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タイトルタイトル: 「夜間出撃で帰路喪失の恐怖」 番組名番組名: [NHKスペシャル]特攻 ~なぜ拡大したのか~ 放送日 2015年8月8日
名前名前: 坪井 晴隆さん(海軍特別攻撃隊 戦地戦地: 日本(鹿児島)  収録年月日収録年月日: 2015年6月7日

チャプター

[1]1 チャプター1 芙蓉部隊  05:21
[2]2 チャプター2 決死の体当たり攻撃  04:00
[3]3 チャプター3 破り捨てられた志願書  02:47
[4]4 チャプター4 特攻拒否の夜襲部隊へ  11:07
[5]5 チャプター5 夜間攻撃の難しさ  04:08
[6]6 チャプター6 事故  06:14
[7]7 チャプター7 沖縄戦の劣勢を知って  05:08
[8]8 チャプター8 帰路を失って直面した死の恐怖  12:43
[9]9 チャプター9 未遂に終わった玉音放送後の決起  05:17
[10]10 チャプター10 解散命令に涙した部隊  06:05

チャプター

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提供写真提供写真

番組名番組名: [NHKスペシャル]特攻 ~なぜ拡大したのか~ 放送日 2015年8月8日
収録年月日収録年月日: 2015年6月7日

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Q:坪井さんは?

これです。

Q:こちらの方ですか。

これが芙蓉(ふよう)部隊です。編成されて第1次ですね。沖縄戦を明日から攻撃するというときに、今からそういう大きな戦闘をやるときには、こういう写真を当時撮っていたわけですね。それからもうボンボン死んでいったから、写ったその日に亡くなった人もおるしですね。

Q:坪井さんは? この中では・・・

これです。

Q:真ん中にいらっしゃる。

元気でいちばん張り切っているときです。もう行くぞって、これに選ばれたときも感激だったですね。こうやって行ったですよ。うれしかったですよ。もう。今の人から言うと、もう死ぬわけですからね。もう大きな戦闘の中に。だけどその中に行く部隊にトップで選ばれたというときの感動というものは、もう身の毛が立つみたいな喜びだったですね。信じられないだろうと思いますけどね。

Q:選ばれたという、そういう気持ちで、選抜されたんだという・・・腕を認められたと。

それがもういちばんにあったと思いますけどね。あの「彗(すい)星」(艦上爆撃機)っていう飛行機は非常に新しい飛行機ですばらしい飛行機だったですからね。それに私は芙蓉部隊ができる前から飛んでいましたから。その経験を買われて、この1次部隊の中で階級も若いし、年齢も私はこのときはまだ4月だから19歳になったばかりだったですね。もううれしかったですね。こうしていたですよ。私より古い先輩たちが、彼らは私たちよりも古いんだけど、古いから乗っていた飛行機が「月光」(夜間戦闘機)とか言って、当時生産も中止していたみたいな古い型の飛行機のパイロットが多かったわけ。私は比較的早くから「彗星」に乗っていたものだから、その人たちを差し置いてこれに選ばれたからですね。もう本当に今の人たちから言うと、「何で戦争に行くって言うのに、喜んでこんなにしたんですか?」なんていうことを聞かれる。こういう対談の中で聞かれたことがあるんです。「本当ですか?」って言うから、もうそのときの気持ちは分かってもらえないと思う、かもしれませんけどね。こんなにして行きましたね。

Q:この写真に写っていらっしゃる方の中で何人ぐらい戦死されたんですか?

もう半分ですね。半分。3分の2ですかね。この人が有名な美濃部正という芙蓉部隊を編成した人なんです。

Q:美濃部隊長ですね。

この人は、131空(航空隊)って言って藤枝の基地の飛行長だったから、司令の代わりに出席してですね。その席上の中で、非常に申し訳ないけれども、自分の隊は特攻隊にはなさん、とそこで言われたっていうことですね。それはもう私たちもご本人から聞きました。「おまえたちを俺は特攻では絶対殺さんぞ」とおっしゃったのは今でも覚えています。とんでもないことを言われるなと思ったわけ。当時私たちも特攻というのは当然のものだと思っていましたからね。だけども「俺は貴様たちを特攻では絶対殺さん」とおっしゃって、「その代わり俺の訓練を厳しいけれども従ってこい」というようなことをおっしゃって。だからこの人は特攻には全然、うちの隊から出されなかったです。

11月1日頃だったと思うんですけど。司令がさっき言われた小園司令(302海軍航空隊司令)ですね。小園さんが「フィリピンでこういう攻撃をやるようなところまで来た」とおっしゃって、「おまえたちの中で自分のうちのことを考えたり、自分の意思で誰にも相談することはできないので自分で考えろ。そして、国のために特攻で身を捧げてくれるものがいたら、志願してくれ」だったんです。「志願せよ」じゃなかったですね。「志願してくれ」っていう我々に対してお願いみたいな言い方をされたから、今でもそれ印象に残っておりますね。

Q:それを聞いたときはどんなお気持ちでしたか?

