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タイトルタイトル: 「8月16日に死んだ仲間」 番組名番組名: [NHKスペシャル]“終戦”知られざる7日間 放送日 2015年8月16日
名前名前: 神保 公一さん(震洋特別攻撃隊 戦地戦地: 日本(高知)  収録年月日収録年月日: 2015年6月17日、29日、26日

チャプター

[1]1 チャプター1 白いマフラー姿に憧れて  04:56
[2]2 チャプター2 特攻を志願  03:38
[3]3 チャプター3 “石ころ”と書いた遺書  02:48
[4]4 チャプター4 新しい特攻兵器  03:46
[5]5 チャプター5 基地作りに追われる  01:56
[6]6 チャプター6 “戦争に負けたらしいぞ”  03:27
[7]7 チャプター7 敗戦  04:23
[8]8 チャプター8 “やっぱりやるんだ”  03:53
[9]9 チャプター9 爆発事故  06:00
[10]10 チャプター10 爆発現場の惨状  04:51
[11]11 チャプター11 仲間を弔う  05:22
[12]12 チャプター12 神保さんの“終戦”  02:29
[13]13 チャプター13 土佐の海が自分の原点  04:03

チャプター

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番組名番組名: [NHKスペシャル]“終戦”知られざる7日間 放送日 2015年8月16日
収録年月日収録年月日: 2015年6月17日、29日、26日

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Q:予科練を志望されたのは、どういった動機からでしたでしょうか?

いや、それはね、端的に言うと、僕ら若くてもいずれ徴兵されて、陸軍か海軍か、相手次第で、自分の希望じゃなくてね、どこへ回されるか分からない、それになっていくっていうことは、当時徴兵検査がありましたから、だから20歳ですか、なればそうなるっていうことは、ある程度知ってましたからね、どうせ行くんだったら自分で好きなとこへ行きたいと。だからいろいろ変わりましたよ、戦車兵になりたいとかね、砲兵になりたいとかっていろいろ。そのうちに飛行機にちょっと興味を感じた、一瞬。そしたら当時、昭和5年から予科練制度始まってると思うんですけれども。

「あ、海軍っていうのがあるんだ」っていうことが分かって、それでそのうちに飛行機に乗りたい、男だったら。それで当時の写真でもそうですけれど、ここへマフラーをね、白い絹のマフラー、こうやってなびかせてる、あの姿、かっこいいんですよ。だから今の若い人と同じで、そういうことに憧れがあって、ま、そんなような感じで予科練受けましたね。

Q:どういった訓練の内容だったんでしょう。

いや、そら、すごいですよ。あれだけの訓練があるから今でもこうやって元気でね、ほとんど医者にもかかんないで生きていけてるのかなと自分で思ってますもん。それに耐え忍んだ気力、気力と当時の体力。

朝6時に起きて、つり床、ハンモック、あれをしまうのに、これも戦い、競争なんですよ。遅れたら大変ですよ、だからハンモックをこうやって結んで、こうやって固く縛って、それを高いとこへ、上に2人が乗ってて、それに渡した、そいつはピシっとこうやって積んで、うん、5分以内ですかね。だから朝起きて10分後にはもう練兵場っていうか、そこへいないから、隊内では全て駆け足、歩いてることは許されませんから。だから朝起きてもう時間との競争。もう常に駆け足。今、苦手ですけどね、それでもそうやって若い時にやらされたっていう1つのあれ、それが根本ですから。だから海軍体操はじめいろいろな写真その他に残ってますけれども、高度な体操、技術を教わったりして、あとはカッターって短艇、これで私はじ(痔)になりました。お尻がむけてね。もう大変な思い。肛門の周りをね、ただれたりなんかすんのを誰も、自分じゃできないでしょう、仲間にやってもらうのもあれだった。班長がね、「おい神保、こっちこい、尻出せ」って。班長の前で尻をこう出すと、ヨードチンキですよ、赤チンじゃないです。あれガーって、飛び上がりますよ。肛門の周り、ただれてむけて、真っ赤になって、皮がむけてんですから、カサブタになった。それにヨードチンキつけられる。まあ、そういうことを耐えて1つの気力っていうか体力、それができたと思ってます。

