ホーム » 証言 » 張本 勲さん

証言証言

証言をご覧になる前にお読みください。

証言一覧へ戻る証言一覧

タイトルタイトル: 「戦争はまだ終わっていない」 番組名番組名: [おはよう日本(首都圏)]シリーズ 戦後72年 張本勲さん 最後の伝え手として 放送日 2017年8月14日
名前名前: 張本 勲さん(張本勲さんの戦争体験 戦地戦地: 日本(広島)  収録年月日収録年月日: 2017年7月19日

チャプター

[1]1 チャプター1 忘れられない8月6日  03:26
[2]2 チャプター2 目の前に広がる地獄絵  04:40
[3]3 チャプター3 “一緒に遊ぶな”  02:11
[4]4 チャプター4 野球を続けていたい  02:26
[5]5 チャプター5 原爆の悲劇を語り継ぐ責任  04:20

チャプター

1
2
3
4
5

提供写真提供写真

番組名番組名: [おはよう日本(首都圏)]シリーズ 戦後72年 張本勲さん 最後の伝え手として 放送日 2017年8月14日
収録年月日収録年月日: 2017年7月19日

証言をご覧になる前にお読みください。

再生テキスト再生テキスト

Q:戦後72年がたちますけれども、どうでしょう、夏になるとあのころを思い出したりということはありますか?

必ず思い出しますよね。まあ、70何年ですけども、戦争は終わりましたけどね、われわれ被爆者には(戦争は)もう終わりはないですからね。ですから、8月になると本当にいやな思いをしますよね。6日と9日、広島と長崎に原爆を落とされましたからね。

Q:その72年前の8月6日のことを教えていただけますか?

5歳でしたからね、今の5歳と当時の5歳はだいぶん年齢差がねえ、あるような気がするんですよ、昔の子のほうがませておりましたからねえ。まあ、微に入り細に入り覚えてはおりませんけども、それこそピカドン、5歳でしたから路地裏で遊ぼうと思って、あのドアを開けたらね、ほんとにぱあと光って、「どーん」という音がしたことしか覚えてないんですよ。気がついたらね、ちょっと赤い感じで、どうしたのかなと思ったら、お袋が上に覆いかぶさって、私と上の姉をね、かばってくれたんですよ。ですからガラスの破片が体にちょっと食い込んで血がにじんでおったそうですよ。それで赤く見えたんですがね。で、「すぐ逃げなさい」、50mくらいですかね、「ブドウ畑にね、避難しなさい」と。で、「お母ちゃんは?」と言ったら、「お兄ちゃんとお姉ちゃんを待ってるから」と言うんで。もう江戸時代の長屋と一緒ですからね。比治山というのがあるんですよ。海抜72mなんですよ。その我々は陰でね、どうでしょう、長屋で15,6軒ありましたかね。反対側が原爆ドームですから。

その比治山の陰で我々の長屋だけは助かったんですよ。光とか、煙とか吸ってないから。ですから、その先の、どうでしょう、2キロぐらい先の人はもう全滅でしたよ。運がよかったと思いますね。もちろん木造ですから家は全部ぺしゃんこになりましたけどね。

Q:ブドウ畑に避難されて、そこでいろんな光景を見られて…

もう逃げていったらね、もう何十人も避難してましたですよ、ええ。まあ、そのときは子どもですからね、うめき声とね、叫び声、どうなるんかと思いましたね。世の中がこのまま無くなるんじゃないかという気持ちさえありましたからね。

2日後か3日ぐらい、しっかり覚えているのはうめき声ね。もう夜中には苦しい、痛いんでしょうね。それと、におい、人肉のにおい、非常にくさいにおいがね、この二つは覚えてますね。あとは我々のところへ、目の前の何人も、走っていって、どぶ川に飛び込むんですよ、熱いから。全部亡くなったそうですよ。覚えてるのはそれぐらいですね。文字通り地獄絵と言うような感じでしたね。

ケロイドでね、全身焼けてね、見るに見れない状態でしたからね。そのにおいがもう鼻についてね、眠れませんでしたね。それも一人や二人じゃありませんからね、何十人ですから。

すぐ上の姉を、と私をお袋がかぶさって、覆いかぶさって助けてくれたんですがね、
6歳上の姉はね、勤労奉仕で比治山のてっぺんにおったそうですよ。当時は勤労奉仕といいましてね、まあいろいろ、木を集めたりしたんでしょうね。それで全員、全滅みたいだったそうですよ。

1日半ぐらいでね、赤十字の方が担架でね、あの、昔はこう名札がついてたんですよね。小学校6年生で。「張本さん」という声がしたもんですから、上の、一番上の兄貴が手を挙げて。もうそれはね、自分の姉はねえ、これが私の本当の姉かと思ったぐらいですよ、ケロイドですから、焼けただれてねえ。自慢の姉でしたんですよ、よく友達にね、「勲ちゃんはええのお、綺麗なお姉ちゃんがおるけん」、広島弁で言われてね、自慢の姉だったんですよ、色が白くて背が高くて。見るに無残なね、これが本当俺の姉さんかと思ったぐらいですよ。まあ、どうでしょう、一晩ちょっとですかね、亡くなりましたよ。まあ、「痛い」「苦しい」「熱い」考えたらもうねえ、涙が出ますよ。お袋も2日くらいは一睡もしてないと思いますよ。溺愛するわが子がね、なすすべがないんですから、医者もいませんしね。冷たい蛇口もありませんしね、ぬるい水道の、自分の衣類引きちぎってね、濡らしてね、体に当てるぐらいですから。