もうやっぱり寒気がしたですね。飛行機と一緒に。当時はもうフィリピンにいる航空兵力そのものが少なかったから、20機、30機ぐらいのゼロ戦が行っても、何百機というアメリカ軍の飛行機の前ではもうバッタのごとく落とされるわけですね。だから100機行っても、その中で敵に到着するのは10機にも満たないぞという状態の中だったですからね。そういう戦法を採られたのだと思いますけど。

Q:寒気が?

ええ、それを聞いたときに、もう打ち震えましたね。ああ、こういうところまで来たのかと。そういうことがフィリピンでやられたということを聞いたときにですね。自分自身で、戦友らとそれを話したことはない。みんなはやっぱり感じただろうと思いますけどね。おおっとそのときは本当に、足がガタガタ震えましたね。

Q:それは、ガタガタ足が震えるというのは、どういうお気持ちなんですか?

言葉ではちょっと言い表せないけれども、感動ですね。ああ、こんなことをやる搭乗員がいるのかって。まだ厚木にいるころですからね。年は同じぐらいですよ。フィリピンに行っている人たちは。戦っている人たちもですね。ちょっと上。一つか二つ、上でもそのぐらい。二十歳になったかならないかぐらいの人たちが、あの敷島隊の中でも19歳の人がおります。だからもうそのときはやっぱり、感動の打ち震えだったと思うんですね。そんな。あの。パイロットがいるのかっていう思いですね。想像もつかないようなやっぱりことを私たち、聞かされたから当然だったと思う。もう感動しました、本当に。

自分だけで考えて、戦友とも相談することはできない。自分だけで考えて身を捧げようという人間がいたら、今晩の12時までに申し出よって。自分の直接の上司のところに願書をですね。だからあのときはまだ私は海軍の飛行兵長だったからですね。坪井晴隆って書いて、荒木さんのところに持っていった。そうしたらもう荒木さん、もう、おお、持ってきたかっていう期待とは裏腹に、すごい剣幕で怒られたんです。

「坪井、今日司令は何とおっしゃったか。後顧の憂いのない人間とおっしゃったじゃないか。貴様は後顧の憂いがない人間じゃないだろうが。」もう家族構成からその人たちは人事の面から荒木さんは知っていらっしゃるからですね。お母さんはどうするんだっていう、その母っていう言葉を荒木さんが言われるのと一緒に、ボロボロっと体を打ち振るわせて突然に泣かれたわけです。そして私ももう、思いを込めてその願書を、母のことなんかを考えながら書いて持っていっているから、私ももう精いっぱいの気持ちでいて、荒木さんのところに出したんですよね。

「貴様が死んだらお母さんはどうするんだ」とおっしゃって、そのときに母という言葉を聞いたときに、私も荒木さんの涙を見ながら、もう意味もなく悲しくなって。悲しいって言うよりも、あのときの涙は何だったんでしょうかね。泣きましたね。そうしたら荒木さんも、2人で泣きましたよ。あれはもう生涯、もうあとわずかですけど忘れないことだったですね。ただ、「おまえは行くな」とおっしゃって。「貴様が言ってきたって俺はやらん」って言って、そこで破られたわけです、願書をですね。そして「行くな」と。「特攻には行くな」とおっしゃって。

まだB29に会敵したっていうのは1回だけですね。まだ彼らももうおそるおそるの日本本土爆撃を開始するんだから、単機で1万2,000メートルぐらいの高度で、バーッとあれ、写真偵察か何かで来たんだろうと思うんですけど。それが初めて11月。(昭和)19年の11月か何かの、我々が進級式の日だったから、ああ、11月ですね。1日か何かに。記念日の祝典が、我々が練兵場であったときに、高度かすかな、白い銀翼の飛行機が「敵だ」っていうことで見上げたときに、1機通り過ぎて。そのときに初めて私は敵に対した、会敵だったですね。初めて見たアメリカの飛行機だった。そのときはまだ祝典だったから、厚木から1機も上がっていなかったです。

Q:通り過ぎていくのを、そのときは・・・

だからそのときに命令が出て、もう式典は急遽解散になって、それから「上がれ」ということで、もう「ゼロ戦」「紫電」「雷電」というような、「月光」もガンガン離陸を始めたわけです。だけどももう1機だけあれが高度7,000~8,000メートル取るまでには、B29は大阪から九州方面に通り過ぎていった後だっただろうと思うからね。

Q:とても追いつけないでしょうからね。

そのときは会敵はなかったです。それからもういよいよ臨戦態勢になっていったわけですね。我々に対しては、「彗星」がどういう任務を、戦闘機隊だけの302空でいる価値があるのかって言ったら、与えられた任務が今度は対空哨戒だったですね。対空哨戒というのはよう撃と、急遽「彗星」にも前方に、エンジンの前から出ているのは2丁ですからね。7ミリ7の小さい普通の機関銃ですので。だからB29にはこれではもう7ミリ7ではどれだけ撃ち込んでも落とすことはできないということで、20ミリというのは弾がこのぐらいあるわけ。だからそれが当たったら、飛行機でも命中したらさく裂するわけですね。だから1発でも当たればいい。だから彗星にも小園さん特有の斜め銃を付けて、夜戦として偵察員がおるからね。月光と同じで、月光よりも速いし、高高度が取れるから戦闘機隊を作れということで、彗星夜戦ができ上がっていったわけです。

