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タイトルタイトル: 「有効な特攻方法を考え抜く」 番組名番組名: [NHKスペシャル]特攻 ~なぜ拡大したのか~ 放送日 2015年8月8日
名前名前: 堀山 久生さん(陸軍航空隊 戦地戦地: 日本(群馬)  収録年月日収録年月日: 2015年6月4日

チャプター

[1]1 チャプター1 子どもの頃から憧れだった飛行機  01:57
[2]2 チャプター2 陸軍特別攻撃隊  04:13
[3]3 チャプター3 志願  07:49
[4]4 チャプター4 命中率を上げるために思案したこと  10:48
[5]5 チャプター5 出撃を重ねていった特攻部隊  07:54
[6]6 チャプター6 館林で迎えた終戦  06:36

チャプター

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番組名番組名: [NHKスペシャル]特攻 ~なぜ拡大したのか~ 放送日 2015年8月8日
収録年月日収録年月日: 2015年6月4日

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Q:これは何の資料ですか?

それは僕の特攻機のマークだとかね。

Q:この飛行機で堀山さんは出撃することになっていたんですか。

そうそう。これに250キロ(爆弾を)付けてドーンと当たるわけ。これ小学校の3年の時にさ、明野飛行学校に行って飛行機に乗せてもらった。そうしたらもう子どもだからさ、飛行将校になろうと思ったんだ。それでこれが館林の。これは調布なのかな。超低空で突っ込んでくる写真。これを上から。

Q:この少年が堀山さんですか?

飛行帽を被せてもらってね。喜んで、魂が天井に飛び上がって。それでこれが特攻隊長です。

Q:これは特攻隊?

館林でね、特攻隊長で。これは基本操縦でひっくり返っているとき。これは復員で家に帰ってきたとき。

特攻隊の戦闘要領。

Q:当時実際に配られたものなんですか?

そうそう。それで訓練したんだ。ここの第3条って。さすがにさ、体当たりするとね、明確には書いていないんだ。ただし衝突と書いてあるわな。

僕らのころは、僕らが志願したのは(昭和)20年の1月、3月だったけれども、もう特操(陸軍特別操縦見習士官/大卒者などを短期養成した航空士官)が死んでるわけだな。特別操縦見習も3月のころはもう死んでいるわけ。士官学校出身の者が志願しないで済むかと。逃げ回るなんてそんなことはまず思わないが。あの人たちでもやっているじゃないかと。そういう点で本当に心はきれいだった。ただ、だから何の疑いも何の疑念もない。悩みもない。それで飛行技術の場合も、射撃技術の場合も、それは防空戦闘隊に行けよと。僕は空中射撃も下手で、30発持っていって13点しか当たらなかったから。まあ半分行ったって15点が及第点になるからな。13点では及第点にならないだろうからな。「ああ、いいよ、いいよ。目標が大きいから、上だけ、上空援護してくれれば当たることはやるさ」って言って。体当たりするとき。なぜ体当たりするかと。爆弾を放って帰ってきていいと思っては、やっぱりそこで心がひるむんだよ。これはどうしてもね、100パーセント任務を達成してほしいわけ。それにはね、そこで失敗したらどうするの? 自分のめんたまでさ、敵の軍隊輸送船の艦腹にくっつけるぐらいしなきゃ当たらないんだ。そこがやっぱりね、違うんだろうね。だから士官学校の精神を持って、ベースにして、予備将校にそれを求めたっていうのはそれは酷だったかもしれない。だけど、少年飛行兵は現役の下士官で、士官学校と同じ精神教育を受けているから、これはもう疑いもない。僕は少年飛行兵が4人部下におったけれども、おまえたち、覚悟はできているかなんていうことは1回も聞いたことがない。全く信用していた。

Q:自分と同じ気持ちでいるんだろうと。

そう。こっちが勝手にな。

Q:そういう信じられるものがあったんですね。

うん。それは少年飛行兵の伝統を見たら分かる。みんなそうやって死んでいるから。

Q:少年飛行兵もそうですし、特別操縦見習士官なんかも次々と亡くなっていっている、特攻で死んでいってる中で、選択のしようがないというか、もうそれ以外ないわけですね。

ないと僕は思っていた。そう思わせてもらったら、またね。もっと何か他の道があるかと。悩んだと思うけどね。僕はもう客観的に見て、ああ、これはこれしかないと、そういうふうね。任務必遂ということを士官学校では随分教えられた。与えられた任務は必ず達成すると。

Q:最初志願をされたときのことを少しだけお話いただいたんですけど、そのときのことをもう少し詳しく教えていただいてもいいですか?

