんですな。山本、同期生ですけど。そのときはもう全機援護したのが帰ってこないわけ。1機も帰ってこない。だからもう私の場合は、本当に天佑。今考えますと天佑だったと思います。敵機がおったら全然そういう確認はできなかったと思います。

台湾に帰りまして、それで私、2回特攻隊長を命じられて。1回はやっぱり龍潭、あそこの新竹のちょっと西側。北側になりますか。龍潭という飛行場があって、そこにいたときにですな。戦隊長に呼ばれまして、特攻隊長を命じられたわけです。それで、その時に行く準備をしておりましたところが、特攻隊長がまた免除になっちゃって。逆に今度は誘導と戦果確認の任務に切り替えられまして。それで桃園、宜蘭ですか。裏側の宜蘭の飛行場に行ったんです。そして最後に、ちょうど終戦直前、3日前に北伊勢に行って本土防衛の特攻隊長を命じられたわけです。それでそのときの感じは、もう来たかという感じで、ただそれだけで。特攻隊長を命じると言われたから、あ、来たかという感じだった。ただそれだけだった。

Q:沖縄戦の間は有川さんは何をされていらっしゃいましたか?

飛行機の授業と、それから訓練の責任者でした。未習教育。それとやっぱり3回ぐらい誘導、沖縄攻撃の誘導をしておりました。いっぺんスコールの中を強引に行きましてですね。それでそれこそ海面を水しぶきを上げるぐらい低く下がって、沖縄に行くときに。後ろを見たらいないわけです。もうみんな引き返しちゃって。それが宮古島に着陸してという状況。それから1回は、慶良間群島の上までは行ったんですけど、やっぱり天候不良で特攻機の飛行も無理だと思って引き返した。1回は暗夜、真っ暗闇に、暗黒の状態で沖縄に向かったんです。このときもやっぱり天気が、沖縄も見えないというような状態。だから3回行っているんだけど、失敗している。天候不良と。あとは飛行機の授業とか訓練とか、それから防空戦闘。台中の上空の防空戦闘。1回B25の攻撃をしまして。そこで師団参謀にこっぴどく怒られたわけ。

Q:何をしたんですか?

戦隊長がB25がですな、フィリピンから来て台湾を1周して帰っていくと。それを戦隊長が落とせと言うわけです。それで4機で上がったわけです。それで4機で待っていたところ来たんです。それを追い掛けて、雲の上に向こうが逃げたりするのを、雲の上に出て追い掛けたり。それでとうとうやっぱり燃料が切れて、私の方が。燃料が切れて危なく燃料が切れて不時着すると。台中に滑り込んで。それが一部始終師団に報告されて、監視長から。それで「戦隊長が、飛行機を温存するとは何事か」ということで、戦隊長がものすごく怒られたということを後で聞いたので。まあそんなことなんかもあって。まあ終わっていたんですな。主に飛行訓練が多かったです。それと台中の防空戦闘で。

Q:所属としては飛行第20戦隊のままですか?

そうです。最後まで。いちばん最後まで。

Q:飛行第20戦隊に若い搭乗員がいて、その訓練をしていたと。

そうです、そうです。フィリピンから帰ったら。フィリピンから帰りましたときは、確か4機だったと思います。4名。だからあとはフィリピンに。台湾に帰ってから補充して。主に特操1期とか幹候(幹部候補生)の人たちとか。それから少年飛行兵の大体15期クラス。20名ぐらい来たんですか。26名ぐらい。それからそれの未習教育、隼の。主にあれしておりましたから。だからまあ教育訓練と、それから飛行機のまあ台中に行ったり、屏東に行ったりして、飛行機をもらってきたり。それから防空戦闘に上がったりして、それで最後のころは宜蘭。裏側の宜蘭に行って、特攻隊の誘導を3回ぐらいしましたか。そんなうちに終戦になったということで。

宜蘭におりましたときにですな、海軍の特攻隊だということで、複葉の練習機、中練が飛んでいるのを見たんです。特攻隊だと言って。もうそれを見たときに、何で海軍は? という感じを持ちました。そういう感じで。ただそれだけ。何でああいう中練を特攻機に使うんだという感じはありましたですな。宜蘭のとき。まあそういう今振り返りますと、状況だったですから。やっぱりそういう、あの当時の状況というのは、理性で考えられない状況だったと思うんですよ。

何と言いますかなあ。あれを見たときに、もう終わったという感じですかな。終わったと。もう戦いは終わったという感じ。負けたという感じ以上にですな。もう負けたとか勝ったとかいう感じを越して、ああ、終わったと。何と言いますかな。もうそういう気持ちが湧いたです。まあもっと極端に言えば、人間の世の中じゃないような感じ。人間の世の中ではないような感じで。

Q:特攻をいくらやっても戦況は全然良くならないわけじゃないですか。それに対しては疑問とかそういうことは感じなかったですか?

疑問は持ちません。戦果自体が分からなかったですから。戦果自体がですな。ただ、特攻そのものは1回限りの攻撃ですから。その1回限りというのが疑問だったわけです。1回だけじゃなくて、何回も行かせたらいいじゃないかと。いわゆる艦船攻撃、をどうしてしないんだろうということはしょっちゅう疑問に思っていました。特攻隊は1回限りですから。だから艦船攻撃だったら何回でも行きます。

Q:有川さんの中では、特攻というのは一度きりで終わってしまうと言うのは抜きにして戦果を挙げている作戦だという認識はありましたか?

ありません、それは。ありません。

Q:それはどうしてですか?