隊長が報告が終わって、「異常ありません」って報告したら、「坪井」っておっしゃるから行って、「転勤命令だ」って。「俺はもうやりたくないんだけど、命令だからしょうがない」と。1人。そのときに812っていう飛行隊がフィリピンからボロボロになって藤枝に帰ってくるわけですね。901(飛行隊)は早く帰ってきてから、やっぱり同じ彼らも月光隊だったらしいんですけど、美濃部さんがそのフィリピンから帰ってきた夜戦隊というものを、美濃部さんが全部引き受けられたわけ。藤枝でですね。藤枝をどうして美濃部さんが基地にされたのかというようなことも、もういろんな本の中に出ていますから今日は話しませんけどね。ただ私は、命令。転勤命令は「藤枝に行け」と。静岡の藤枝なんて聞いたこともないような名前。新設の飛行場ですからね。やっとあそこに行って入ったところが812飛行隊。それでそこに三つの飛行隊を束ねて美濃部さんがおられて、そこで初めて対空じゃなしに、地上攻撃をやるっていう美濃部さんの方針が我々にも説明されて。だから対空じゃなしに、地上の艦爆(艦上爆撃機)としての任務を、夜間攻撃として与えられたわけです。それが芙蓉部隊の発端なんです。

この写真を写したのが、(昭和20年)4月1日。自分の誕生日ですからね。4月1日というのは記憶にあるわけです。それでこれが芙蓉部隊として初めて沖縄戦に参加するために美濃部さんが急遽出された1次の隊員です。鹿屋です、これ。それで美濃部さん自体も、「こんなに早く米軍が沖縄に来るとは思わなかった」って。だから「3か月ぐらいはおまえたちをもう少し訓練したかった」っていうことを我々に言われたですもんね。だから、夜間戦闘機なんかのために、私も厚木で彗星夜戦に乗っていましたからね。そのために私は抽出されたんじゃ(ないかと)、芙蓉部隊に美濃部さんが。美濃部さんは飛行長だったですから。

それで彗星ならばまだおまえのところにやる飛行機はあるというようなことを美濃部さんが言われたから、美濃部さんはもうそういうところは、「よし、じゃあその彗星をもらおう」と言って、「俺が作り上げて」言って、そういうような性格の人だったですからね。だから我々をやっぱり藤枝に引き受けられたんだと思いますよ。901(飛行隊)とか804(飛行隊)とか我々の月光しか乗っていない812(飛行隊)なんかをですね。

Q:そういう夜襲というか、夜、敵の基地を攻撃するんだと、そういう部隊なんだと、聞かされときは坪井さんはどんなお気持ちでしたか?

私はね、もう「やった」と思いましたね。なぜかというと、この中に彗星に乗ったやつがいないんですよ。誰もいなかったんですね。

Q:自分の隊の中で。

ええ、隊の中で。だから私はもう、ここに行ったときに、宝物みたいに、たかが兵長の私がですよ。徳倉(戦闘812飛行隊長)さんやら、隊長なんかが、彗星を集めるのに、「おい、木更津に飛行機がある、取ってこい」とかですね、「岩国に飛行機があるから取りに行ってこい」とか。その飛行機の空輸に私はあちこち。もう本当に空輸ということでよそに行くと、もう自由なんですね。よその部隊に行くんですからね。何もなくて、そして出張手当をもらうんですよ。自分の給料以上みたいな。給料ももらうしですね。行った先ではもうそこの隊員じゃないからもう自由なんです。だから、2~3日飛行機のテストをやったりして、時間的な余裕もあるわけですね。そういうような飛行機を取りに行くときには、予備学生の中尉の人なんかを偵察員として、その人の指示で行くというようなあれが取られたんでしょうね。だから私たちは喜んで飛んでいって、飛行機を集めるというすてきな、ええもう時間をたくさんもらいました。

Q:これを見ると、結構皆さん士気が旺盛なように見えるんですけど、このときの隊の雰囲気というのはどんなでしたか? 4月頭の沖縄攻撃が始まる直前の。

私はもう、この中では私がいちばん張り切っていたみたいな。もういちばん若年のくせに、私は真ん中でね。みんな写真撮るから入れって。こういうポーズを取れっていうような命令が出たときにね、誰も行こうとしないから、私はもうそのときはうちの中では俺しかいないって。彗星乗りだっていうようなのぼせたところがありましたからね。

Q:夜間に飛ぶことっていうのはどれぐらい難しいことなんですか?

