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タイトルタイトル: 「若き特攻隊員として」 番組名番組名: [NHKスペシャル]“終戦”知られざる7日間 放送日 2015年8月16日
名前名前: 山口 健三さん(震洋特別攻撃隊 戦地戦地: 日本(高知)  収録年月日収録年月日: 2015年6月9日

チャプター

[1]1 チャプター1 憧れの予科練へ  02:15
[2]2 チャプター2 厳しい訓練  01:59
[3]3 チャプター3 “いくらか役に立てるかな”  04:44
[4]4 チャプター4 島の人たちとのつきあい  02:10
[5]5 チャプター5 “死の恐怖はなかった”  02:34
[6]6 チャプター6 “じっとしていろ”  03:48
[7]7 チャプター7 終戦  02:22
[8]8 チャプター8 手記  03:34

チャプター

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番組名番組名: [NHKスペシャル]“終戦”知られざる7日間 放送日 2015年8月16日
収録年月日収録年月日: 2015年6月9日

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予科練入ったのはね、学校に海軍士官が来て、募集に来たわけ。そのときにすごくいい話ばっかりだったわけ。食べ物はこうだとかなんだとか、それと洋服、それに憧れて行ったわけ。別に国のためだとかなんだとかそういうことじゃなくて、憧れで行っちゃった。

Q:そのときは中学生だったんですか?

だから、昔の中学4年。

Q:実際、予科練での生活は、いかがでしたか?

うーん、みんなどうか知らないけど、俺は、あんまり痛めつけられた経験があんまりないし、そんなに悪い環境ではなかったね。ただ食事だけは、ひどい食事だったよ。

Q:どんな食事だったんです?

もう、歌の文句じゃないけどさ、「カネの茶わんに竹のはし、仏さまではあるまいし、一ぜん飯とは情けない」って歌があるんだけど、もうそのとおり。だって、おすましなんか白魚がパラパラと泳いでるぐらいのおつゆしか出ないんだから。おかずなんかは、たくあん2切れ、3切れぐらい。あとはメザシが2~3本、それを2人で食べんだから。そのくらい悪かった。食事はひどかった。よくあれで生きてたよ。

相当、訓練厳しかったよ。もう…1日訓練が終わると、もう食事して、すぐ反省会って、反省会の時はもう殴られるだけだからね。毎日じゃないけどね、殴られるのは。なんか、失敗なんかしたらもう、団体責任だから全部が殴られるから。殴るほうも大変だよ、あんだけの人数みんな殴るんだから、鉄拳で。大変ですよ。

もうどっちにしたって我々は消耗品だったから、もう教員やなんかだって、我々なんかもう消耗品だと思ってんだから、

ということはね、外出なんかするとすぐ分かるの。陸軍で言うと憲兵がね、海軍で言うと巡ら(邏)って言ってたんだけど、そういうのがね、俺たちうろうろしてっと呼び止めて、「お前ら、何やってんだ」って言われるで、すると、「第25嵐部隊だ」って、こう言うと、「あ、特攻隊か。いいよ」そんなもんで。だから、普通の人だったら捕まっちゃうんだけども、我々はそういうの捕まんない。結局もう、先がもう見えてるから。そういう意味では、ああ、俺たちはもう、どっちにしても消耗品だなっていう感じは、したね。その当時。

Q:震洋に乗ることになるわけですけど、どういった経緯で震洋に…

ありゃ志願。

Q:志願。

志願と指名、両方。

Q:どういうふうな言われ方をして志願したんですか?

これからこういう部隊編成するから、行きたいものは前へどうぞということで。で、人数が足りないと指名された。それで人数そろえた。

Q:こういう部隊っていうのは、当時は、どこまでこう情報は。

いや、言われた時に、こういう部隊だってのは、内容は言わない。全然内容は言わない。

Q:内容も言われず、どういった任務かも明かされずだったんですか?

うん。今度は、こういう部隊に編成されるから、お前らそこへ行けって言うだけで。

Q:志願と指名があったということですが、山口さんは、どうされた…

志願した。

Q:それはその、別に志願せいということは、無理して志願しなくて…

無理してなんか、結局どっか行かなきゃなんないからね、そしたら早いほうがいいと思って。

行ったのは、最初、呉の潜水艦基地っていうのは、そこへ、仮に1か月ぐらいいたかな、それから川棚(長崎県)行って。川棚に1か月訓練受けて。川棚、あそこの大村湾で、もう敵の船にぶつかる訓練だけ。

Q:その新しい部隊っていう部隊が何をする部隊でっていうことを知ったのは、どこでですか?

