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タイトルタイトル: 「過大に報告されがちな戦果」 番組名番組名: [NHKスペシャル]特攻 ~なぜ拡大したのか~ 放送日 2015年8月8日
名前名前: 生田 惇さん(陸軍航空隊 ラバウル航空隊 戦地戦地: ラバウル 満州(奉天)  収録年月日収録年月日: 2015年7月11日

チャプター

[1]1 チャプター1 陸軍航空隊へ  04:20
[2]2 チャプター2 ラバウル航空隊で偵察  02:13
[3]3 チャプター3 陸軍航空士官学校  02:29
[4]4 チャプター4 戦後、本にまとめた特攻史  04:06
[5]5 チャプター5 過大に報告されがちな戦果  04:07
[6]6 チャプター6 正直な意見は受け入れられなかった  03:31
[7]7 チャプター7 特攻に駆り立てられた日本  06:30

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番組名番組名: [NHKスペシャル]特攻 ~なぜ拡大したのか~ 放送日 2015年8月8日
収録年月日収録年月日: 2015年7月11日

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広島(陸軍)幼年学校に入って、(航空)士官学校に入るようになるよね。士官学校へ入って、何だろうな、そう、ズルズルっとこうね、将校になってしまったよね。うん。ラバウルというところにさ、ラバウル。ラバウル航空隊っていうのがあって、海軍が有名だけれども、陸軍に航空隊いちばん初めに行って、偵察ばっかりして最後までいたわけ。だから、ラバウル航空隊は陸軍の偵察隊です。だから、ラバウルについては大体僕なんかいちばんよく知ってると思うね。

Q:ラバウルどういう状況でしたか?

ラバウルっていいところですよ。とてもね。こう似てるところを言えば別府に似てますね。火山があって、入口だけこう・・・があって、その周りにこうずっとこう火山があって、火山の間にこう街があって。街の間にこう沼があって、沼にはこうハゼが泳いでいて、そいつがこう、岩の上に上って、木に登るようなハゼがいてね、やれ休んでってな、のどかなところですよ。ラバウルっていうところはそういう…。まあそういうところですよね。海軍がこう有名ですけどね、海軍偵察隊がないもんだから。偵察隊がないともう、司令部偵察機で行って、長距離を飛んでこう偵察が来る、偵察できる偵察っていうのは陸軍にしかなくって。陸軍しかないわけは、中国で作戦してるんだから、だから(航続)距離の長い偵察機が必要だったわけね。だから、だからその偵察機は、司令部偵察機って言って、軍司令部の偵察をしてたわけ。

Q:じゃあ上げてくる情報はどういう情報になるわけですか?

うーん。僕なんかこう、見てくるの大体こう、体勢は、ニューギニアばっかり、ラバウルからニューギニアばっかり見てるとこだから、ニューギニアしか見てないけれども、要するにこう海岸線と、川筋ですよね。川筋に、どこどこに物資を集積してあるかということぐらいのもんですよね。大体、空から見えるのはそのぐらいのもので。それが一体どのぐらいの速度でやってくるっていうのは、まあ、僕ちなみに・・・においては、逐一分かっていましたね、どの程度の兵力がどの辺、どの辺まで来ているというのを。

Q:飛行機はどういう飛行機で?

一〇〇式司令部偵察機。百式司偵というのは非常に速い飛行機でね。気に入った飛行機でしたよ。

Q:それでどういう任務に?

だから戦略偵察。

Q:というのはどういうことなんですか?

だからさ、どこに飛行場ができはじめたとかね、たいてい川をさかのぼってくるから川のどこどこに集積所があるとか、そういうことですよね。僕は偵察に行くとたいてい退却するようになるんだよね。退却せざるをえない状況を見てくるものだから。だからたいてい僕が行った後は軍隊が退却してる定めになっているわけだ。ジャングル越えて行かなきゃならんからね。簡単じゃないですよ。

Q:何年くらいにラバウルへいらっしゃったんですか?