もう、第一、地面が見えないでしょ。高度が分からないわけ。あとは夜間で高度計があるじゃないかって言われるけど。真っ暗闇になったら高度計も・・・、腕時計の夜光、夜光でしてあるけど、あれもやっぱり座席灯を照らさないと操縦者にははっきり分からないわけです。座席灯とそれに照らすと今度、操縦者自身が外が見えないわけですね、幻惑されて。もう消してもその幻影がずっとしばらくありますからね。とてもつけたままでは風防があるでしょ。風防に反射したりするから、つけて飛ぶことはできない。だからもうほとんど私たちは、座席灯っていうのは使ったことがないです。ただ、薄くですね、自分の操縦に邪魔にならないように、薄くただ羅針儀分かります? 360度のコンパス。コンパスだけは、コンパスと昇降度計ですかね。水平儀なんかまでぐらいはぽっと見えるぐらいまでに絞りに絞って飛んだりしていましたけど。ただ沖縄に行くときはね、その光さえ「消せ」と言われた。だから翼端の赤と青がついて、上には編隊灯っていうのがつくようになっているわけですね。すると尾翼に尾灯っていうのがつくようになっている、それも全部消しながらの飛行だったですからね。光のあるやつは、光って動くやつはみんなアメリカの夜間戦闘機だという、我々に対する教育もあったし、我々もそれを見ながら、アメリカの夜間戦闘機をとにかく星空の中で。天気のいいときは満天の星でしょ。もう南方に行くに従ってもう本当にね、それは見事な夜空になるわけですよ。天気のいい日は。その中に動く、少し赤みがかった電気ですね。蛍光灯みたいじゃなしに、ちょっとアメリカの飛行機は尾灯・翼灯なんかが黄色みがかっていましたからね。星とは違う色が動くのはアメリカの夜戦だということで、それを一生懸命見つめながら、計器なんか後ろの彗星の予科とか、偵察員が操縦員じゃなしに、偵察員が何度、何度って言ってから、行動とか姿勢が悪かったりしたら、偵察員が教えてくれるわけ。それがもうゼロ戦がやっぱり夜間に、単座戦闘機が飛べなかった一つの理由ですけどね。我々はやっぱり偵察員が乗ったということは、この上ない力だったですね。

私が着陸する前に、帰ってきたら十何機かのゼロ戦が鹿屋の基地の上空を回旋しながら1機1機着陸しているところの出合わせたわけです。そうしたら、上空で私待っていたら、4月ですから、空気がものすごく乾燥していましてね。鹿屋の芝生の着陸した飛行機が全部、山のほうの掩(えん)体壕のほうに十何機か地上滑走していたわけ。その後塵が、赤土混じりの後塵が煙幕みたいに滑走路半分を隠しまくって、ボウボウと隠していたからですね。だけども、私もやっと帰ってきたから下りようと思って、自分が1旋回、2旋回、3旋回、4旋回ってやったんですね。離陸して1旋回、2旋回、3旋回、4旋回って。だから帰ってきたらもうすぐ着陸コースに入るわけですね。もう訓練時みたいに1旋回、2旋回なんて回らずに、判断を見て自分たちで下りたから、ああ、俺が下りるときには煙が風の強さで吹き抜けていくから、大丈夫だなと思いながら、私は最後の旋回が終わって下りたわけです。そうしたら、その中に着陸をやって、約100メートルか200メートル行って、その土煙がパーッと抜けたところにゼロ戦が1機かく座してた。失敗してですね。片方だけ。それでこう滑走路の方に片方だけ向けていた飛行機が、その土煙の中からパッと出てきたわけ。ワッと思いながら、もう自分の飛行機の脚を折ってもいいと思うような気持ちで、そのときはロケット爆弾を2発ずつ翼の下に、敵を見ずに帰ってきたからですね、積んでいるという自覚があったから、バーッと回したわけです。だけども残念ながら翼端が。ショックはなかったですけどね。パッと。あ、ちょっとかすったなっていうぐらいにポンとかすったみたいですね。私の翼の下をかく座した飛行機の翼がこう行ったわけです。だから私の翼端のタンクがそこで破れたわけです。それで破れたところにガソリンがぽろっと出たものだから、ライターと一緒ですね。あ、火がついたかな。ペロッと火を見たと思ったら、ワッと左翼、燃料が残っていたものだから、翼いっぱいに、左からだったと思うんですね。左からこうバーッと、私はこんなめがねをはめていたから良かったですけどね。ここを焼いたわけです。飛行帽をかぶっていますからね。これだけ焼いたわけ。そして飛行機を止めて後席を見たら、後席が空です。誰も乗っていない。こうして見たらもう約50メートルぐらい先のところで、バタッとこうして倒れられていたから、その原中尉が。あ、原中尉は俺よりも先に脱出されたなと思って、その人のところにかけていったら、もうここからこう。私、今思うとね、私よりも先に脱出したその原中尉が、どうしてあんな大きなやけどをされたんだろうかっていうのが、ずっと考えても分からなかったけれども、最近自分の考えで、パーンと破れたときに、私、後席の偵察席を開けていますからね。だからこうしてのぞくか何かされていたときに破れた。私の飛行機のガソリンが飛んで、火となって飛んで、その人の顔面にボーンと当たったのではないかと思う。そのぐらいひどいやけどをされていましたからね。だから私は翼の下にまだ2発ロケット爆弾を積んだまま、飛行機がボンボン燃え始めよるから、その人を抱いて逃げたわけですね。引きずりながら。そして伏せているところに救急車なんかが来てくれて助かったんですけど。その後ろの原中尉は、戦後まで海軍病院に入られて、昭和21年か何かに残念ながら、申し訳けないながら、その傷が元だろうと思うんですけどね。亡くなられたんです。