レイテの艦船攻撃に行った同じ20戦隊の下士官から状況を聞いたりしましてですな。やっぱり難しいんだなと。いわゆる戦果確認というのは。だから戦果を挙げたかどうかということよりも、確認していないわけです、戦果を。それはもうはっきり聞いております。それから、いかに戦果確認というのは、敵機がおった場合にはいかに難しいかということですな。特にレイテ攻撃に行った者たちから聞きましたから。あの当時。下からの高射砲がすごかったとかですな。打ち上げてくるということで。それから敵機がおってですな。もうそれとやり合うのにも一生懸命だったり。だから戦果確認というのはほとんどもうできなかったということは、同じ20戦隊の下士官の人たちから耳にしたことがありましたから、フィリピンで。

Q:それだけ厳しいという状況。

そうですな。それで直掩というのを、自分が全部敵機の攻撃してくる弾を背中に受けるのだということまで心に決めたわけですけど。直掩という。それよりも戦果確認もできませんし。自分も撃たれて死んじゃうわけですな。

Q:それを守らなければいけない…

こうやって敵機のを背中に全部弾を受けるわけですから。直掩で。もう私は直掩というのは、そういう意味で捉えていたわけです。

Q:今から思えばですけど、どうしてそこまで自分を犠牲にしようというふうに思うことができたんですか?

それは直掩の任務ですから。任務達成のためにという。もうあの当時はとにかく任務達成ということしか念頭になかったです。もうどんな場合でも命令、任務を与えられたらそれを達成するのだということで。もうそのことしか念頭になかったわけです。

Q:特攻やるよりは通常攻撃をやるほうがいいじゃないかということは口にすることはできないことだったですか?

そうです。やっぱり特攻に行った人たちの心というのも考えればですな。まあ何とも言えない気持ちですな。特攻で行かれた人たちのことを考えればですな。批判するとか何とかという気持ちには全然。感じないですな。

だからまあ特攻の話というものはあまりしたくないという。多分特攻で行った人たちも、あまり言われたくないと思っているんじゃないかと思いますですな。

Q:言われたくないというのは。

多分。やっぱり特攻を命じられたときの気持ちというものを考えればですな。特攻隊の人たちのその気持ちというものが、やっぱりまあ何と言いますか。特攻隊員という名前にいつまでしてもらいたくないという気持ちが霊の中にあるんじゃないかと思っております。

Q:この先もどんどん次の世代に特攻というものがあってそこで亡くなっていった特攻隊員たちがいるんだということは伝えられていくと思うのですけど、次の世代にですね。有川さんは、そういう時代を経験された側からして、どういうふうに特攻隊員たちのことを記憶していってほしいですか?

まあ次の世代までということはどうかなと思うんですが。大体特攻隊というものを始めたときのいきさつとか、そういう状況からすれば。最後の突っ込んでいったときの気持ちというものを考えれば、やっぱりまあ極端に言えば静かにしてもらいたいということじゃないかと思いますですな。

Q:それは忘れることとは違うわけですよね? どうなんですかねそのへんは? いっそのこと忘れてしまっちゃったほうがいいということですか?

いやあ。そうですな。まあそれは人のさまざまな心の問題で。まあ私の場合は、もう忘れるじゃなくて、そのままにしてもらいたいという。まあ歴史にはただこういうことがあったという歴史には残るでしょうけれども、もうそれ以上のことはやっぱり。まああとは靖国とお墓で済ませてもらいたいということになるのではないかと思います。

出来事の背景出来事の背景

【特攻~なぜ拡大したのか~】

出来事の背景 写真 爆弾を抱えての体当たり攻撃、特攻。戦争の終盤、日本はこの特攻でアメリカ軍を迎え撃ちました。戦死者は、4500人あまり。その大半が、二十歳前後の若者でした。
 昭和19年10月に始まった特攻は、終戦までの間に急激に拡大して行きます。特攻が初めて行われたのはフィリピンでした。最初に体当たり攻撃を行う事になる特攻隊が編成された10月20日。アメリカ軍がフィリピン・レイテ島に上陸を開始。20万の大軍が押し寄せました。太平洋の各地で敗退を重ねてきた日本軍にとってフィリピンは最後の重要拠点でした。しかし、主要な航空戦力を失っていた海軍には、強大なアメリカ軍を迎え撃つ手段がありませんでした。状況を打破するために立案されたのが、特攻でした。その戦果は、予想をはるかに超えたものとなります。20日に編成された特攻隊の一つ、5機の零戦からなる敷島隊は、空母3隻に命中してうち1隻を撃沈。隊員たちの命と引き換えに大戦果をあげました。
 この結果を受け、現地の海軍航空隊では体当たり攻撃の継続を決定。フィリピンの基地からは連日、多くの隊員が出撃して行くようになります。

 沖縄戦には、日本軍が開発したさまざまな特攻兵器が投入されていきました。ボートに爆弾を取り付け、敵艦に体当たりする、特攻艇、「震洋(しんよう)」。船体はベニヤ板。敵の銃弾を浴びただけで沈没しました。1.2トンの大型爆弾に翼と操縦席を取り付けた、「桜花(おうか)」。搭乗員は、桜花とともに攻撃機で敵艦隊の上空まで運ばれ切り離されました。しかし、桜花搭乗員の多くは、敵艦隊の上空にすらたどりつけず攻撃機もろとも撃ち落とされていきました。

証言者プロフィール証言者プロフィール

1923年
鹿児島県(現・薩摩川内市)に生まれる
1939年
県立第2中学校を中退して、陸軍予科士官学校に入校
1941年
陸軍予科士官学校を卒業し、陸軍士官学校に入校。翌1942年、陸軍士官学校を卒業
1944年
第20飛行戦隊に配属され、10月に台湾沖航空戦に参加した後、フィリピンへ。特攻隊の援護や誘導に従事
 
12月、オルモック湾の艦船攻撃で被弾しネグロス島に墜落。台湾へ
1945年
台湾で終戦を迎える。戦後は自衛隊に勤務

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