そこにみっともないことが書いてありますが。これ89号でね。まあ同期生はみんな知っているからいいけれど。みんな一般の人もそうやって士官学校の教育で志願していったんだけど、僕は特にね、その前におやじに叱られましてね。士官学校の時代に、寝て怠けていて、それで成績が半分ぐらいに悪かった。それでおやじは陸軍の主計中佐で、陸軍糧秣(まつ)本廠(しょう)におったので、そこで官報か何かで士官学校の組織番号を見たんだよ。おやじもあきれてさ。晩飯のときに大叱られして。そのときに特攻を打診して口答えしたんだけど。「お父さん、座学時代は居眠りばかりしてサボって申し訳ありませんでした」と。「それで航空に転科してから運が悪くて、飛行機を3台も壊しました」と。それで「飛行時間から見てもとても空中戦闘に上がるほどの実力はないので、この世は潔く特別攻撃隊に参加して、戦果を挙げて死にたいと思います」と。「それでどうか許してください」って言った。そんな後ね、親が叱ったらさ、特攻隊を打診してさ、口答えする息子がいますか。もう本当にね、これは21歳の陸軍少尉の若気の至りとはいえね、本当にみっともない話。おやじは、まあさすがになんぼ軍人でも、すぐ特攻隊に志願して行けとはよう言えんわ。「いや、まだしっかり飛行訓練をやってご奉公しろ」とおやじは言った。家の中ではそういう一幕があった。

Q:なぜそのときに特攻隊に志願することを?

新聞にあったからさ。だから多分(昭和19年)12月の末ぐらいだろうね。海軍がどんどんやっていくのでね。あんたね、いかに天皇陛下に忠義だと言ってもね、親にこんなばかな口答えする息子ではたいしたことはないですよ。

Q:そういうやりとりはあったんですね。

おふくろは怒ってね。それでもう本当にね、そんな中で思ったのは、天皇陛下の8月15日のご聖断(ポツダム宣言受諾)のおかげ。昔流に言ったら足を向けて寝られないというところですよね。

Q:あそこで戦争が終わっていなかったら。

そうしたらさ、今度は5月の22日にその・・・と号、17、194飛行隊長を命じるって家に帰ってきたわけ。それは中野学校っていう陸軍のスパイ学校。そこの教官をやっている歩兵の53期のヤナギサワイチタネっていう人がうちに遊びに来ていて。今度は成増の飛行隊だそうだけど、まだ少尉だったからね。今度は小隊長ぐらいかねって。確かにそうで。もうちょっと偉くて、「振武隊(陸軍特別攻撃隊の部隊)長です」って言ったんだ。向こう、秘密の学校の機関の教官だから、外に口を出すことはないからな。そうしたら向こうはこうやって、「いやあ、おめでとう」って。そうしたらみんなびっくりしたわけだ。

Q:5月25日、それは振武隊長を命じられたんだと思いますけど。それ以前に1月、3月に熱望するとか、そういう志願を募られていると思いますけど、そのあたりのことも詳しく教えてもらえますか?

志願してもさ、何でもないのさ。普段と同じとおりで。それでもう3月30日、その将校学生が終わるまで毎日志願した者も志願しなかった者も、多分全員志願したと思うんだけど。何ともなく平静どおりに動いて、何の変わりもなかった。

そのね、地上兵科から航空転科して、天竜の飛行場で一式戦の訓練をやっていたものが44名おったんです。その教官は53期の久保幸夫という飛行第24戦隊出身の立派な人だった。それでその久保大尉のところにみんな志願するっていう表を出したものだから、翌日みんなを集めて、「俺はもう貴様たちにがっかりしたよ」と。反対なんだ。久保さんはな。それで、「俺は貴様たちが将来の日本の陸軍の戦隊長になってほしいと思って、こうやって一生懸命にやっているのに、貴様たちはみんな特攻に志願して、後の日本の戦闘のときはどうするんだ」って言ったの。