よし行って、もうとにかく沖縄から米軍をたたき出さなきゃいけないっていうのが、1回目に出ていくときの気持ちだったですけどね。2回目に行くときは追い落とせないというあれがあるでしょ。落とせなかった。だから行ったときには、何ですかね。一応もう落ち着いたみたいな雰囲気だったですね。もうそこで米軍の強さというものを思い知らされたっていうのが、やっぱりその姿になったんじゃないかなって、今思うと思いますね。

もうどうしようもないなっていうのが、力の差を見せつけられたっていうのが、事実じゃないでしょうかね。私もそう感じましたから。

私が行ったときのその2回目の隊員たちも、その雰囲気の中で、「よう、今来たかよ」って。「また来たかよ」っていうような感じで、本当に沖縄戦は一応もうどうしようもないところに落着していたっていう感じですね、今思っても。だから私たちも、そのムードの中におのずから巻き込まれていったっていう。

Q:ずっと攻撃を繰り返されていたと思うんですけれど、いくらやっても搭乗員はどんどん死んでいく、でも戦果がなかなか上がらないんじゃないかという?

私たちは戦果確認ができないわけです。夜間攻撃でしょ。だから戦後もどんなして、聞かれるんだけど、当時我々が帰ってきて、飛行場しかもう目的はないわけですね。船は見えないです。艦船は攻撃は夜間だから当然できないです。だから飛行場だけは分かるわけですね、滑走路とか。もう自分たち、頭の中に沖縄の地図が刷り込まれていますからね。この地形で行って、ここからどのぐらい行ったらここが中飛行場。こっちが北飛行場、どこ飛行場、こっちが伊江島っていうことは、もう自分たちの頭の中に刷り込まれていますから、地図は見なくても分かっていたわけですけどね。そういうもう一応落ち着いたような雰囲気で、1回目に鹿屋に出ていったときのようなものではもうなかったですね。

それで出ていった隊員たちも、3飛行隊、準隊員も初めて戦場に出るというような隊員も多かったし、それから一般の民家にそれぞれ飛行隊別に宿を借りてから暮らしたっていうこともあってですね。もう2回目に出た私たちもその雰囲気の中に巻き込まれて、ああ、どうしようもない中に行ってしまったっていうのが現状で。もう鹿屋のときの殺気立った「行かなきゃ」っていう気持ちが感じられなかったですね。だからあとはもう、九州に来るやつをここで待ち受けるしかしょうがないっていう雰囲気だったのではないかなと。私自体がそんな感じになっていったので。沖縄はその時点で軍が放棄してしまっているからですね。そのムードっていうのは私たちにまで渡ってきているわけです。沖縄を取り返さなきゃいけないっていうムードは、もう全然感じられなくて。あとは九州に、アメリカが来るのは九州だということで、今度は九州防衛のほうに走らなければならないというような状態だったと、今振り返るとですね。

奄美大島ですか。あのあたりで、そのときはもう絶対に夜間戦闘機だと思ったんですね、アメリカの。だってその、尾灯のピンクが、我々が一番警戒するピンク色の尾灯をつけた飛行機がすれ違って、私も見つけて、後ろの偵察員も、「おい、夜戦だ」というようなことで。私の方は、彗星はレーダーを積んでいないからですね。レーダー射撃というものができないわけです。するとアメリカの飛行機はレーダーを積んでいますから。レーダー射撃ができるということを、我々は美濃部さんからも教わっていましたからね。もうアメリカは、アメリカの夜間戦闘機はレーダーまで積んでいるらしいと。だからレーダーに照準を合わせれば、こっちの飛行機をね、目認できなくても射撃をすることができるらしい。だから早めに動く翼灯なり尾灯を、動くその光があったら早く見つけて、それを用心して飛べというのが我々に与えられた教育だったんですね。