はっきり覚えてないんですがね、ブドウを採って口に当てて、かすかに「ありがとう」と言ったことは覚えてるような気がするんですがね。水が出たか出なかったか、汁が、ちょっと記憶がないんですよ。うーん。

Q:お母様はどうしてらっしゃったんですか?

もうそりゃ、亡くなるまでに泣いてましたですよ。それでいつ亡くなったのか聞いても答えてくれませんでした。兄貴に聞いてもね、「俺も分からん」と。ま、子どもですから寝ておったんでしょうね。寝れなくても寝たり起きたりしてたと思うんですよ。朝方大きな声でお袋が泣いたそうですよ。だからそのときじゃないかと。でお袋に聞いてもね、言ってくれませんでした。だから亡くなってからね、髪の毛一本、写真一枚、ないです。ええ、あの、文化の違いで、日本の方は残すじゃないですか、形見として、思い出として。韓国から来たお袋ですから、文化としてね、一切残さないんですね、残すとまた思い出すんじゃないでしょうか。小さな写真持っておったんですがね、兄貴と二人で隠して、それも見つかってね、焼かれましたですよ。
(そうですか)はい。

まあ友人知人はもう限りなく亡くなりましたしね、学校通ってもケロイド、もうたくさんいましたからね。当時は面白いもんで、えー、転校してきたとか、全然他の被害遭ってない家族の子どもが一緒に学校行きますよね。すると被爆者我々に対して、「一緒に遊ぶな」と言われたんですよ、「うつるから」と。うつるわけないんですよね、これはやけどですからね。だけど父兄にすると、何か吸い込んでるから、そういうものが伝染して自分の子どもにうつるんじゃないかという誤解をされたことはいくらでもありましたから。だから被爆者はどうでしょう、村八分みたいにね、そういう連中だけ固まって遊んでたからね。私も物心ついてから一切被爆者と言わなかったんですよ。もう言う必要もないと思ったからね。言えばそういうね、もう無意識のうちに差別されるんじゃないかという気がありましたからね。

Q:現役時代に被爆者であることをあまり公にされなかったのは、やっぱりそういうことが…

いやもうそういうのもありますしね、あえて言う必要ないと思いましたからね、ええ。

Q:やっぱり被爆者への差別というのは感じられてましたか?

そう、子どもの頃はねえ、何でかなと思ったんですがね。物心ついて、そういう話をちらほら聞きましたからね。私は見た目は全然被爆じゃないからね。で私らにはそういう話をするんですよ。で、ケロイド乙女とかね、ケロイドの姿の生徒には「あの人たちには近寄るなと言ってるんですよ」と言うからね、びっくりしますわね。「ええっ」と思ったことはありますよ。

まあ野球やってる間は忘れてますからね。で年に一回球団で健康診断があるんですよ。そのときは嫌ですわね、「ひょっとしたら」という気持ちになりますわね。

Q:やっぱりそうですか?

ええ、一週間前から、で、結果が出るのは一週間後、ほっとしますわね、何もないと言われたら。

Q:それはいつごろまで?

いやこれもう終わるまで、現役を引退するまでそういう気持ちがありましたからね。

そりゃ体調が悪いとね、どうでしょう、高校のときぐらいから「ひょっとしたら」という気持ちは常にありましたけどね。

Q:そしてあの、自分が被爆者で、原爆症がもし出たら、当然現役生活続けられないわけですよね?

そうですよ。そうです。

Q:そのあたりの恐れというのはいかがでしたか?

まあ、常につきまといますわね。特にシーズン中は野球に必死で取り組んでますからね、忘れがちですけれども、シーズンオフはね、まあ、そういう気持ちになるときもありましたけどね。

Q:ただ、一方で、その被爆の経験があったからこそ、プロ野球選手としてこれだけの実績を上げられたというところはありましたか?

いや、それはありませんよ。できれば被爆、じゃないほうがいいにきまっとるじゃないですか。ただ私らの時代は皆貧乏でしたからね。あのー、目的はもうおいしいものを腹いっぱい食べたいというのと、まあお袋が苦労してますから、6畳一間のトタン屋根のバラックからお袋を連れ出して、小さな家でも建てたいと、この念願がありましたからね。原爆症、被爆者だから、うん、がんばって、野球をがんばったということはないと思いますね。不安の方がやっぱりあるじゃないですか。野球選手続けていくうちにね。そういう気持ちは強いんだけどね、おいしいもの食べたい、いい生活をしたい、ところが反面、「ひょっとしたら駄目になるんじゃないか」、というような不安の方が多いいですよ。ええ。被爆者だから野球をがんばってこれたということはないと思います。

Q:原爆で亡くなった人たちにはそれぞれ可能性があったわけですよね?