それは昭和19年の10月頃だったような、記録見ればハッキリ分かると思うんですけど、10月頃だったと思う。で、そのころは大体2年ぐらい僕ら予科練生活たって、最上級生です。そんときに剣道場に集められて、「新しい特攻兵器ができた」と。

それに志願するかしないか、イエスかノーかっていう、聞かれて、90%ぐらいは「イエス」って答えたんじゃないでしょうかね。それでも「ノー」、「嫌だ」っていうのは10%ぐらいいたような記憶あります。「嫌だ」っつったやつは目つけられますからね、100%イエスじゃないとね。だから理由つけて、私は飛行機乗りになったんだから飛行機で行きたいっていう、これがノーの言葉ですよ。だけど飛行機がないことは、分かってんですから。

Q:神保さんもイエスとして。

ええ、血書しました。私は。

Q:血書。

ええ。人差し指、ここを切ってね、カミソリで。や、ほんとに経験しないと分かんない、血書って簡単にできないです。血は、そんなに出ませんよ、指1本切り落としたわけじゃないから、こう切っても。こうやって書くでしょう、ちょっと書くだけでね、いや、大変な血出さないと血書できないですね。ただ血判は、できますよ、まあ、こういう。だけど血でね、字を書くってのは大変な、何て書いたか忘れました。ただ血書で志願して、冬に向かって痛かったですね、傷跡。それは記憶にありました。

なぜ血書をしたの? 志願までして特攻隊に、命を捨てることに志願したのかっていうことを聞かれてもね、自分じゃ分かんないですね。ただそのときに、そういう気持ちになっていた自分がいたっていうことだけ。だから何を考えてたのか自分で分かりません。「よし、やろう、やるんだ」っていう、ただそういうなんか、体の中から、死、特攻で死んでもいいというか、それが望みだっていう気になってたんですね、不思議なことに。だからなぜそう思ったんですかって聞かれても、いや、これですっていう理屈とかそういうことは言えないですね。ただ衝動的でやったことは事実ですね。

遺書はね、何も書かないで、ただ書いたのは、「石ころ」って書いただけです。遺書に、「神保、石ころ」。その心境と同じでしょう。

Q:石ころとだけ。

お母さんお父さん、ありがとうございますとか行ってきますとかって、頑張ってきますとか、国のために…そういう文句じゃなくて、ただ「石ころ」ですね。

(石ころと書く)
どう書いたか覚えてませんね、これだけは覚えてるけど。ま、自分の名前を書いたんでしょう。

「海軍二等飛行兵曹かな、神保公一」と書いたと思います。

ただこれだけ。当時の私の心境は、これだけだった。「石ころ」だけでいい、何も、別に勲章もらいたいと思わないし、俺はただ石ころでいいと思っただけの話ですね。

石ころっていうのは、なんですかね、無に近いもんじゃないすか、人間から見たら。それで何も心を持ってるわけじゃない。だけどその石ころができるまでには大変な思いしてできているってことは、その当時の教育でも僕ら分かってるわけですよ。こんな大きな岩がこんな小さい砂利になって、それが石ころになってそこらへんにあるんだ。僕は人間的には、そうだと思ってますから、だから特攻行こうと何しようと、ま、なんつうのかな、ま、あの、ごめんなさいね、大学出の人に言いたくないけど、学徒出陣があるでしょう、あの人たちの書いた遺書ってのはね、ある程度ね、人生の中で少し年も上だしね、体験してんですよ。

僕らは、はっきり言って15歳で志願したんだから、何にもないじゃないすか、女がいるわけじゃない、子どもがいるわけじゃない、世の中の生活の苦しみはありましたけどね、何も知らないじゃないすか。だから石ころだけで、通じちゃうんですよ。無で死ねっていう、そういう気持ちで「石ころ」ですね。