それによって私は、奄美大島のところで、私も見つけたし、後ろの偵察の平原上飛曹も「坪井、夜戦じゃないか」っていうことで、もう捕まったらいつこっちも銃撃を受けるか分からんでしょ。だからもうこんなばかみたいな戦闘はできないと思って、それからもうバーッと、あのときは6,000メートルぐらいで。4,000かな。酸素マスクははめなくてもいい高度と言ったら、大体6,000メートルぐらいまではほぼ私たちは酸素マスクを付けなかったですものね。4,000、5,000~6,000は。だからそのあたりの高度で私は行くのがいつも、行くときは飛んでいたわけです。それで沖縄に近付くに従って、高度を上げたりとか、低空に下げたりとかですね。レーダーを避けるには低空が一番なんです。だからそこで低空にしたわけですね。すると、後ろの偵察に「高度計だけ読んでくれ」って言って、後ろの平原上飛曹に頼んで、飛んで。あのときにずいぶん怖くてしょうがないものだから、どこから撃たれるか分からないという思いがあるから、レーダーから飛行機を隠したいというのは、我々が美濃部さんたちから敵夜戦に対する避退法とかですね。敵の夜戦の攻撃はこういうふうにするらしいから、そのためにはどういうふうに避退しろとかいうようなことは、ずっと藤枝にいるころから教わるわけですね。だから低高度にして行っているうちに、私自体も後ろの偵察員も、どの付近まで来たのか分からなくなったわけですね。

もう完璧に、私はもう全然分からなくなった。自分で高度計ではなしに、速度計。もう失速させないためと高度計を見るだけで、方位なんか見る余裕もなしに避退したっていうことがそのときに出たわけです。だからどうやら敵をまいたらしいぞっていうことで、さあならもう沖縄攻撃はこれだけ余計な燃料を食ったから、行って帰ってくることは難しいから帰ろうといったときに。後ろの偵察員が完全に自分の今の位置がどこだって聞いたら、分からなくなったわけ。当然ながら私も、高度計とかスピードメーターだけしか見ていないから。もう自分がどのあたりまで来ているということは、もう分からなかったわけですね。だから、九州の太平洋側にいるのか、シナ海にいるのかさえ、そのときは完全に分からなくなった。それでどうしようもなく、2人でもう本当にそのときはけんかをしたですね。相手は上飛曹だけども、「てめえの仕事だろうが」、なんて言ってどなったですね、私も。ここでこのくらい中で死ななきゃいけないかと思ったら情けないやら、もう情けないっていうことは、敵艦か何かに突っ込んでいくんだったらいいんですけどね。どことも知れない夜の真っ暗な海の中にチャポンと下りて、誰に知られることもなしに2人とも死ななきゃいけないのかよって思ったら、もう歯がゆい、情けないっていうことで、もう八つ当たりしていたわけです、あの偵察員に。平原上飛曹って言ったら、善行章付けた下士官ですからね。私の上ですけど。「てめえがもうくそが」って、もう本当に飛行機の中でけんかしました。

そういうときに美濃部さんの言われたことを、頭に私は思い浮かべたわけです。自分が完全に機位を失ったというときは、羅針儀0度で北上しろと。そうしたら列島線が長いから、どこかに突き当たるっていうことを、我々の教育の中で、沖縄戦が始まってから2度目に行くときでも、全搭乗員をいつも教育されていたから、そのときの言葉があったから、ああそれだったらもうこんなときのために、よし、20度で行こうって言って、自分で20度に向けたわけ。行けども行けども陸地がこないわけですよ。そうしたらちょうどね、今さっき言った朝鮮と九州の間の対馬海峡を、後で地図で2人で確認したら北上していたわけ。それでちょうど右のほうに小さい小島を私、もうそのときには太陽が上がり始めてですね。海上もだいぶ明け方になってきたから、夜の2時頃の出発だったと思うんですけどね。2時間か3時間たって、夏ですから夜明けが早かったわけですね。明るくなってきたら、下に小さい小島を見つけた。だから今俺が飛んでいるのは、多分九州と朝鮮の中を行くから、どこかの男女群島が。男女群島っていうのがありますね。あれが見つかるんじゃないかなっていう私の中にあったわけです。だから一生懸命島を見つけようとしたら、ちょうど小さい島が一つ見つかったわけ。男女群島っていうのは、大体4,000か3,000メートルから見ると、二つとも一緒に見えるわけですね、近くに。だけどそれが一つしかなかったから、とにかくあの島のそばに着水すれば助かると思ってグルッと回っているときに明かりがだいぶ上がって、見たら、右側の奥の方に港が見えたわけです。それで「右に港が見えるけれども見てみろ」と言ったら、その平原兵曹が地図と一生懸命その港の地形を見て、「坪井、どうもあれ長崎だぞ」と。「ああ、長崎か」って言って、そこで初めてその付近までね。言い忘れたけれども、九州は雨が降っていて入れなかったわけ。だから雨を避けて北上したのが一番の自分が位置を失った原因の一つだったということが後になって分かったですけどね。

