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タイトルタイトル: 「8月16日の出撃待機」 番組名番組名: [NHKスペシャル]“終戦”知られざる7日間 放送日 2015年8月16日
名前名前: 倉持 信五郎さん(震洋特別攻撃隊 戦地戦地: 日本(高知)  収録年月日収録年月日: 2015年6月6日

チャプター

[1]1 チャプター1 “お国のために華々しく”  03:48
[2]2 チャプター2 “こんなもんで やるのか”  05:33
[3]3 チャプター3 終戦の情報  02:45
[4]4 チャプター4 終戦後に出された命令  02:37
[5]5 チャプター5 “徹底抗戦”  02:13
[6]6 チャプター6 “残務整理”  01:45

チャプター

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番組名番組名: [NHKスペシャル]“終戦”知られざる7日間 放送日 2015年8月16日
収録年月日収録年月日: 2015年6月6日

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Q:どういう経緯で、震洋に乗ることになったのか、お話いただけますか。

それはね、土浦海軍の、予科練にね、約2千人ぐらいいたんじゃないかなあ。それがね、全員、練習生って言ったんですね、我々のこと。練習生全員をね、格納庫に、あそこ水上機の基地だったんです、前はね。それで、格納庫のでかいのがあったの。そこへ全員集合しろというね、それで、司令のお話があると、いうんでね、そこへ集められたの。そしたらね、日本の今の戦況は、はかばかしくないっていうようなことも言われた。それで、特殊な兵器ができて、それの搭乗員を募集してると。志願者は、願書を出せと。特攻隊っていうのは、ことは言わなかったけど。特殊兵器の搭乗員を募集してると。志願者は、家族構成、自分の、兄弟、親がいて、妹がいてとか、そういう家族構成を…それで、志願するという願書を出せという、司令の話があったの。帰ってきて、あんな、班長がわら半紙のこのくらいの渡したってね、家族構成書くぐらいのもんで、特にそれに、話によると、血書ね、要するに、血でもって、はんこを押してね、願書出したなんて、話もしてるけど、そんなやつは一人もいなかったよ。それでね、その晩ね、明日出すというときにね、願書じゃない、遺書を書いてるやつかなんかいると思ったら、誰もいない。みんなこれだよ。もうそのころは、あきらめちゃって。

Q:特殊兵器の、搭乗員の募集があったとき、信五郎さんは、結局どういうふうに書いたんですか。

もう、全員もう、願書じゃないけども、家族構成で…。特に出さないやつなんてのは一人もいなかったよ。そのころはみんな、覚悟してたっていうかね。どんな兵器ができて、どんな特攻隊なるかは、分からんけども。まあお国のために、という華々しくというね、気持ちで、それで死ぬのはいやだとか、そういうようなやつは一人もいなかった。

Q:震洋と対面されたときは、どういうふうに思われましたか?

みんながっかりした。こんなやつ。それでね、中隊長とか、部隊長になるやつはね、みんな、帝大出だとかね、卒業間際の、学徒、クラスが、あれだったから。今でも頭に覚えてんのは、慶応ボーイで、太ったやつがいたの。

それがさ、震洋の先っちょの爆雷(爆薬)を入れる、爆雷の蓋がね、あったんだよ。そこへボーンと、桟橋から乗ったらね、その爆雷の蓋が、3ミリぐらいのべニヤでね、足突っ込んじゃったの覚えてる。

粗末。みんながっかりした。もっと華々しくね、すばらしい兵器ができて、アメ公少しでも余計に、道連れにしてやれるのかと思ったら、こんなもんで、やるのかと思って、がっかりしたのが、ほとんどの、予科練出身の我々だったですね。

柏島の震洋隊は、船が24隻あって、2人ずつで48人が、突っ込む、特攻隊の我々なの。その他に、通信隊もいるし、それから、主計隊、要するに、賄いやるのもいるし、全部で、170人ぐらいの部隊だった。それで…、勝てると思ったやつは一人もいねえだろうなあ。

Q:倉持さんたちに、島の方はどういうふうに接しておられたんですか?

あのね、普通何にも感じなかったけどもね、「足摺岬東方洋上、敵機動部隊接近中、第一警戒配備に就け」。明日の朝はアメリカの船にね、ぶつかりに行くんだという命令が出たの。そしたらそういうのはね、通信隊も何人かいるしね、そういう情報は島の人たち狭いからみんな分かって、明日の朝は出撃してね、体当たりに行くんだっていうんでね、道ですれ違ってもね、島の人たちの態度が違うんだよね。それをいちばん感じたね。

Q:どういう感じに変わったんですか、島の方の態度は。

もうね、直立不動で、何て言うかな、女の人でもなんでもね、深く頭を下げるような感じだね。

Q:そのときは実際出撃はあったんですか?

なし。そんなにね、ガソリンもないの。だから出撃1回か2回やればもうね、ガソリンがなくなっちゃう。

Q:出撃が、待機の命令が解除された時は、倉持さんどういうふうに思われましたか?

別にどうこう何も思わないね。これはね、1回じゃすまないと思ってたよ。だってアメリカの船が近くに来ただけで待機でしょ。また来れば待機しなきゃならないんだから。そのたびに気持ち変えてる、なんて器用なことできないよ。

Q:その命令が解除された時は、島の方は何かおっしゃったりしてましたか?

うーん、別に今まではもう、直立不動みたいにしてね、島の人たちはあれしてたけども、2回目からはそんなことなくなっちゃったね。

Q:8月15日、玉音放送があった日は、部隊では、どのように、その日を、迎えられたんですか?