川棚、昭和20年の3月いく日だか忘れましたけど、川棚に三重空(三重海軍航空隊)から列車に乗せられて2日ぐらいかかったんじゃないかな、川棚に着いて、その着いた時ですね、あの、大村湾に浮かんでいるのを見て、カエルだと、「青ガエル」ってあだ名、震洋のこと「青ガエル」って僕ら言った。青に緑色っていうか、青じゃないな、緑、いわゆるあの、カエル、あの色とそっくりで青ガエルって呼んでたんです。格好もね、カエルみたいな感じあるじゃない。そんとき、初めてです。いや、みんなガッカリしちゃってもう、「えー、これ?」っていう、ベニヤ板でしょう、よくよく。ただボートでしょう、「え、これが特攻?」ったら、いろいろ説明したら250キロの黄色火薬ですよね、それを船首に積んで、これで体当たりすんだ。爆弾ですよね。それはよかったと。それを海の上でやるんだと。

自分の命を捨てて突破口を開く。ああ、それ肉弾三勇士と同じだ。じゃ、俺も偉いんだなぐらいには思いませんけどね、それに近いと思う、諦めました。

Q:諦めた。

諦めた。しょうがない。来た以上は「ノー」とは言えないんだ。

Q:周りの皆さんの反応というのは、いかがだったんですか?

いや、私とまったく同じですよ。「何これ?」、嫌だっていうのは、もう100%嫌でしょう。飛行機に憧れてるのが海のもう…全然自分の理想と、人生と違うじゃないですか。

もうしょうがない、諦めですよ。うん、これでしょうがないと、誇りには思ってませんけど、だから海軍は、あれですよ、その海の上の、ね、ボートのはっきり言えば…でしょう? それに飛行服、着るのは飛行服、飛行機に乗る時まったく同じ、飛行帽、マフラー、まったく飛行機乗りと同じ服装なんですよ、もらったのは。特攻へ、いざ特攻で行く時のいでたちは。大したもんです、考えて。あの飛行服を、これに乗ってても一応搭乗員、それで「搭乗員」っていう名前なんです。飛行機の搭乗員と同じ「震洋搭乗員」でしょう。だからまあ、物資も少ないし、まあ搭乗員っていうことで、それで慰められたところはありますね。

Q:現地では訓練とかは、

いや、1回もやったことないです。なんにもやったことない。防空壕(ごう)掘りだけです。いわゆる艇を隠す。大きいですよ。うん、そうですね、この天井ぐらいありますね。横幅が…2間(約3.6メートル)ぐらい。だけど岩盤がもろくてね、みんな木枠でこうやって固めていかないと。そこへいくと横須賀はね、岩盤硬かったから、あそこは、ほとんどそういうことやんないで素掘りで作られたけど、あそこは、ちょっと大変でした。やるのは僕ら。基地隊員は、やらないです。基地のいろいろのこと。搭乗員部隊がそこの各防空壕の担当の責任者になって、そこへ来て働いてくれるのは、いわゆる女学生、女と家庭の奥さん、働ける。だから女の人相手で。それは最高に楽しかったですよ。僕もなんかに書いてますけどね。初めて女の人と身近に接したのは、そんとき初めてですから、ああ、青春を感じましたね。

僕らだけ、45人だけが部隊長の前へ整列させられて、部隊本部のラジオで聞かされて、これから12時に集合でしょう、あ、12時5分前ですけども集合して。何言ってるんだか分かりません。いわゆる妨害電波なのかガーガーガーガー言ってるだけで。最初だけね、ちょこちょこっと、「あ、天皇陛下のお言葉だな」っていうことは、分かったんですよ。だけどそんなのは1~2分でしょう。あとは、ただムガムガムガム…つって、約10分ぐらいの…、だから何にも分からなかった。ただ部隊長が言ったのは、「みんなに頑張れということを言われてるんだ」戦争に負けたなんて話は全然ないです。「頑張れ」、普段から頑張ってるのに、ただそう言われたって……ああ、そうですかってなもん。

それでみんなそのまま引きあげて、それぞれ作業に戻ったら、今度は村の人たちのとの交流ができるでしょう。そうすっと、村の人たちのが早かったですね。僕は直接聞いてないですよ。僕らの同じ隊員仲間ん中から、「おい、神保、日本は戦争に負けたらしいぞ」って話、「うそ!」なんて話でね。ま、そういう言葉じゃないですけど。そしたら、みんながそうやって話してる。「そんなバカなことあるか」っていう、うわさがだんだんだん仲間で、搭乗員だけですよ、基地隊のことは知りません。広まってきて。で、ほんとにそれが事実に近い話だなっていうのは、正式にはどっからも聞いてませんよね。ただ夕方の…、4時頃になって、どうも本当だよって話になったんです。