ラバウルにね、2年半いたんだから、いちばんはじめごろから…

これ、これはずっと、何ていうの、戦争中、ずっとこれ、ぶら下げていた。ここがこんな重たいものよく下げていたと思うよ、バカみたいに重たいの。これは木の、ほら、非常にこうあるでしょ。きれいな飾りがついていますよね。だから、刀も非常にきれいなんですよ。

僕はね、あのラバウルというところに長い間飛行機、偵察隊で戦をしていたわけ。それで帰って、航空士官学校の副隊長に、教官になってね。満州に行ったわけね。内地でこう訓練ができないから、満州で訓練をしようと。満州広いですからね。燃料は、対ソ作戦というっていうのをするつもりだったから、燃料をみんなこう満州にこう集積してあるわけですよ。だから燃料はいくらでもあるから、満州で訓練しろということで、航空士官学校はここ全部まとめてね、満州へ行って、満州で訓練をしたわけね。

満州へ行って、そのころはまだ特攻の話はなかったかなあ。うーん。記憶が定かでないですねえ。うん。満州へ行って、満州で…。

Q:満州へ行かれたのが昭和何年ぐらいですか?

うん。

Q:(昭和)18とか19年とか?

昭和20年には終戦になるんだよねえ。その前の年だねえ。19年かな。行ってすぐですよ。

Q:うん。

行って、訓練始めたら、訓練始めたらソ連が入ってきて、それ大変って形で。さあ帰れってわけだね。

Q:これは特攻隊についての本ですね。

そうそう。これ、何か戦史室というところにこう勤務することがないと分かんないね。こういう本、書くことになりましたね。

Q:どうしてこういう本を書くことになられたんですか?

戦史室というところ、生の資料がね、いっぱいあるわけ。倉庫からこうずーっと奥までこう倉庫があって、その倉庫の中からこう資料を見つけ出してはこう、物語を組み立てていくわけね。結局この本もそういうことなんですよ。あのう、戦史部の資料をこう探し出して、その中からいろんな、あ、これは残しとかなっていうのをね、拾い出してこう書いたりですね。

Q:何か特攻隊とは接点があられたんですか?

僕自身はありませんね。

Q:うん、うん、うん。

戦史室にいて、その、これだけは残しとかなきゃならない、いかんだろうと思ってこう、資料をある限りこう集めて、それ物語にしたのがこの本ですね。一応書くことは全部書いたと、そんな気がしますね。知っていることは。

Q:でも特攻隊って、非常に研究されてる方少ないし、まとめられてる方も結構避けられてると思うんですけど、やっぱり難しいテーマだと思うんですね。

うーん。まあ、嫌なんでしょう。誰も書くのはね。そういうその、言うならば陸軍航空の恥ですよ。恥をこう全部、全部こう背負って、それでこう頼りにしてくれたのは特攻ですから。ねえ。これほど何て言うかその、犠牲を背負って亡くなった人たちはいないわけ。だと私は思ってますがね。だから、そういう人のことはどうしても書いとかなきゃいかんと思って。

Q:陸軍航空の恥だとおっしゃいましたが。

はいはい。

Q:それはどういう意味ですか?

うーん。部隊というのはね、行って戦って帰ってくるもの。いくらの人が生き残って帰ってくることがいちばん大事な話で。全部亡くなってしまったら何にもないわけですよ。特攻隊は全部亡くなるわけだから。そういう戦をしたらね、もともとそういう戦争をすべきものではないわけ。軍隊というのは、戦って勝って、敵をやっつけて帰ってくると。そうでなきゃいけないわけね。これはもう帰ってこれないわけだから。これは軍の本当の姿じゃないですね。だからそういうことは、そういうことはやってはいけないという見本のようなもんですよ。

Q:よくこの本の中にもそうなんですけど、特攻隊の戦果は過大に評価されがちだと、当時ですね。それはどうしてなんですか? どうしてそうなるんですか?

