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タイトルタイトル: 「生と死 交錯する思い」 番組名番組名: [NHKスペシャル]“終戦”知られざる7日間 放送日 2015年8月16日
名前名前: 茂市 光平さん(震洋特別攻撃隊 戦地戦地: 日本(高知)  収録年月日収録年月日: 2015年6月8日、7月19日

チャプター

[1]1 チャプター1 震洋特別攻撃隊  04:43
[2]2 チャプター2 繰り返された出撃命令と出撃待機  01:41
[3]3 チャプター3 8月15日  07:12
[4]4 チャプター4 終戦後の出撃命令  07:20
[5]5 チャプター5 無駄死にさせたくない  04:35

チャプター

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番組名番組名: [NHKスペシャル]“終戦”知られざる7日間 放送日 2015年8月16日
収録年月日収録年月日: 2015年6月8日、7月19日

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Q:震洋を初めてご覧になったときのことは、覚えていますか。

覚えてます。

Q:どんなふうに思われましたか。

…あまり、言いたくはないんですけど。「へー、これで」という、気はしましたね。でもまだそのときは、やるんだという、気持ちは、いっぱいでした。亡くなった、先輩のことを考えると、こんなこと言えないんです。

特攻というのは、もう、覚悟はしていましたし。いつかは、どっかで、出撃するんだなあとは、まだ具体的には分かりませんでしたけど、ただ、ああ、こういう小さなボートで、当時、海兵(海軍兵学校)の出た、隊の部隊長がいたんですが、「これを、何十杯で、うんか(雲霞)のごとく殺到して、爆薬積んでって、ぶつかって勝利を挙げるんだ」と、そういうこと言われましてね。ああ、これはこれで、何十艘(そう)で、何十杯で、行くんだなあ。そういうことは漠然と感じていましたね。

Q:基地についたとき、どんなお気持ちでいらっしゃいましたか。

(高知県の)基地についたときは、ちょうど、嵐の、台風でしょうかねえ。またそれとも低気圧のせいですか、海はものすごく荒れてました。我々特攻隊員、45名は、その真っただ中に、越(土佐清水市越)のあの湾に入りましたが、湾も、波立ってましたし。しかし、私らの、戦意はものすごく高いもんで。この、荒波蹴って外洋へ出ようということで、出ました。もう普通なら、漁船も通らない、もちろん通れないし。それだけ震洋には、私らは、絶対の信頼を置いてましたから。転覆することはないと思って。でも出て、あまりの波の高さに、途中で引き返しましたけれども。それくらい我々の、気持ちっていうのは、相当高ぶっていましたね。

いよいよ、来たかという気持ちと、こういうこと言っていいのかな、…まあ、こういう、いよいよ来たという気持ちと、これが取り消しになればなあ、いいなあという気持ちと、ちょっとありましたね。16~17(歳)ですからね。

2回目3回目は案外戦争も落ち着いて、もう敗色濃厚でしたから、もしかしたらもうこれで行かなくてもいいかなっていう気は、ちらっとしましたね。

Q:玉音放送を聞いたときは、これは、まあよく聞こえなかったということですけども、どんなことをおっしゃっているのかなあというふうに、想像しながら、聞かれてました?

それも、感じませんでした。もっとやれと、もっとやれっていうと言葉悪いんですけども。頑張れという意味の放送かなあと思ってましたね。

分かんなかったですね。分かんなかったです。何おっしゃったのか分かんなかった。ややしばらくあって、部隊長から「戦争は終わった、負けた」そういうことをお聞きしました。

Q:茂市さんご自身は、(終戦を知った)そのときどう思われましたか?

難しい、返事が難しい。…今だからいいでしょう、もう、言いますよ。ホっとしました。助かった。それが本音です。

Q:今だからいいでしょうってことは、当時はやっぱとてもそんなこと言えないなと…

もちろん言えません。もちろんそんなことは言えません。

搭乗員は、私の記憶ですよ。搭乗員は、総員、浜辺に集まりました。そして、いよいよ、戦争が負けたんだと。じゃあ、どうしようか、そういう話も出ましたし。自爆するっていう話も出ました。

きれいなお月様出てました。みんな、涙流しながら、そのお月さんを見て、考えたと思います。今でも、当時のことは、あのお月さんは、しっかり頭にこびりついてます。

Q:今、自爆という言葉も出ましたけれども。具体的には、どういうふうにしようということだったんですか?

うん、具体的には、(震洋に)積んでる爆薬、250キロ爆薬ですが。それ、爆破させて、(自爆を)やるかっていう話ですよね。

おめおめ帰れるかっていう、そういう気持ちがあったんじゃないですかね。たぶん、みんなそうじゃないんですかね。

Q:茂市さんご自身は、どうだったんですか?