そうです。

Q:そのあたりはどうお考えですか?

いやあそらあ20万人以上と言われてますけどね、その中にはノーベル賞とった人も出てきたでしょうしね、野球選手になった私なんかよりも数段優れた選手が出たかも分からないしね。それはもったいないじゃないですか、ねえ。20万人以上ですから。200人でも多いのにね、20人でも多いのに。尊い命がね。ですから私は犠牲と言ってないんですよ。私らの身代わりなんですね、あの人たちは。身代わりですから、他人の県だと、例えば北海道だろうが九州であろうがね、広島とずいぶん離れてますけどもね、同一民族だし、つながっているかも分からない、友人知人、あるいは血縁かも分からないじゃないですか。この国の人はみんなね、家族だと思ってますから、犠牲じゃなくてね、身代わりだと思ってますからね。

Q:そもそも被爆者であることを自分からはお話にならなかった張本さんが、それを積極的に語り継ごうと思われたのは…

これはね、どうでしょう、テレビを見てて若い人たちの座談会で、原爆が落ちた都市も知らないと、いつなんどきいうのは分からんでもないけどね、せめて広島長崎に原爆が落とされたというぐらいはね、知ってもらいたいわね、いくら若い人でも。学校は何を教えてるんか。歴史はやってるのか。そういうのがびっくりしたんですよ。まだこんな子が日本におるのかと。こんな若い人たちが、日本におるのかと。その身代わりの人たちのためにね、こんな立派な国になったんじゃないかと、思ってハッとしましたよ。これがひとつとね。当時小学校5年生の子ですよ。九州の子がね。私は8月6日と9日とね、この日付を飛ばしてね、なくしてもらいたいという寄稿を出したんです、寄稿というのは新聞にね、投書したんですよ。そうするとね、なんかで読んだんでしょうね、その子が「逆じゃあないでしょうかと。忘れないためにもね、そういう悲しい出来事が、悲惨な出来事が、忘れないためにも子々孫々まで6日と9日と残したほうがいいと思います」と、新聞社経由でね、私に届いたんですよ。「私は(長崎原爆資料館に)行ってきましたと。怖くて怖くてね、全部見てきました」と。私もね、行ったことがあるんですよ。広島ねえ、記念館に。原爆記念館に。2回ばかし。入れなかったのよ。手が震えてね、汗が出てね、やった相手がわかっとるからね、余計悔しいんだ。姉も取られてるしね。引き返したことがある、2回ばかし。それでその小学校の女の子のね、寄稿を、投書を見てびっくりしてね、あとを押されたみたいで行ってきましたよ。それで半券をね「その子に渡してくれ」と、行ってきたということでね、新聞社に送ってもらいました、私。

我々がねえ、最後のメッセンジャーなんですよ。私らの先輩はねえ、もうご高齢ですから、発言する機会もね、ありませんでしょうし、ふせっている方が多いですから。私らの年代が最後のね、ですから5歳でしたよね、当時。私らの年代が最後のメッセンジャーだからね、その責任があるじゃないかと。

出来事の背景出来事の背景

【張本勲さんの戦争体験】

出来事の背景 写真元プロ野球選手の張本勲さんは、5歳の時、実家のある広島で原爆に遭いました。爆心地から2キロ以上離れた山の陰だったため難を逃れましたが、勤労奉仕に出ていた6歳年上の姉が犠牲になりました。
学校ではケロイドを負った被爆者は“一緒に遊ぶな”などと差別されていたため、張本さんは物心ついてから自分が被爆者とは一切言わなくなりました。
日本プロ野球史上初となる通算3000本安打を達成したという華々しい活躍の陰で、毎年行われる球団の健康診断では「ひょっとしたら原爆症が出るかもしれない」という不安に襲われていました。
被爆者であることを自分からは話さなかった張本さんが、積極的に語り継ごうと思ったのにはあるきっかけがあります。60歳代のころ「(つらい思い出のある)8月6日と9日をカレンダーから無くして欲しい」という寄稿を新聞に出したところ、見知らぬ小学5年生の女の子から「悲惨な出来事を忘れないためにも、子々孫々まで6日と9日と残したほうがいい。私は(長崎原爆資料館に)行ってきました。怖かったですが全部見てきました。」という投書が寄せられました。この見知らぬ小学生に後押しをされて張本さんは初めて広島平和記念資料館を訪れ、また、自身の被爆体験を語り始めたのです。

証言者プロフィール証言者プロフィール

1940年
6月19日、広島市に生まれる
1945年
8月6日、広島に原爆が投下され、自宅で被爆する
1959年
プロ野球選手となり、東映フライヤーズに入団
1980年
日本プロ野球史上初となる通算3000本安打を達成
1981年
プロ野球を引退する

関連する地図関連する地図

日本(広島)

地図から検索

関連する証言

関連するニュース