確かめたか…、ま、確かめたんでしょうね、だけどそれは覚えがないですね、記憶に。それから荒れたのかな。「何で?」っていう話で、急に。戦争、我に利あらずっていうことは、もう沖縄がダメになってるしね、それは、分かってますけど。いずれこの本土にアメリカ軍は上陸してくる、それと戦うため自分らいるんですから、いよいよかなっていう気だった。それが急に降伏したんだって。日本が降伏するなんてありえないって気持ちです。玉砕、あ、玉砕。降伏は、しない。全員1億玉砕、そういう宣伝文句もありました。1億総玉砕、全部死ぬ。ただそれだけですね。

我々は死ぬための教育を受けてきた。ね。それが、たったそれだけで負けたからっつって、「あ、そうですか、じゃあ、帰ります」なんてできますか? できないですよね。

だから虚脱感。「えー、ほんと?」っつって、何がなんだか分かんないですよね。そのあとに襲ってきたのが、自然とですよ、「我々は、やる」っていう気になった。

Q:搭乗員の方以外の基地隊員の方というのは、どういった。

それは喜びましたよ、間違いなく、顔色が違いますもん。私だってもし、その基地隊、今の年でいたらもう万歳ですよ。生きて帰れるんですもん。ね、家庭に戻れんだもん。戦争に負けたとかそういうことじゃない、家庭に戻れるっていうことの喜びですよ。戦争に負けた喜びじゃなくて。もうそれ以外なんにもないじゃないすか。だからそのために隊内では、あちこちで、若い僕らの仲間と基地隊員とのギャップが生まれたでしょう? だから、この野郎っていう話になって、あちこちで殴ったり何かしてたんじゃないですか。で、僕は甲板下士官ですから、そういうあれ聞いて止めに行って、やめさした。1回だけは記憶ありますね。

Q:殴るっていうのがあったとは、どういった行為をとがめて殴ってたんですか?

いや、自分たちは、「やるぞ」っていう気になってますもん、だからお前たちがいなかったら我々も出撃できないんだから、それがニコニコしてうちへ帰る、「まだ帰れるか、まだ海軍は負けてないんだ」っていう上の思惑と一致したような感覚で我々は行動したっていうか、そうなったんですね。それ、どこでもそうだと思いますよ。

Q:神保さんご自身は、15日の夜は、どういうふうに。

覚えてないです。ただ甲板下士官ですからね、ある程度、規律的なものもあるし、だけどはっきり覚えがないですね、どんなことしたか。ただ朝、朝の明るくなってきた頃だから4時か3時半頃か知らないけど、浜辺に行って座り込んだのは覚えてますよ。ただ浜辺にはパイナップルの缶詰がゴロゴロしてました。僕らが寝泊まりしてる、2階ですけどね、下が倉庫ですから、鍵かかって入れないんですけどね、上の畳はがしてね、羽目板はがすと上から入れんですよ。だからいくらでも何でも持ってこれるんですよ、酒でも食い物でも。ま、そういうことで、盗んだっていう話…、ことで、酒も。酒を支給された覚えはないですよ。みんな盗んでそうやって飲んだり食ったりした残骸がゴロゴロしてましたね。だから16日の朝は虚脱状態です、全員が。私も虚脱状態、全員。もう10時頃までは、もう何にも…、朝飯食ったのも覚えてないし、どうしたのかよく覚えがないですね。

すごい過酷な訓練、耐えられないような訓練を受けて育ってきたんですよ。それに耐え抜いて。それは戦うためですよね。それが一朝にして戦わなくていいんだと。

もう朝なんてもうだらだらしたもんで、虚脱状態ですからみんな。

Q:虚脱状態?