私も、みんなと、行動共にしようとは思ってました。

今だから思い出して言えっていえば、ちょっと無理かもしれませんけれども、たぶん考える。生きたいっていう気持ちと自決しちゃうっていう気持ち、これは…そのとき、何も証拠も残ってないし。…うん、やっぱり若かったのかな、今考えると。生きたいと、死んでもいいっていうのと生きたいっていうのと、その気持ちが交錯していたと思います。今は、その当時の気持ちにはなれませんから。まあ、そんなとこで勘弁してください。

今度は行くと思いましたよ。確か待機時間も短くなったと思って、6時間か3時間かそんなもんじゃなかったですか。

Q:せっかく戦争終わられてホっとしたところに、また命令かっていう気持ちは、率直に言われるとありました?

ありましたね。なんかそのころは、我々の間でも、どっちが本物なんだっていう気持ちはうすうす広がってましたからね。

なかなか、思うようなように…。…なかなか思うようなようにいかないです。

Q:16日の時点では、戦争は、終わるんだと、いうことは、分かっていたわけですよね?

そうですね。

Q:分かっていたのに、出撃命令が、出ると。このことは当時、どういうふうに思われたんですか?

いや、今そう言われてみますとね、矛盾するんですが。確かに、そのときは、終戦は、分かってるはずですよねえ。それ、できなかったということは、どういうことだ…うーん。

Q:玉音放送があった前と後でですね、いざ出撃すると、いうことが目前に迫ったときの心境に、差はありましたでしょうか。

…うーん、…ちょっと今、答えできませんね。…お答えできかねます。

Q:どういうお気持ちで、16日の出撃待機を待ってらっしゃったんでしょうか。

そうです。16日に、待機命令来たときは、今度は、本物か、また延期か、どっちかかと思って。結局は、延期になったんですけども。その心境を今、ここへ、言ってくれって言われると、なかなか難しい問題です。

参謀がきて、徹底抗戦、下ったらしいんですが。それ、断固拒否したのが渡邊隊長(第132震洋隊長 渡邊國雄中尉)だと、聞いてます。

よほどの覚悟が必要だったでしょうねえ。そんなに、簡単にいくもんじゃなかったんじゃないですか。私、軍隊のことはあまり、ほんの少しの期間ですから、よくは分かりませんけども。渡邊さんも、拒否されたっていうのは相当の覚悟を、いったんじゃないでしょうかね。

Q:どういう思いで、それをされたんだというふうに考えられますか。

おそらく、まあこれは、推測ですけども。隊のみんな、二十歳に満たない、兵隊たちをこのまま無駄死にさせたくないという気持ちで、いっぱいだったんじゃないですかね。

佐官(大佐・中佐・少佐)と尉官(大尉・中尉・少尉)のそのギャップある中で、そういうことを言えるっていうのは、相当の気持ち持って当たらないとできないことだと思うんですよね。すごい方だと思いますよ。

(隊長は)話するにもね、向こうから寄ってきて話もされますし、普通、一兵卒と将校さんでは、相当の開きがあるわけなんですけど、そんなことは感じさせない方でしたから。

渡邊さんも、恐らく学徒出陣で、行かれた方だと思うんですけども。皆さん、私らは全部、昔の中学校出ですから。まあ、兄貴、子分、そういう関係みたいなものがあって、私らも随分かわいがられましたし。また、艇隊長、部隊長も、私らを、後輩、後輩みたいって言うと変ですけど、みんなかわいがってくれましたからね。だから、私らは、渡邊先生は、部隊長は、もう絶対という気もありましたから。部隊長の言うことだったらということで、収まったんじゃないんでしょうか。

出来事の背景出来事の背景

【“終戦” 知られざる7日間】

出来事の背景 写真 茂市さんは、ベニヤ板でできた一人乗りのボート・震洋で、敵艦に体当たりする特攻隊に所属していた。玉音放送後、みんなで自爆しようと話し合うが、隊長に止められる。翌日、司令部は徹底抗戦するため出撃せよとの命令を出すが、隊長はこの命令を拒否した。

証言者プロフィール証言者プロフィール

1928年
青森県三戸郡三戸町に生まれる
1940年
岩手県立福岡中学校(現・福岡高等学校)に入学
1944年
4月、土浦海軍航空隊に入隊 予科練(第14期)
1945年
3月、川棚突撃隊(長崎県川棚町)に入隊
 
5月、第21突撃隊付第132震洋隊
 
6月、越基地(高知県土佐清水市)に進出
 
同基地で終戦を迎える

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