そうしたら、まあ僕ら、面と向かって話せないから、「私どもはね、130時間ぐらいしか乗っていませんから、役に立ちません」と。「航空士官学校のほうはもっと、200時間ぐらい乗っているから、あっちのほうが防空戦闘なり将来の要員として役に立つでしょう」と。「僕らは捨て石で結構だ」と言った。

Q:特攻の効果ということですけど、当時はどれぐらい戦果が上がり得ると思っていました? 自分が突っ込んで・・・

これはね、敵の戦艦・航空母艦・巡洋艦の場合と違って、僕らは本土決戦では陸軍は軍隊輸送船を狙うっていうことになったわけ。船舶だな。これはまあ装甲なんてないわけだ。もともとな。それで僕も戦後アメリカに行ったとき、モスボールって言ってね、窒素封入した輸送船だとか、あれは巡洋艦か駆逐艦かしらないけど、4隻単位でね、フィラデルフィアの南にカムデンっていう大西洋側の軍港があってね。そこでそれを見たことがあるから、ああいうものは沈められるんじゃないかと思った。それでね、この本の中にはね、爆弾の効果っていうのがこの中に入れてある。爆弾が何発か当たればね、沈められるか、大破・中波になるかどうかってね。この資料編に多分あったと思う。・・・書いてあるでしょ。

Q:大型輸送船だったら。

まあ1機でうまく行けばいいがね。

Q:2~3発爆弾が当たればということですね。

それで、僕はね、特攻隊隊員としては、訓練不足なんですよ。訓練不足というのはね、四式戦(戦闘機)の単機の飛行とあとは編隊をやって、それから超低空で突っ込んでくる、それを何十回も繰り返すって言うか。それから今度は航法と言って、遠くにぐるっと回ってくる。そういう訓練をしなきゃいけないんだけど、僕は編隊飛行までなの。それで、大きなことは言えないんだ。だけど、その間にね、自分で考えたの。飛行訓練の間にね。それをね、ここに書いてあるけれどもね。要するに陸用爆弾というのは、敵の艦船に対してそれほど有効でないかもしれんと。というのは、大体満州(現・中国東北部)とソ連(現・ロシア)との境で、ソ連軍と戦うために、使う爆弾は250キロというのは陸軍はほとんど最高だったと思うから。そうすると、(地上戦では)大した破壊力がなくてもいいわけだ。軍艦は装甲があるから。それから、輸送船に向かって撃つというためはほとんどないわけだ。満州は大陸でな。

それでね、少しでも爆弾の爆発の効力を上げるためにと思ってね。この敵の輸送船のところに超低空で、大体10~15メートルって、館林では訓練していた。そこをね、落下タンクなしで時速550~580キロでバーッと突っ込んでいく。ちょっとそこの写真に見たような飛行訓練をやっていたわけね。

Q:超低空で。

超低空で。

Q:これよりももっと低いわけですよね。

うん。もっと低いでしょうね。それで喫水線上に超低空・水平攻撃で当たれというのが、この「と号部隊」の指導なんです。それを喫水線下で当たったらどうかと。それには僕は砲兵だから、信管とかそういう知識があるから、瞬発信管だったら、まず壁に当たるときに爆発しちゃうわな。だから短延期信管(着弾後に少し遅れて爆発させる信管)。それはいいことに飛行機の上で切り替えができた。それでそれが付いているという前提で、単葉機で当たると。そうするとまず水に潜るわな。それから短延期信管の秒時が何秒かそこまでは当時分からなかったが、とにかくそんなに長い時間じゃなくて、まあ1秒以内か1秒以上かもしれないけど、そこで。

そこで水中爆発する。あるいは計算が行き違って、爆弾が中に突き抜けて、突き抜けてもその短延期の時間の間は炸裂しないから。中に入ったときがちょうど時間になってバカッと爆発するとボイラーが爆発するわな。

Q:そういうことも考えていらっしゃった。

うん、その2つの場合を考えてね。もし水面下でまあ爆発させたら、それ、何メートル離れたらいいかっていうところまで具体的によう考えなかったけどね。なにせ、もうそこで爆弾と共に水の中に潜って、それで爆発すれば、海軍の魚形水雷っていうのは、あれ800キロだ。

