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タイトルタイトル: 「特攻で死んだ者への思い」 番組名番組名: [NHKスペシャル]“終戦”知られざる7日間 放送日 2015年8月16日
名前名前: 村上 孝道さん(震洋特別攻撃隊 戦地戦地: 中華民国(アモイ)  収録年月日収録年月日: 2015年6月10日

チャプター

[1]1 チャプター1 “こんなもん乗れるか”  03:04
[2]2 チャプター2 出撃命令  02:20
[3]3 チャプター3 終戦  01:32
[4]4 チャプター4 “死ぬこと”ではなく“生きること”に  01:23
[5]5 チャプター5 慰霊  02:29

チャプター

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番組名番組名: [NHKスペシャル]“終戦”知られざる7日間 放送日 2015年8月16日
収録年月日収録年月日: 2015年6月10日

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九州行ったら、九州のね、夜に着いて、朝起きて、桟橋に見に行ったらね、ああいう、「震洋」の小さいのをね、一型っていうんだけど。たくさんあるね。「なんだこれは」って。そこにはね、魚雷艇の基地だったもんだから。ああ、魚雷艇を操縦する訓練のあれかなと思って。それで、食事してから、聞いたらね、あれは私らが乗って行く「震洋」だって。「あんなもん乗れるか」っちゅうようなもんでね。一日ぼやいたけど。でも海軍では、そこで、ぼやいて、そんなつむじ曲げてね、飯もろくすっぽね、食わずにね、反抗したのは、海軍であれ初めてだなあ。よくそれを向こうもね、上官もね、黙ってたよ。半日。

みんな、いった連中は、300人かなんぼおりました。「こんなもん乗れるか」ちゅう。それで、僕たちがね、よくあんなことやった、できたなあと思うけど。上官もね。頭あるもんだから。半日で我慢して。それから今度、全部「整列しろ」って。それで、県別、要するに、地方別に、部隊を作ったわけ。それで、静岡県、名古屋とかね、岐阜とか、こちらのほう、連中の部隊と、大阪のほう、他の部隊って。言葉がね、分かりにくいでしょ。そうやって作って。それでそこの中でもってね、訓練をして。それでやって、3か月ぐらいやったのかな。そしてその訓練が終わって。それで、そのときに、特別の攻撃隊だって、特別攻撃隊の、そういう記章ね、そういうあれを、要するに、もらって。それで、昇級も早かった。そこで、兵長、あんたたち、あれ、分かんないだろうけど、なんですかね、兵じゃなくて、下士官になったわけ。

昼間はね、ああいう、秘密兵器なので、昼間はね、全然行動しないですよ。夜、行動でしょ。いちばんね、怖いのは、暗礁。要するによく勉強していかないと。時間のずれがあれば、下の暗礁はね、こうなって、ぶつかる。それから、波の状態が変わってると。そういうほうの勉強は一生懸命した。夜にもね。

Q:8月11日だったでしょうか。実際に、出撃。

ああ。命令があったな。

Q:そのときの命令を受けたときは、どういうお気持ちでいらっしゃいました?

ああ、それはさ、いよいよ来たなと。それで部隊長やね、小隊長みんな、呼ばれてさ。そして、こうやって、第一次、第二次、攻撃隊でもってね、受けてきたわけ。

Q:命令を受けて、いざ出撃っていったとき、最初に、何を考えたんですか、そのときは。

さあ、いよいよ来たなって。来るべきものが来たっていう。だから、こういう、着てるもの全部、着替えちゃって。さら(新)ね、洗濯したもの。継ぎの当たったもの、継ぎの当たったのね。で、要するに、そのときに、飛行服をね、着てね。かまたり(靴)、あれを履いて。そして、出るばっかりだったんだよ。

Q:軍人にとってですね、いざ出陣って、出撃するっていうのは、それは、まあ。

名誉やな。

Q:名誉。

うん。名誉さ、軍人だもん。そうでしょ。

Q:怖いとか。

そういうことはない。

Q:部隊長はどういう様子で、終戦の詔勅を読まれたんですか?

涙流しながら、読んで。涙流しながら。そして、「絶対にね、別行動をとるな」「絶対に別行動とるな」ってことで、「そして死ぬときは、どうしてもしょうがないときは、みんな一緒で死ぬ」と。「だから絶対に俺の言うことを聞け」って。

ふだん無口な人だったけど、こんこんと言われたね、「俺の言うことを聞け、絶対に言うことを聞け」って。天皇、俺の言うことは天皇に言われたことと同じことだと。

「是が非でも、内地へお前たちは帰って、祖国再建に尽くさせるために帰さなきゃならん」っていう、そういう言葉によって、そのときの戦争する、いや降伏したんだから黙って、なんとか耐えて、日本へ帰って再建するんだと。

自爆を、死ぬことは、自分たちは、そんなに難しく考えなかったけど。生きることが難しかった。それでそういう、無気力になったんだがな。

Q:それはやっぱり、当時頭の中にあったのが、いかに死ぬかということを、必死に考えていたからですか?

そうそうそう。それ以外に考えたことなかったんだ。生きることを考えたことなかったよ。

Q:生きることは、考えたことがなかったんですか?

うん。もうそのときには、死ぬために行ったの。だからその、死ぬ目的なくなったんだよ。今度は生きることは難しかった。いかにして生きるか、ちゅう。そうに生きるために、アモイの大学へ、ね。集まって、そこで生きる、道を、水とかね、そういう食料とかのいうものの、あれを、手がけるように、みんなで、あそこにあった、あそこに30人ばっか集まって、それを、考え始めた。

Q:これは、ご自分で作られたんですか。

そうそう。3年かかったよ。

これを8月の15日に、ここへ出してそして、私一人でね、ここで、やってやれば、みんな集まるだろうちゅうことで、それで、これを作ったわけ。だから、ゼロ戦のあれは、飛行機の連中と、震洋の連中と、そういう、それから、合わせて、みんながね、亡くなっちゃった人も、慰めてあげようということで、なったわけね。

Q:それというのは、戦後、生きてくる上でですね、村上さんにとって、そういうふうに戦友を、慰めると。

私一人、ね、特攻で行ってだよ、生きて帰ってきたという、その負の思いがあるじゃん。みんなそうなんよ。皆さん全部そう。そういう人たちに、生きて帰ってきた人は、みんなそういう、……そういうあれが出てるのね。その負の思いをね、少しでもやわらげようと、それでそういうふうな、あれをやってるうちに。これもそのつもりで、作ったわけね。

Q:何に対しての、負の思い。

生きてしまったことだね。国を守る、守らない、そういうことを、それは別としてね。負の思いは、生きてしまったこと。それがね、何にもできずに、生きてしまったこと。それがね、いちばんの負の思いだね。

出来事の背景出来事の背景

【“終戦” 知られざる7日間】

出来事の背景 写真村上さんは、中国アモイの震洋の特攻隊に所属していた。予科練を終えたが飛行機がなく、特殊兵器・震洋への志願を求められた。長崎の訓練基地で初めて震洋を見た時の印象は、「なんだこれは」だった。本格的な出撃をすることなく終戦。特攻で亡くなった仲間たちへの慰霊を続けている。

証言者プロフィール証言者プロフィール

1926年
愛知県名古屋市西区に生まれる
1941年
12月、海軍飛行予科練習生として入隊
1944年
長崎県川棚で震洋の訓練を受ける
1945年
南支那派遣軍のアモイ根拠地隊へ
 
アモイ島で終戦を迎える
1946年
2月、帰国
 
名古屋市役所に勤めた後、静岡市の瑞雲寺住職となる
2017年
逝去

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