ええ。本当、もう人間じゃない、マグロと同じですね。水揚げされたマグロのように横たわって、「おい」なんたって……なんて、返事もしませんよ。もうくたびれちゃって。そんな状態の時に待機命令が出た。だけど、「え? 戦争負けたのに待機命令って?」「え?」と思ったんですよね。

戦うという一応前提の命令ですからね。出撃待機命令というのは。出撃する前の準備段階ですから。その命令が下った時に「なんで?」ったら、「四国沖に敵大型船団見ゆ」という一応情報が入ったら、うそですけどね。虚報ですけど。「よし」と思う。虚脱状態からそれを聞いて、「よし」。今までヘナヘナになった気持ちがそこで火がついたんですよ。みんなが。命令がなくても、もしそれが現実になったら、それでも火が噴いたでしょう。まだ負けたという実感持ってないんですから。戦争を互いにやっててね、…やっててこっちは1人か2人になっちゃってね、相手がこうやってて、やってて、こうやってたらこれ負けてたなんですよ、そんな実態じゃないんだから。何にも分からないままの負けたなんだから、まだ負けたという実感なんてどこにもないんです。

「負けたのにこんな命令出るのはおかしい」なんて考えたのはいません。いないです。負けたと思う心の本音はないんですから。形式上負けたということは概念として分かりますよ。だけど心の中じゃ負けたったって俺たちはまだ負けていないんだ、やるんだという気持ちのほうが強いんですから、8割以上、ほとんど、10割近く。だから出撃待機命令が出て、戦うんだってったときは我が意を得たりという気持ちになるじゃないですか。「おお、やっぱりやるんだ、よしやろう」

俺たちは逃げられるとか、このまま逃げたらどうなるなんたって考えた者は一人もいないんじゃないかと思いますよ。それは僕も、今までうちに帰れるって喜んでいた基地の隊員が、僕ら別れる時に手を握ったりなんかして、肩を抱いたりして、年上の人ですよ、みんな。おやじ以上の人たちに。僕ら上官ですからね。向こうのほうは下ですから。兵ですから。だけど年上ですよ。はっきり言えば親以上の。その人たちに「頑張って下さい」って手を握りしめられたの覚えてますもん。

ドーンって体がこう、上へこう持ち上げられるような、地震でこう持ち上げられる…あっとこう。ほいで振り返ったら目の前に、高さははっきり言えないですけど、十数メートルあったでしょう、ちょっと離れてるとこでね、間に障害物があって見えないですよ、現場。その松の木の上のほうへ真っ黒い煙、煙と火柱みたいのがワーっていったの覚えてるんです。それはガソリンの爆発でしょうね。

その瞬間に私の頭にこう、ハっと上ったのは、「あ、爆発してる」。何が原因だか分からないけど「これは危ない」っていう気がもう、先入観としてパっと頭に出てきちゃった。「誘爆起こすな」って。大体30メートル以内で爆発が起きると、信管が装着してあると、それで誘爆っつってね、誘われて爆発するようになってるんですよ。自分が爆発させなくても。スイッチ入れなくても。それはもう教育ん中にありましたから、あの爆発があったんなら、もし信管が装着してる艇がそばにあったら250キロの爆弾1隻ですよ、1隻にあるそれが爆発したら普通の輸送船であれば5メートルの大穴が開くっていうくらいの強力な黄色火薬ですけどね。それがこうなったら20…、全部装着してあれば20隻以上あるんですから。だけどまだそこまでいってないからせいぜい、今考えればね、せいぜい3隻か4隻ぐらいだったんじゃないかと僕は思ってんですけど、分かりません。

いずれにしろ誘爆が起きるから危ないと思って、「逃げろー、みんな逃げろ!」って大声出して、その、出した途端にもう僕は駆けだしてたのは覚えてます。ちゅうちょなく、松林を駆け抜けて。

それで総員集合なったから、まだ爆薬は爆発してないから、それで消火できると判断したんでしょう、人手があれだからみんな逃げた連中も元へ戻ってきて消火に当たれって命令だったから、主計兵が出て行こうとしたから僕は止めた。「バカ、今出てったら誘爆が起きる可能性があるから行くな」命令違反です。言ってからほんの、時間的な経過…すぐ、すぐですよ、言った直後あたりぐらいで、ズズズダダダダーンって、一大爆発が起きた。あれでみんな死んじゃったんですね。集まった連中も。他で死んでないんですよ、あの現場でほとんど、みんな死んでた。あの現場付近だけで。よそで死んでないんですから。あそこで111人がみんななのよ。

Q:神保さんがその…当時出て行かなかったっていうのは、それはその、命令が無謀だって思ったから。

無謀だと思いますよ。だから命令違反です。

Q:事故のあとは神保さん、どういうふうに行動されたんですか?