それでそのときに、雨。北九州がちょうど晴れていたんですよ。熊本以北、以南か。以南が雨でですね。梅雨にかかっていたですから。本当にそうだったです。梅雨にかけての、6月から7月にかけての攻撃というのの難しさは、梅雨時だったなっていうのを、あなたに話しながら今思い出したですけどね。だから長崎だったら、俺は大村で訓練を受けましたから、私は。九三中練っていう赤とんぼ(九三式中間練習機)で。だから大村だったら飛行場を知っているからって言って、大村に向けたんだけれども、雨で入れないわけです。しょうがないからもう海岸を見つけたから、海岸線にでも着水して、命だけでも助かろうと言ってずっと北上してきたら、唐津から雁ノ巣まで飛んできたんです。それで雁ノ巣飛行場を見て、初めて、ああ、福岡に来たんだっていうことで、そこで燃料計を見たらゼロを指していますからね。あっちに行ったりこっちに行ったりしているから。雁ノ巣に不時着して、海のほうから、博多湾のほうから滑り込んで、もう滑走している間に、プルンプルンプルンプルンで、ちょうど滑走路を過ぎたあたりでエンジンが止まったんです。それでね、私は現在がある。あのときはあれで助かったなっていうのが実感で。その後平原兵曹とは戦後も何回かお会いしたけれども、そのときのけんかのしこりでですね、もう坪井君、1回だけは会ったけれども、あとはおまえさんの前には絶対俺は姿を現さんって言って、あとは手紙もくれません。だけどもどこかで生きていると思います。そんなことがありましたね。あれは忘れられない。

Q:ギリギリだったんですね。

ギリギリです。

Q:302空から芙蓉部隊に決起を呼び掛けるような、終戦の後、8月15日の玉音放送の後に小園さんなんかが中心になって、302空が決起を呼びかけましたよね。その決起が芙蓉部隊にも届いていると思うんですけど。

届いています。

Q:決起の呼びかけが芙蓉部隊に届いて、皆さんが、その終戦というものを受け入れるまで、どういうお気持ちだったかというのを教えていただけますか?

その面はね、私が今でも覚えていますけれども、どうなるかという動揺はあったけれども、美濃部さんがもうそれはぱっちり抑えられたですね。

Q:最初、302空からはどういう呼び掛けが届いたんですか?

それはね、私たちに対する呼び掛けじゃないんです。美濃部さんのところに行っているわけです。何かビラもまいたらしいですけどね。私たちはそのビラも見ない。ただ美濃部さんと徳倉さんから聞いた言葉の中に、厚木のほうで、美濃部さんがね、大分区の方に、我々はもうあのとき九州にいましたから、大分が第5航空艦隊の司令部があったところですから、そこに全部指揮官たちを集めて、それまではね、美濃部さんも全機を引き連れて行くという気持ちを持っていたらしいんです。米軍が来たら俺を先頭にここで突っ込むぞということを言われた、持っていたらしいんですね。

全機でっていうような気持ちがあって、私たちに全部搭乗員だけにね、「飛行服を新品を出せ」と。主計課の方に言われて、飛行服を全部新品をもらったんです。「古いやつを着替えろ」と。だから当然私たちは、もうそのときに全機で晴れ姿を与えられたのかなっていう気持ちも持ったんですけどね。美濃部さんがそうじゃなしに、大分の3航艦の会議に列席、行かれるまではそういう気持ちがあったんだろうと思いますけどね。帰ってこられてから、これは本当に3航艦の司令長官。

Q:5航艦(第5航空艦隊)ですね。

5航艦か。5航艦の司令長官が来て、その動揺を防ぐために集められたわけですね、大分に。そこで初めて美濃部さんが、この終戦の聖断は、それまで行くまではね、多分これは戦争を仕切らない変な重臣の輩たちが出した多分命令だろうっていうようなことが、我々にも美濃部さんの口からも聞いた記憶があるんですね。「だから絶対このままで待て」と。「動揺せずに待て」というようなことを我々に言われて、それから大分に行かれて帰ってこられてね、コロッと変わられたわけです。これはね、重臣たちの策略による停戦命令じゃなしに、本当に陛下の出された命令ということが初めて俺には分かったって。だから絶対にこれ以上の騒動はしてはならんということを、美濃部さん自体がおっしゃったんですね。だからそのやっぱり、あの人はそういう、我々の心をつかむ気持ちというものを非常に持っていらっしゃったと思うんですけど、その美濃部さんの言葉によって、我々の動揺というものがぴたっと止まったわけ。

8月の20日だったかな。21日だったか、どっちだったかは今では覚えがないですけれども。全部飛行服を着て、「軍装を正して集合」という命令が出たんですよ。だからこれはいよいよみんなで美濃部さんを中心に行かれるのかなと。突入かなっていうことが1回ありましたもんね。そうしたら、それが私たちに対する復員の命令だった。

飛行場に行ったら美濃部さんが全部を集めて、泣きながら、美濃部さんの涙っていうのは初めて見ましたけどね。お別れの言葉を言われたんです。もうここまで来たら、ここまで来たから、「おまえたちも父母の元に帰れ」と。「父母の元に帰れ。飛行機をやる」とおっしゃったときにね、もうその美濃部さんの言葉を聞きながら、ああ、もう本当にこれはうそ偽りなしに、大声を上げて全員が泣きましたね。もう本当に全員が泣かない者はいなかったと思います。声を上げてもう恥ずかしさも何もなしに、ボロボロ泣きながら。