Q:魚雷ですね。

僕らは250キロで、しかも陸用爆弾だから海軍の250キロよりも効果は弱いかもしれないけど、それでもまあ水中爆発による効果というのは、水圧が加わるからね。大きいんじゃないかとまあ思ったけど。それでそれをね、やってみようと思ったわけよ。それで6月の末だったか、高橋太郎っていう第30戦隊飛行集団の参謀が館林に来たときに、私、今あの、「超低空・水平攻撃、敵の喫水、敵軍隊輸送船の敵の喫水線上に当たれと言われていますから、これを短延期信管に変えて、いったん水中に入って、水中で爆発するようにしたらどうかと思っています」と。「それをやってみたいと思う」と。そうすると、まあ250キロかける2つで500キロ。海軍の魚雷は800キロ。まあそれにはもちろん劣るけれども、「大きな効果が水面下爆発で期待できるんじゃないかと思いますがいかがでしょうか」って言ったら、「それはおもしろい」と。「帰って調べてやろう」と言われたら、その司令部が7月に、翌月に熊本の健軍っていうところに前進してしまった。返事はくれなかった。くれなくても俺はやるつもりだった。

Q:堀山さんは、特攻隊に志願して、そこから突っ込むための訓練というのはどれぐらいやられたんですか? 特攻攻撃をかけるための訓練というのは。

僕はね、あれは特攻訓練って何時間とかどこかに書いていないのかな。おそらく15~16時間、特攻の訓練があったんじゃないかと思うけど。

Q:15~16時間くらいですか?

分からん、分からん。いいかげんなことを言っちゃいけないけど、どこかにそんな数字がないかね。というのはね、僕は本当に、特攻隊長としては半分ぐらいの値打ちしかない男なんだ。超低空(飛行訓練)をやっていないから。それもね、通常やっていなくてもやったようにね、言う人は僕は、多分多いと思うけど、俺は言わない。俺は残念ながら編隊でしか。

Q:編隊の飛行訓練。

飛行訓練までしかやっていませんと。だから本当の超低空の怖さっていうのは体験がありませんと。特に超低空で飛んでくると、戦闘機の操縦かんは非常に敏感だから、上がったり下がったりするので、直すのが多分大変だったと思う。それで館林の飛行場っていうのはね、館林の西にあってね、ここに小泉線っていうのがあったんだ。そこに松林があった。それが20メートルぐらいの高さだった。それをね、超低空機が来たからね、飛び越えて来てね、飛行場の上空で更に高度を落としてね。それで10から15メートルでビューッとこう突き抜けていく。それを俺、やっていないからね。やっていないのでうそは言えない。うそ言ったって分かりはしないけどな、そいつには。だけど俺はそういううそはつけない。ただ、自分はその間にあって、水面下体当たりを一生懸命考えたと。

Q:1月に志願をして、5月に命じられて、その間ずっと沖縄の戦いっていうのがあったと思うんですけど。沖縄で連日特攻隊が突っ込んでいますよね、陸軍も海軍も。その情報はどのぐらいみなさんの元に届いていたんですか?

ほとんど知らない。自分らも毎日の勤務で忙しくして、それまでにね、天竜で一緒だった44名の中からね、特攻隊が何人か出ていったんですよ。出ていったけれども、送ったらもう分からん。それで、そのうちにあいつも突っ込んだそうだということでおしまい。さっぱりしたものだ。

Q:そういう中に感傷的な気分になることは・・・

ないない。とうとうやったかっていうだけ。そういうふうなことでね、僕の記憶に残っているのはね。3月30日に同期生の山口一義君というのがね、九七の特攻で12機ね、あれ、水戸かな。水戸の飛行場から天竜に下りていった。そうしたらこうね、飛行マスクっていうのをかぶってね。九七戦に赤い電光の絵が。その写真が僕とってあるんだよ。2枚とったのがあるんだよ。そしてまた翼を振って西に行って、それで戦死するわけ。それはね、彼が生きているうちの最後の写真になってね、遺族に送ってあげた。あといろんな本に山口の天竜での格納庫をバックにした最後の写真があります。それからね、あと1件はね・・・。

Q:それを送るときはどんな気持ちでしたか?

いや、何でもない。武運を祈ると、ただそれだけ。うまく当たってくれよと。

Q:出撃を待っている間は気持ちが葛藤したりそういうことはなかったですか?