うん…、あ、それでその防空壕に逃げてる時にふと気がついたのは、私あの、ふんどし一丁なんですよ。なぜかって、真夏でしょう、もともと暑いとこでいろいろ作業やってるから、飛行服だとかそんなの着てられないですよ。ね、飛行服ってのはこう、いわゆるエンカ服っていうかな、ツナギですから。あれは大体夏冬あるんですけれども、夏用ですけれども、いずれにしろツナギですから、着てられないから、そんなのみんな、自分の艇んとこへこう、松の木に引っかけて、もうふんどし一丁、男同士の仕事ですからね、みんな越中ふんどしね、もっこってやつですね。それでもう素っ裸ですよ、気がついたら真っ裸です。私はね、そんときふっと思ったんですね、死を。「え? 俺、これで死ぬのかよ」って、やっと。そこにいんだから死なないんですけど、「あ、俺、ここで死んだらマズいや、真っ裸で死んだって、みっともない」って気が、頭にホっと浮かんだんですね。そいで、ああ、そうだ、俺の飛行服は、あそこに下げてあったなっていうことで、俺は飛行…、自分のあの、着る物をとりに現場近くへ行ったんですよ。そしたら自分が下げたと思うところにあったから、自分(の)だと思ってそれを今度は着てね。それからちゃんとした服装になったんです。朝になって気がついたら、ここに名札があんですけど自分のじゃないんですよ、「ミチカミタカノブ」っていうね、死んだやつの。それ友達に言われて気がついた、そんなこと見てる余裕がなかったんですね。仲間の連中に、「神保、お前それミチカミの飛行服だぞ」って、「え、うそ、俺んだよ」って、こうやって見たらミチカミって、タカノブって書いてあるんです。まあ、そのくらいの状態ですね。

あの、飛行服を思い出して取りに来たんです。そんときに初めてこの惨状っていうのを見たんです。そしたら、もうこの辺でうめき声はしてるしね、まだ生きてる連中が。まあ、背中ハリネズミになって、日赤病院に運んだ、名前は知りませんけど兵隊があったのを覚えてますよ。

Q:どんな惨状だったんですか?

だから、クギの箱が破裂して飛んだんでしょうね、頭のほうから刺さってんのを覚えてんですよ、逆に。体の外へ出てんのはとんがったほうで、それで背中だったかよくは覚えてない、いずれにしろハリネズミっていうふうに象徴するような状態がこの辺に1体あって、まだ生きてましたよ、確か、それは日赤病院に運んでから死んだと思うんです。誰だか覚えはない。

そんとき、あそこに森みたくなってんでしょう、この向こうの山、あの駅の向こうっ側の山ですよ、民家があった。あの中腹ぐらいまで火の手上がったんですから。メラメラ燃えちゃって。だからここへ来た時は、この世の地獄だと思いましたよ。ここら辺の民家は焼けてないんですよ。だけどこの山に向けて南の風がぶつかるから、みんな火はあの、駅のほうへ向かって、駅を通り越して向こうの山へ燃え移ってんですよ、ガソリンだとかなんかが。だからあの山の半分以上は火の山だったですよ。僕がここで見たのはね、そんとき。あら、この世の終わりだと、そんとき思いました。初めて実感的に。

ただ、「うーん、助けてくれ」とかっていうんで、そういう連中を一応目の前で見て生きてるっていうだけで、懐中電灯、当時ないですからね、あったけど、ほとんど。だから月が出てたと思います。その明かりだけでまだ生きてるなっていうのを運んだり何かして、トラックに乗せて日赤病院に運んだんです。それが爆発あってから1時間半ぐらい後でしょう。だから日赤着いたのは9時半すぎだと思いますよ。記録あるでしょうから分かると思いますけど。

Q:朝になって、明るくなって見た時には、どんな様子でしたか?