14日にね、もう通信隊ではね、日本がポツダム宣言を受諾して、もう、戦争は終わりだっていうのはね、通信隊はもう、聞いてて。我々んとこに、大体、薄く入って、情報が入ってたの。ほいで、明日のお昼にね、砂浜にね、全員集まれってのよ。全員で、170人ぐらい柏島にいたんだけどね。それにお粗末なテーブル1つでね、ほいで、こういうラジオが1つあってね、コード引っ張って、天皇陛下の放送があるってんで、周り囲んでたの。囲んでてもね、もうすでにもう、通信隊はもう、ポツダム宣言受諾してっていうなの、みんな耳に入って、もう戦争終わりだっての分かってんですよ。「おい、今、何言った、何て言った」つったら。「あ、なんつったんだろうなあ」俺分かってんのは、私もそうだったけど、「堪え難きを堪え、忍び難きを忍び」って、これだけはね、分かったの。あとは、もう天皇の、放送なんて、ろくに分かんなかった。砂浜に、テーブル1つで、170人がぐるっと囲んでね、聞いてたって、はっきり聞こえなかった。

天皇陛下の放送ってのは、あれだな、降伏したあれだなと、みんな、そんときには思ってたから、別に、砂浜に、机1つ出してさ、昔の、なに、こういうラジオ一つ置いて、周り、やってたけど、内容は分かってるから別に、驚きもしない、泣くやつもいねえし、もう、なんていうかな、平静なもんだったよ。

何よりも、みんなうちへ帰れるんだっていう、喜びのほうが多かったように思うよ。あの、戦争が終わってね、うちへ帰れるっていう喜びのほうが、多かったように思う。

「足摺岬東方洋上、敵機動部隊接近中、第一警戒配備に就け」と。海軍で第一警戒配備ってのは、それこそ、前へつけてある、爆雷やなんかに、本チャン用に、角を、整備兵が、しんちゅう(真鍮)の角、爆発するようなね、角をセットして、そういう支度をしてた。ほいで、明日の朝は、その、足摺岬東方洋上に来た、アメリカの艦隊に、突っ込むんだと。ところがひどいもんだよ、コンパスってさ、羅針盤、あれなんか、ねえんだよ。2つあって、隊長の乗る船にだけ1つあるだけなんだよ。ひどいもんだったよ。それについていくだけだよ。

明日出撃とか言うんでさ、整備してたんだよ、私はそばにいたんだけどね。オクタンセレクター(エンジンの調整装置)と言ってね、自動車にはみんな配電器というのが、ほら153624というように、プラグに電気を送るオクタンセレクターというのがあるんだよね。あれを点検している時には、中で切ったり付けたりその接点がやってるから火花が出てるんだよ。それを蓋開けたまま点検していたからね、洞窟内にガソリンやアルコールのガスがあったからね。

ドカーンつったらさ、海へ、3杯が、すっ飛んで出ちゃったんだよ。そんときに信管やなんかつけてなかったから、事故になんなかったけどね。俺の船、いちばん先っちょにあったの。それ見てたんだよ、俺。

終戦になってから、何日かたってね、本部から、海軍中佐(少佐?)が、徹底抗戦、要するに、戦うんだと、言うんでね、震洋を、アメリカの船が来たら、震洋は、出撃、それで残った、部隊ってか、炊事から何からいろんな、あるでしょ。それは、四国の剣山っていう、なんだか知らないけど、山を目がけて、集まって、徹底抗戦しろというふうな、アジ演説をやって、回って歩いたんだよね。

日本は降伏したけども、海軍は、降伏しないで、徹底抗戦するというような内容だと思ったな。徹底的に抗戦するから、そのつもりでいろというような、感じだと思ったな。

Q:そのときに、皆さんはどうされたんですか?

もう、浮き足だって、帰るような支度してるからね、何言ってんだって感じだね。一緒になってね、徹底抗戦なんて、考えてるやつは一人もいなかったんじゃないかなと、私は想像しますね。私はそんときにはもう、本部の、海軍中佐の、お付き武官に、小使いに、命令されて、(宿毛の本部に)行っちゃったから、あとに残った人たちのあれは分かんないけども。

俺が柏島から、土佐清水から、モリシタってやつと、2人が、宿毛の特攻隊の本部、まだ残務整理やなんかあったからね。アメリカに震洋をさ、引き渡すとか、引き渡しまでは、いなきゃなんなかっただろうからね。

終戦から何日かたって、嵐が来たんだよな。嵐が来たときにね、なんで、もう、裸になって、俺とモリシタと、残った震洋の、もやい綱をさ、つなぎ直したり、パンツ一つになって、アメリカにどうせ渡しちゃうのに、爆発しないようにはしないようは、信管がつけてないけど、大事にしてたんだろう、ばかばかしかったなあと、あとでは考えたけどね。そんときにはもう、嵐が来てて、一生懸命、もやい綱を、つなぎ直したりなんかやったんだもんね。引き渡すまではもう、私らの命を懸けた船だという感じだったね。

Q:じゃあ、ぎりぎりまで大事にされてたんですね。

うん、そう、うん。

出来事の背景出来事の背景

【“終戦” 知られざる7日間】

出来事の背景 写真倉持さんは、高知県柏島の震洋の特攻隊に所属し、ベニヤ板でできた震洋で敵艦を沈めることができるのか疑問を持っていた。また終戦後にも徹底抗戦を言う幹部がいたと語る。

証言者プロフィール証言者プロフィール

1925年
東京都墨田区に生まれる
 
明電舎研究所に勤める
1942年
土浦海軍航空隊(予科練)入隊
1945年
6月、第134震洋隊として高知県柏島(大月町)に進出
 
同基地で終戦を迎える
 
戦後は菓子製造業。戦友たちと柏島に記念碑を建て、『柏島賛歌』(柏島震洋碑保存会・出版)に携わった

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