全部が飛行機に乗って、1人でも多くの者を後席に乗せて帰れと言って、私も後ろに、一つの座席に2人乗せて岩川を飛び立って、諫早へ飛んで、その2人が長崎出身だったからですね。いちばん近い諫早で下りて、滑走路上でじゃあなって、落下傘バッグにいっぱい詰め込んだ私物なんかを詰め込んだやつを持って、2人とも手を握って。あと1人だけですよ。話したって誰も返事をしてくれない。飛行機が離陸したときに、初めてもう、ああ、戦争に負けるというのはこういうことかよって言いながら、1人で有明海を飛び越しながらね、八女郡まで飛んで帰ってきましたね。

誰もいない。誰かいませんかって言って、私も飛行機をここに置いて、あとの飛行機の始末は自分でしろっていう、自由に自分のいいように飛行機の始末をしろということを出発前に言われたわけですね。だから、焼こうとどうしようと、自分の思う通りにしろと。ただ、アメリカのやつらに飛ばせないようにしろということは言われましたよ。

焼けって言われても、どうしてもやっぱり自分の飛行機を、今まで飛んでくれた飛行機を自分のすったマッチで焼こうなんてとてもできなかったから、どうしたらそのアメリカのやつらに飛ばさせないかって思った時に、ただ私にできることは、操縦席の計器を全部割ることだと自分で思ったわけですね。自分の操縦経験から、計器が全然作動しなかったら飛べないと思ったから。もう自分でドライバーの後ろで全部今まで見てきた計器を1枚残らず、油圧計から何から全部破ってですね。ガラスを割って、そして飛行機から降りて。飛行機から降りてからが悲しかったですね。もう離れるときが。

戦争の中で行かせたくなかったであろう母親に背いてまで飛行機乗りになって、もう生きた気持ちはしなかったと思うんですね、母は。だって特攻、特攻でみんな死んでいくから、私はもう飛行機乗りっていうだけで、世間の人はみんな即特攻という言葉しか。だから戦後今でも、ああ、坪井さんは特攻をやったんだねっておっしゃるから、今はそれに対して、いや、特攻ではなくて、私たちはこういう部隊だったから特攻じゃなかったんですよということは絶対言い訳をせずに、もう面倒くさいから、「はい、そうですね」なんて言ってますけど。もうとんでもない親不孝をしましたね。もうだって、兵隊に行くっていうだけで親は心配しかなかっただろうと思うのにね。喜び勇んで自分の道を歩いたっていう申し訳なさが今でもあります。

出来事の背景出来事の背景

【特攻~なぜ拡大したのか~】

出来事の背景 写真 爆弾を抱えての体当たり攻撃、特攻。戦争の終盤、日本はこの特攻でアメリカ軍を迎え撃ちました。戦死者は、4500人あまり。その大半が、二十歳前後の若者でした。
 昭和19年10月に始まった特攻は、終戦までの間に急激に拡大して行きます。特攻が初めて行われたのはフィリピンでした。最初に体当たり攻撃を行う事になる特攻隊が編成された10月20日。アメリカ軍がフィリピン・レイテ島に上陸を開始。20万の大軍が押し寄せました。太平洋の各地で敗退を重ねてきた日本軍にとってフィリピンは最後の重要拠点でした。しかし、主要な航空戦力を失っていた海軍には、強大なアメリカ軍を迎え撃つ手段がありませんでした。状況を打破するために立案されたのが、特攻でした。その戦果は、予想をはるかに超えたものとなります。20日に編成された特攻隊の一つ、5機の零戦からなる敷島隊は、空母3隻に命中してうち1隻を撃沈。隊員たちの命と引き換えに大戦果をあげました。
 この結果を受け、現地の海軍航空隊では体当たり攻撃の継続を決定。フィリピンの基地からは連日、多くの隊員が出撃して行くようになります。

 沖縄戦には、日本軍が開発したさまざまな特攻兵器が投入されていきました。ボートに爆弾を取り付け、敵艦に体当たりする、特攻艇、「震洋(しんよう)」。船体はベニヤ板。敵の銃弾を浴びただけで沈没しました。1.2トンの大型爆弾に翼と操縦席を取り付けた、「桜花(おうか)」。搭乗員は、桜花とともに攻撃機で敵艦隊の上空まで運ばれ切り離されました。しかし、桜花搭乗員の多くは、敵艦隊の上空にすらたどりつけず攻撃機もろとも撃ち落とされていきました。

証言者プロフィール証言者プロフィール

1926年
福岡県三井郡北野町(現・久留米市)に生まれる
1943年
6月、特乙2期生として、予科練に入隊
1944年
春、大村海軍航空隊(操縦)卒業。宮崎海軍航空隊で延長教育
 
冬、第302海軍航空隊へ
1945年
2 月、第131海軍航空隊・戦闘812 飛行隊に転属
 
8月、岩川基地で終戦を迎える
 
戦後は、タクシー運転手となる

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