水面下突撃のことばかり考えて。それから、もう一つはタブ(補助翼や方向舵などに取り付けられている可動翼)のことね。実はね、そのタブというものについて、僕は自分なりに体験したんだ。あるときに高度4,000から35度でね、急降下をやった。エンジン全開しながら。時速624キロっていうのはね、高度計で目で見て確認してね。それで操縦かんを引くとね、上昇しているのがね、しばらく沈むと。重さが4トンぐらいあるから。だから注意しろと先輩が脅かすわけ。それでね、いやあ、それは怖いなと思ってね。それでタブをさ、クルクルと手前に合わせたらシュッとなめらかに上がって、目がくらまなかった。時速624キロから急上昇しても。これはね、面白いものだなと思って。

結局ね、ここにも書いたけれども。航空士官学校が特攻になったのが操縦510人のうち146人が亡くなりました。それから陸士からの転換の者は290人のものが97人が特攻隊長になって、合計800人のうち243人だから30パーセントが士官学校から特攻になっていますと。そのうちに航空士官学校の146人のうち、105人は突入して死にましたと。地上に転科したものは18人しか死んでいませんと。合計123人というものが、243人の半分だけが死んで、残りの120人というものは、本土決戦の要員で生き残ったわけ。

Q:当時の皆さんの意識は・・・。

もっとたくさん当たりうると思ったんだよね。当てて沈めることができると。15や16とは思っていないよね。俺たちが死ぬことによって成果を期待しようという気があった。

Q:命を賭けて攻撃をするんだから。

その見返りが欲しいという希望的観測が大きかったんだろうね。いや、俺だってさ、この水中爆発だったら1隻沈められると思っているから、他の人は他の人のやり方でそれを期待していたんだろうね。期待と実際とは数字が大いに違うだろうね。

Q:堀山さんの意識の中では、相当の損害を相手に与えられるのではないかと、そういう期待は?

うん。僕はもうほとんど成功すると思った。僕のやり方で。このね、『館林の空』にはね、これも12~13年前にまとめたんだけども。この全体の記録としてまとめたものであって、僕の個人的なことは13章だけにしか書いていないが。この特にトリムタブで頭(機首)が下がって間違いなく当たるっていうことについては、ここではあまり書いていないと思うね。

Q:飛行時間がまだまだ足りないという意識がある中で、行けば必ず命中できるというふうに。

着けばな。その占位点という、そこに着ければもう俺ならにっこり笑うところだと。やれると。そこに行くまでにほとんど落とされてしまうから。それは全然行く人間には関係なくて。それは直掩(えん)部隊(特攻隊を援護する部隊)に頼むというしか、あとは神頼み。

Q:上陸を食い止めるのだとおっしゃっていましたけど。第30飛行集団、その中で堀山さんたちに出されていた命令とは、どういうものだったんですか? 本土決戦に向けて。

それはね、僕は5月の時点で漠然としたもの。それでね、まずは9月20日までに訓練を完成して、北九州に展開すべしという命令だけが僕らの下部組織の特攻隊に与えられただけで、それから何の一切の通達もなかった。

Q:敵の上陸船団を特攻隊で迎え撃って、それを撃滅するのだと。そういう具体的な話は何も聞かされていないんですか?

全然聞かされていない。具体的には。ただね、飛行場がね、戦闘機の整備の関係から、都城東か。であるということはうっすら分かっていた。知覧じゃないんだ。要するに四式戦の整備隊が都城にしかいなかった。だから援護戦闘機も都城の西の飛行場。それから出ていく特攻隊は東の飛行場。それから知覧は、四式戦以外の三式戦までの特攻の主力は知覧。その一部が万世。大体そうなの。

Q:機種によって違ったということ。

要するに整備隊でさ、四式戦の専門知識のないのは、もう飛行場割りになっていて。

Q:最後にひとつ質問なんですけど、8月10日過ぎから館林の部隊の中にも九州に進出するものが出てきていたと思いますけど。堀山さんたちには何か。

僕ら194振武隊については全く関係がない。それは186まで。187以降は全く関係ない。だから普段どおりだった。

Q:そうやって部隊が動いていることも全然知らなかったですか?