そう見えるんですよ。大体が。

Q:そう見えるっていうのは。

大体ね、飛行機が船を沈めるということは非常に難しいんですがね、大体、飛行機がぶつかったらたいてい沈んでしまうように見えるもんですよ。見えるけども、大体こう甲板で燃えてしまったりね。ぶつかって相手の船が沈むということは非常にまれなんだけれども、それがまれだって、とは言えないじゃない。大体。ね。みんなその成功したというふうにこう、ある程度成功はしてますよね。成功はしてるけども、沈みはしてないと。又…帰ってくると。だからその戦果過大に見積もられるんでしょうね。結局は、その上司としても、ああ、よくみんなやってくれたというふうに思いたいんだ。そういうふうに報告するもんだから、過大報告になりますよね。大体が。

Q:沈んでないかどうか分かんなくても、沈んでないっていうふうには言えないと。それはどうしてなんですか?

うーん。上官、上官としてはね、部下の功績をなるべくたくさんにしたい、したいでしょう。その遺族に対しても、お宅の息子さんはやってくれたと、いうふうに言いたいしね。本当はそう思って言ってるんだと思うんだけれども、実際そんだけ沈んでたら、あのう、とっくに勝ってますよ。ねえ。

Q:実際に直掩(えん)だったり、戦果確認機だったり、あのう戦闘機が付いて行った場合に、そこはどうしてこう、その時点の報告からしてやっぱり過大なわけですか?

うん。いずれにしても過大だと思いますね。

Q:その上司に報告するって、今、先ほど上司、上官の方の心情をおっしゃってくださいましたが、報告する側としてはどう、どういうふうな心情なんでしょうかね?

報告する側は何て言っても、報告をすべき人はみんな死んでるわけだから。ね。こう、特攻っていうのはこう、みるみる死んでるわけだから、だから、これほど不確かな話はないはずですよね。

ラバウルから帰って、参謀本部に行って、報告したことがありますよ。「我が国の飛行機が優秀ですから、敵に落とされないことがあっても、敵より遅いから、ほとんど落とすことができません」っていうふうに言ったわけ。陸軍少尉としてはね、誠に明快な話で、参謀達はそうかそうかって言って話を聞いてくれたの。その話を課長の所へ行って話してこいと言われたんで、課長の所へ行って話してきたの。したら、「馬鹿者」って言われて、「天皇陛下の飛行機に対して何たることを言うか」って言われて、目の前が真っ暗になってね、「ハイ」って言って帰った。これはダメだなと思ったね。

Q:なかなか正直な報告っていうのは難しいんですね。

難しいですね。非常に、報告というのは陸軍少尉としては、まれにみる詳細な報告だったと思いますよ。どこで何機何をしたっていうことを整理してあって、それをそのまま帰って来て参謀本部で話したんだから、正確な話をしたはずなんですよ。したら、「天皇陛下…に対して何たることを言うか」って、参謀に怒られて、目の前がくらくなってね、そのまま、「ハイ」って言って帰って、吉祥寺のおいの所へ行って、1週間ほど寝込んでしまって。本当に、1週間ぐらい、寝込んでしまいましたね。

Q:戦後、あんまり特攻については皆さん、お話になられなかったんですかね?

うーん、そうだろうね。

Q:あんまり思い出したくない。

思い出したくない話なんですよね。

何だか歯切れの悪い文章だな。しかし、しょうがないわね。

Q:どうしてしょうがないんですか?
歯切れの悪い文章だなとおっしゃったので、どうして?

うん、断言ができないからでしょうね。

Q:それは断言できないのはどうしてですか?

戦果というのはそんなものですよ、断言できないですね。

Q:生田さんは特攻に対してどのような思いをお持ちですか?

うん、どのような思いというか、結局、悪いことしたなということ、気の毒だったなというような気しかしないですね。それで、特攻で戦局が挽回できるかといえば、まずできないとは思いますしね。それしかできないという、陸軍の航空もそうだけれども、海軍航空も大方同じじゃないのかなと思いますがね。

Q:いちばんの特攻に対して生田さんが考えられる、特攻のいちばんの悲劇って何だと思われますか?

やっぱり流行というかね、あの周りのこう空気に押されて、心ならずもという兵士が必ずいたと思うのね、それが気の毒だと思うね。あと、実にたくさんあると思いますが、南九州から出ていった人だよね。

Q:やっぱりそういう流行というか、空気みたいなものがあったんでしょうか?