臭いですね、高知の8月16日の暑さ比べもんになりませんよね。もう、朝からもう臭いがすごかったです。なぜかっていうとほら、人間の体このままで死んだんじゃなくて、みんな、内臓からみんなこうやって飛び散ってんですから。だからもうハエがいっぱいたかってね。ハエがいるんで、肉片が分かるっていう状態ですよ。こうやって見て。ね、あそこにハエが、あそこにあるなって、そういう見つけ方ですね。

もちろん、だから死に様言うとあれですよ、大変ですよ。あばら骨は、ほとんどなくて、背骨だけが残って、この内臓から肉がなくて、腰が肉で残って、ほいで足が飛んだり手がなかったり、頭は残っててもそういう状態だったり、頭を潰されていた。

だから誰だか分かんないです。だから頭が残ってても顔なんかみんな潰れてますからね。だから名札が着いてるやつは、それだということであれですけど、誰が残ったかそれも覚えがないですね。だから死んだ人間は、ほとんど誰だか分かんなかったんじゃないですか。

それで遺骨を集めて一時収容して、消防小屋に置いたんですから。入りきらないから外へまで、なんかリンゴ箱か木箱持ってきて、そこへ…111人は、ないですよ。

お棺、粗製乱造ですよ。ただ板を打ち付けた、スギのこんな。そこへただ、残っている肉片からまあいろいろな死体がある。いくつもいくつもね。一人一体じゃないですが、そこへこう入れて、浜辺で重油かけて焼いたのは立ち合いましたからね。それをつかさどったのは自分だったか何か、私でしょうね。よく覚えてないです。明け方まで燃えてましたよね。夜の10時ごろかな、火をつけたの。それで翌朝遺骨収集をして、そのときに骨つぼみたいのが、いくつあったか覚えてないですけれども、それに残った骨を入れて、死んだ人間の名前を。だから全然違いますよ、誰の骨だか分からないのにただ名前を書いて。それをポンプ小屋に、一時、最初はポンプ小屋です。

分かった死体もあるけれども、結局は分かった死体だって五体満足じゃないしね。これこれだから個人的にっていう個別の区分けまでする余裕なんてないですね。みんな一緒くたですよ。

Q:そのお名前も神保さんたちが書いた?

いや、そんな覚えはありません。お坊さんかなんかが書いたんでしょう。名簿を作った覚えも僕ははっきり言えばないですね。そういうことをやる任務だったんですけれども、名簿をどうやって作ったか、どんなことをしたのか、それ全然覚えはないです。

Q:それをご覧になっていた…誰のか分からないけれども入れられて、お名前を書かれる。

だから名簿を渡して、あの土地のお坊さんが書いて、だから一部のあれにはお坊さんの寺に収容したように書いてあるやつがあるんだけれども、果たしてそんなことなかったよね。もう寺なんか収容しないで消防小屋で、あ、そうだ、消防小屋で一晩だけお通夜みたいなことをやったな。

何というのかな。もう現実として受け入れて、ただやるべき自分の仕事をただやっていただけ。喜怒哀楽の心なんていうのは、いま思い出せといっても分かりませんね。ただ心に残ったのは仲間が死んだという事実と、これからどうなっちゃうのかなということだけ。

あれは翌日(17日)あたりになって、あれは誤報だったんだって。なんだ、誤報でこんなに死んだのかとは思いましたよ。知らなくて。

Q:それもそれで…、そのときはどう思いましたか? 誤報で死んだんだなっていう、無感覚でいらっしゃったっていうふうに…

いや、だけど、私自身の気持ちとしてはそれを知ったけれども、別にそんな、なんだかんだって気はなかったですね。私自身ですが。誤報だから無駄死にしたとか、それに対する反発心とかそんなものはもう当時ありませんね。もう現実のものとしての処理だけです。

Q:現実のものとしての処理?