うん、俺もぼんやりしとったんだろうな。同じ飛行場と言えども、みんな分宿したりしているからね。訓練は4区隊単位だったから。181、182、それから185、186。それから187、188、189。それから190。それから僕らが191、2、3、4。僕はビリ。だから第2組って言うかな、第3組って言うか。だから第1組は出陣食とかそんな何か折り詰めをもらって、日本酒をもらって、食べて飲んでしまって。それで行けと言ったり止められたりして、うろうろしているうちに終戦になる。それで終戦の放送があったときに、186の落合って、あいつが聞いてよく分からなかったんだけど、落合がワーッと泣いたの。それで負けたことが分かった。

Q:館林で残っていた部隊の中で、8月15日以降、降伏なんかしないで突っ込むぞというような人たちはいましたか?

そういうのはね、私心を持っているって言うの。まだ。天皇陛下に忠義を捧げるために、国家のために喜んで死ぬという人間が、天皇の命令に反して自己の意思を発表したり行動するっていうことは、まずあり得ないんだ。それは不忠の臣なんだな。

教育隊長という人も、フィリピンの空中戦闘に参加してきた人なものだから、それがすぐ承詔必謹、それから祖国再建、それにはいかなる恥を忍んでも生き延びて、日本を再建しようではないかと。でみんな、ああ、そうですって。それはきれいなものだ。それこそ一糸も乱れなかった。122名の特攻隊員がね。

Q:堀山さんは特攻隊員として戦死する覚悟を決めていらっしゃって、行くつもりでいた。そこに天皇陛下の終戦のお言葉があったと思うのですけど、それを聞いたときはどんなお気持ちでしたか?

その落合が泣いたんでさ、やっと負けたかっていうことは分かったけど。そうしたら、目の前が灰色になってさ。それで立っておれないんだ。机にこうやって、やっと立っていた。それでそのとき思ったのは、特攻で死んだ同期生に、俺は死に遅れたと。あいつら、栄光のうちに死んだのに、もう俺にはそれがないと思った。ただそれだけ。

出来事の背景出来事の背景

【特攻~なぜ拡大したのか~】

出来事の背景 写真 爆弾を抱えての体当たり攻撃、特攻。戦争の終盤、日本はこの特攻でアメリカ軍を迎え撃ちました。戦死者は、4500人あまり。その大半が、二十歳前後の若者でした。
 昭和19年10月に始まった特攻は、終戦までの間に急激に拡大して行きます。特攻が初めて行われたのはフィリピンでした。最初に体当たり攻撃を行う事になる特攻隊が編成された10月20日。アメリカ軍がフィリピン・レイテ島に上陸を開始。20万の大軍が押し寄せました。太平洋の各地で敗退を重ねてきた日本軍にとってフィリピンは最後の重要拠点でした。しかし、主要な航空戦力を失っていた海軍には、強大なアメリカ軍を迎え撃つ手段がありませんでした。状況を打破するために立案されたのが、特攻でした。その戦果は、予想をはるかに超えたものとなります。20日に編成された特攻隊の一つ、5機の零戦からなる敷島隊は、空母3隻に命中してうち1隻を撃沈。隊員たちの命と引き換えに大戦果をあげました。
 この結果を受け、現地の海軍航空隊では体当たり攻撃の継続を決定。フィリピンの基地からは連日、多くの隊員が出撃して行くようになります。

 沖縄戦には、日本軍が開発したさまざまな特攻兵器が投入されていきました。ボートに爆弾を取り付け、敵艦に体当たりする、特攻艇、「震洋(しんよう)」。船体はベニヤ板。敵の銃弾を浴びただけで沈没しました。1.2トンの大型爆弾に翼と操縦席を取り付けた、「桜花(おうか)」。搭乗員は、桜花とともに攻撃機で敵艦隊の上空まで運ばれ切り離されました。しかし、桜花搭乗員の多くは、敵艦隊の上空にすらたどりつけず攻撃機もろとも撃ち落とされていきました。

証言者プロフィール証言者プロフィール

1923年
三重県宇治山田市(現・伊勢市)に生まれる
1941年
陸軍予科士官学校(6期)入校。翌年6月に卒業し、野砲兵第5連隊に配属
1942年
10月、陸軍士官学校入校(57期)
1944年
4月、陸軍士官学校を卒業した後、陸軍航空士官学校に入校。
 
9月、明野教導飛行師団付きとなる
1945年
5月、第30戦闘飛行集団に配属される。6月、館林へ。特攻訓練にいそしみ、終戦を迎える

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