そういう空気があったわけね。要するに日本男児という、そういうふうな空気がね。どうかな、僕は航空士官校の教官で満州へ生徒を連れてね、満州へ行って、満州で飛行訓練をして、いざとなればそれは連れて行って連れて帰って、という途中だったものだから。もう、しかし僕なんかは幸せだったと思うね、生徒はみんな優秀だったしね、事故もなくて。

Q:生田さんがこの本をまとめられて、いろいろ調べられて、いちばん最後に特攻で、特別攻撃隊という、特別攻撃ということに関して、いちばんこう怒りを覚えた部分はどこですか?

怒りは覚えていないですね、悲しい、ひたすら悲しかっただけ。

Q:ひたすら悲しかったというのはどういう部分に対して悲しかったですか?

ともかく、とにかく従え、まるっきり日本としてなかったということがね。何ていうか、世論はそれを支持しているわけでしょ。そういうことがね、ほんとにあっていいことかというのは、ほんとに、まあ、今から考えるとゾッとするような感じだね。

戦争というのはそういうふうにみんなを狂気にさせてしまうわけだから、そうなると思いますけどね。どこの紛争地でもそうだけれども、みんなまともに考えたら、何、考えているのって、あんた、ちょっとどうかしているんじゃない?と言いたくなるぐらいだけどね。だけど、それが正気なんだからしょうがないじゃない。

Q:70年たちますが。

そうですね。

Q:改めて特攻って何だったと思われますか?

ん?うん。一面で言えばさ、日本人の魂の叫びだと思いますけどね。日本人の魂というか、日本人の誇りというかね、そういうものを守ろうといったときにいちずに守ろうとしたという感じだと思いますね。

出来事の背景出来事の背景

【特攻~なぜ拡大したのか~】

出来事の背景 写真 爆弾を抱えての体当たり攻撃、特攻。戦争の終盤、日本はこの特攻でアメリカ軍を迎え撃ちました。戦死者は、4500人あまり。その大半が、二十歳前後の若者でした。
 昭和19年10月に始まった特攻は、終戦までの間に急激に拡大して行きます。特攻が初めて行われたのはフィリピンでした。最初に体当たり攻撃を行う事になる特攻隊が編成された10月20日。アメリカ軍がフィリピン・レイテ島に上陸を開始。20万の大軍が押し寄せました。太平洋の各地で敗退を重ねてきた日本軍にとってフィリピンは最後の重要拠点でした。しかし、主要な航空戦力を失っていた海軍には、強大なアメリカ軍を迎え撃つ手段がありませんでした。状況を打破するために立案されたのが、特攻でした。その戦果は、予想をはるかに超えたものとなります。20日に編成された特攻隊の一つ、5機の零戦からなる敷島隊は、空母3隻に命中してうち1隻を撃沈。隊員たちの命と引き換えに大戦果をあげました。
 この結果を受け、現地の海軍航空隊では体当たり攻撃の継続を決定。フィリピンの基地からは連日、多くの隊員が出撃して行くようになります。

 沖縄戦には、日本軍が開発したさまざまな特攻兵器が投入されていきました。ボートに爆弾を取り付け、敵艦に体当たりする、特攻艇、「震洋(しんよう)」。船体はベニヤ板。敵の銃弾を浴びただけで沈没しました。1.2トンの大型爆弾に翼と操縦席を取り付けた、「桜花(おうか)」。搭乗員は、桜花とともに攻撃機で敵艦隊の上空まで運ばれ切り離されました。しかし、桜花搭乗員の多くは、敵艦隊の上空にすらたどりつけず攻撃機もろとも撃ち落とされていきました。

証言者プロフィール証言者プロフィール

1922年
佐賀県に生まれる
 
1941年
広島陸軍幼年学校を経て、陸軍航空士官学校(55期)を卒業
1942年
独立飛行第76中隊付となり偵察任務に従事する
1943年
飛行第10戦隊付となり偵察任務に従事する
1944年
陸軍航空士官学校生徒隊付となり、満州(現・中国東北部)へ
1945年
(終戦時大尉)戦後は、防衛研究所戦史室で戦史叢書の編さんに関わる

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