目の前のことをやるだけで、ものを考えたりそういう懐疑的になるとか、そういうことは私はありません。「何だよ」という気持ちもないし、ただそんなことで死んじゃったんだよなという気持ちはありますよ。だけどそれ以外のものはないですね。…に対する、何というのかな、反省する気持ちとか糾弾する気持ちもないな。ただ、目の前のことをやっていくだけですね。

まあ決定的に思ったのはあれでしょう。あの、宇高連絡船に乗った時ですよ。広島の原爆でね、傷ついた人が何人も乗り合わせましたもん。あの姿、本当は入院しなきゃならないようなケガをして、ケロイドになってね。まだ6日でしょ? まだ1週間、半月しかたってない。そういう人たち2~3人見た記憶があります。これは広島の爆弾のあれだと言われて、えーと思った。そのときはまだ原子爆弾ということ知りませんよ。

ただ今までの感覚はほとんどなくなりました。

Q:今までの感覚とは?

戦う気持ちとか、特攻みたいな気持ちもないし。ただひとりの復員の軍人的なこれからどうしよう、どこへ行こうというだけ。この遺骨をどうやって届けようとか、家族に会いたいとか。ただそれだけですよ。あと何にも思ってません。

現実に戻ったんでしょう。遺骨を抱いた瞬間に。

Q:遺骨を抱いた瞬間に現実に戻った?

遺骨を届けるという使命感。本当は遺骨を我々が届ける必要はないんですよね。軍が届けなきゃ…。だけど、友達というか死んだ長年の友達、これから帰るんだけれども、関東のほうに帰る者はこれだけ関東出身の者がいるんだけれども、「届けられる者はいるか」と。「はい」「誰?」「はい」「じゃあヨシノとヨネヤマのあれ、だな」と言って手をあげて遺骨だけ。着のみ着のままですよ、何にも持ってない。

これも、みんな墨を入れてきれいにしてくれたんですね。ほとんど見えなかったです。これはあの基地隊員と僕らとが、混ざって書いてあるんですよ。だから僕がこん中で覚えているのは23人かな。あと、艇隊長。

うん、今でも顔を覚えてますね。全員の。名前を、例えばこう見ながらね、顔が。当時の顔ですよ。

僕、お葬式も何にもいらない。はっきり、家族にも言ってあります。ここの、海に、骨を、捨てろ。ま(撒)いてくれ。お葬式やらなくていい、ただ、遺体を焼いて、海に捨てる。それだけです。

自分の人生の原点がここにあるから。あれで生き残ったから、自分が今いるんだ。死んだ人間は、何にもないんですよ、その時点から。私はあれから70年、一応生き延びて、いろんなことを経験した、から、ここが自分の、原点だと思ってます。良くても悪くても。批判的なものはあっても、ここが自分の生きた原点だという気持ちが、今でも残ってんです。

彼らが、何にも知らないで、こういう今みたいなことも、何にも知らないで、ただ、爆発して、一瞬に命を奪われて死んだ。それに比べたら自分は、こんな幸せな人生を送って…、送った。やりたいこともやったし、いろんなこともできた。だから、うん、元へ戻りたい、気持ちですか。

Q:原点なんですね、やっぱりね。

私にとってはね。そんな、かっこいい話とは違うんですよ。気持ちん中には離れません。だから私、あそこ行って、手合わしてないでしょ。慰霊塔。普通の人は、みんなやります。お線香を供えたり、花を持ってったり。私は全て、変な話じゃないですけど、心ん中にあると思っています。

きれいですね。ここで、戦争中、きれいだなんて思ったことありませんよ。あそこに、あそこに来るんだなあと思ってね。あそこまで行けんのかしらと。

出来事の背景出来事の背景

【“終戦” 知られざる7日間】

出来事の背景 写真 神保さんは、ベニヤ板でできた一人乗りのボート・震洋で、敵艦に体当たりする特攻隊に所属していた。8月16日、虚脱状態だった時に、敵艦接近という誤報が入り、出撃準備を整えた。しかし準備中、1隻の震洋が爆発し、誘爆を引き起こし、111人が命を落とした。

証言者プロフィール証言者プロフィール

1927年
栃木県(現在の)那須烏山市に生まれる
1942年
12月、土浦海軍航空隊に入隊(予科練第19期)
1944年
3月、三重海軍航空隊へ
1945年
2月、長崎県川棚臨時魚雷艇訓練所入所
 
5月、高知県手結基地(現・香南市)へ (第8特攻戦隊第128震洋隊)
 
同基地で終戦を迎える
1949年
警察官となる

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