もう、それは川棚行く時に、もう分かった。その前にね、予科練卒業ちょっと前に横須賀に行ったことあんの、部隊ごとに。そのときに俺たちが乗る船が訓練やってんの見たの。そんときに俺たちがこれ乗るんだ、なんか思わなかったけども、川棚行って、行ってから、「あ、これか」なんて。

Q:最初にその震洋見た時っていうのは、どういう印象だったんですか?

うん、まあ、モーターボートみたいな感じだったからね。中に爆薬積んで、訓練してるわけでもなんでもないから、ボートレースやってるような感じだね。

俺たちの船なんか、ああいうベニヤ板の船で爆薬も300キロぐらいしかないから、向こうの戦艦だとか巡洋艦、ああいうものには、やれない。効かない。大体輸送船が主だよね。輸送船なんかだったら3台ぐらい、3隻ぐらいぶつかりゃ沈められる。もう、戦艦だとか巡洋艦、あんなのもう、こたえないんじゃない? あんな船じゃ。もう、ああいうふうなほら、昔の特殊潜航艇だとか回天だとか、ああいうのじゃないけど、沈めらんない、恐らく。あんなベニヤ板の船で…。

Q:当時は、それでも、ベニヤ板の船でも与えられた船で任務をこなそうと。

そう。とにかくもう、軍隊ってのはもう絶対命令だからさ、もう反対もできなきゃ、やれっていうことは、やるしかないよ。

Q:その当時は、自分が特攻隊員になるということを知った時っていうのは、どういう心持ちだったんですか?

うーん、まあ、これでいくらか役に立てるかな、ぐらいしか思わないね。

Q:その柏島(大月町)に着いた時は、どういうふうなお気持ちでした?

うん、いいとこだなと思ったよ。あの島見た時。ほら、住んでる人も非常にいい人たちばっかりだから。だから、今、いちばんの、88(歳)になるけど、いちばんのいい思い出は柏島ですよ。だから今だにつきあってる。

Q:当時柏島の方たちとは、その着いてから、どういうおつきあいがあったんですか?

行くとね、我々ほらもう、毎日酒飲んでたから、芋焼酎なんか造ってたわけ、それ飲んでね。なんか、いい魚がとれると、「山口さん、いらっしゃいよ」なんつって、亀井さんとこなんか、亀井さんの男親は漁業組合の組合長を確かやってた。マグロとれた時にはよ、「食べに来なよ」、…焼酎飲んで。で、その代わりに、俺たちほら、配給が、練乳だとかチョコレートだとか……配給になるわけ、全然そんな飲まないのに。そういうのは乳飲み子なんかいるとこ、みんな配った。だから、そういう意味では島の人との交流ってのは、すぐなじんだ。

Q:当時16か17(歳)で死ぬっていうことが運命づけられるわけですよね。

うん。でもね、死ぬっていうことについて恐ろしさとか怖さっていうの全然なかったね。年配の人だとかなんかは、ほら、まあ、そういうのすぐ感じるから、だから特攻隊には年配の人は入れなかったわけ。我々みたいな子どもだね、子ども使って。もう死ぬとかそういうのは、意外と怖さとかそういうのは感じない。だから出撃命令が出た時も、ワーッとパニックになってるけど怖いっていう感じはひとつもなかった。だけど不思議とね、出撃命令がね、中止になって、帰ってきた時はね、何かホっとしたね。行くって時には怖さとか何もなかった。

実際ね、国のためだとか、天皇陛下のためなんて考えたことないね。ほんとにそう思ってたのかって、俺はいまだに疑問だよな。

Q:山口さんは、じゃあ、何のために戦おうというふうに思ってたんですか?

うん…、何のためにってそういう、改めて聞かれると分かんないけど、もう成り行きみたいなもんだな。だから我々みたいなガキがみんな特攻隊に選ばれたんじゃない? 何がなんだか分かんねえやつじゃないとやれないもん。もう思考力のある人だったら絶対ぶつからないと思うよ。これで行ったらもう死んじゃうんだなんて思ったら、恐らく出て行かないと思うよ。俺たちみたいな何がなんだか、わけの分かんないやつが、みんな、だから特攻隊に選ばれたわけだから。

(機銃)掃射ん時はね、とにかく飛行機が来るの分かるから、反対側に逃げることしか考えないね、そんとき、俺ハヤカワってのと2人でいたんだけど、ちょうど、あそこにある、神社が1つあった。そこに石垣あった。そこをこう行ったり来たりして逃げたけどね。そのときに島のおばちゃんが薪(まき)をしょってうろうろしてた。もう、ああいう時ってね、そういうもんだよ。大事なもの持ってんじゃない、薪しょってんだもん。

あんときもう、逃げるのが精いっぱいだよね。とにかく当たったら死んじゃうからさ。でも機銃掃射なんての…2回ぐらいあったのかな、あんまりなかったの、柏島ってのは。意外とね、米軍どもは、その特攻基地っての分かんなかったんじゃない? だからいろんな襲撃ってのは、ほんとになかったよ。あそこから、沖の島ってのはもう、年中空爆されてたからね。あそこは、特攻基地って米軍でも分かんなかったんじゃない、あんまり。

Q:機銃掃射されたりした時は、そのアメリカの飛行機に対してどうしたいとか、いうのは…

どうしたって、俺たちで決めることじゃないから、上官が決めることだから。上官が機銃掃射して、こうして機銃で落としちゃえっていう命令が来ればやるかもしんないけども、そういう命令じゃないもう、「じっとしてろ」って言うだけだから。

Q:その部隊長の半谷さん(第134震洋隊長・半谷達哉中尉)は、そのときは、どういう指示を出されたんですか?

もう、「じっとしてろ」と。手向かっちゃいけないっていうことですよ。

隊長も苦渋の選択だったと思うけども、ああいう…、抑えられたってことだね。ちょっとヤバいかなっていう、この戦争ヤバいかなっていう感じはしたよね。

恐らく、あそこで反撃したら、あんな島なんかもう跡形なくやられちゃったって思うよ。そういう意味では半谷さんに感謝感激だよ。あそこで苦渋の選択をしてくれたことが今、俺だってこうやって幸せでいられるってのは、柏島の人もそうだけど、半谷さんのお陰だよ。うん、立派な隊長だよ、半谷さんは。あれ、血気盛んな隊長だったらもう、やってるよ。ほんと半谷さんには感謝しきれないよ。

玉音放送分かんない、聞かない。ああいう島だから、もうラジオなんかどこでやってんだか分かんねえぐらいだもの。ただあの、隊長に言われただけで。もう戦争終わったっていうことで。だから玉音放送っての、聞いてない。ま、聞いた人もいるかもしんないけどね。たまたまラジオなんかあるうちにいた人は聞いたかも分かんない、俺なんか外にいたから。

うーん、まあ、戦争終わったっていうことを…ホっとした反面に、これからどうしようかって思ったよね。目標を失っちゃったんだから。大きな目標ね。戦争に勝つためっていう大きな目標なくなっちゃったんだから。

Q:最初は、そういうその目標を失ってどうしようかっていうことが。

もう考えらんない、何も考えらんなかった。とにかくまあ、うちに帰ることだけ。

Q:負けたっていうことをどういうふうに受け止めたんですか?

あのね、負けたとか勝ったという印象全然ないの、ということは戦争してないから。全然やってないから、そういう今、松島さん(聞き手)が言うような、そのこと全然考えない。負けたから悔しいとかさ、そういうのないよな。実際、敵と戦ったりなんかしてたらそういう感じは、あるかもしんない、ないんだもん。敵の艦隊見たことないんだから。

『全員集合、分隊長訓話より、本日より特別分隊は編成する。その分隊はマル特と呼称する。ただ今より指名されたる者はマル特に編成、編入、新規訓練を受ける。ついに来たるべきものは来たのだ。

我々には第六感というものがある。特攻隊編成なのだ。

最初から特攻隊編成といってくれれば気持ちよいのに、我々も軍人の端くれ、沈黙と守る、これが非常に残念である』

Q:当時、特攻隊と言われなかったけれども特攻隊だっていうことを感じていらっしゃったんですね。

うん。特攻隊って言わないで、マル特って言ったからね。

「8月15日」

『降伏という悲憤の現状に直面せり。15日、15日、民家の者より降伏の声を聞く。

信じられず、そんなことはないと否定せるも不安にたえなかった。しかし悲しき降伏の報道は、その日の午後、部隊長より正式発表あり』

……もう、目が見えない。

Q:当時の率直な気持ちが書かれてますね。

うん。

Q:悔しかったんですか。

よくこんなこと書いてたな、俺も。

出来事の背景出来事の背景

【“終戦” 知られざる7日間】

出来事の背景 写真山口さんは、高知県柏島の震洋の特攻隊に所属していた。特攻隊に選ばれたのは、何のために戦うのか分からない、生と死の分別をまだ持っていない無垢(むく)な若者たちだったという。そして敵と交戦した経験がなかったので、終戦で、悔しさを感じなかったと語る。

証言者プロフィール証言者プロフィール

1927年
千葉県船橋市に生まれる
 
千葉県立千葉商業学校(現・県立千葉商業高校)で学ぶ
1944年
4月、土浦海軍航空隊(予科練・甲14期一次)入隊
1945年
長崎県川棚町で震洋の訓練を受ける
 
6月、第25嵐部隊第134震洋隊(半谷隊)として、高知県柏島(大月町)に進出
 
同基地で終戦を迎える
 
会社員

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