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タイトルタイトル: 「つらかった子守りの記憶」 番組名番組名: [ハートネットTV] 平和じゃないと生きられない ~沖縄で語りだした障害者たち~
名前名前: 山田 親幸さん(障害者(日本) 沖縄戦 戦地戦地: 日本(沖縄・名護)  収録年月日収録年月日: 2014年9月15日

チャプター

[1]1 チャプター1 いじめと差別  06:23
[2]2 チャプター2 十・十空襲  05:39
[3]3 チャプター3 取り囲まれた沖縄本島  03:32
[4]4 チャプター4 『泣いた子守り』  06:05
[5]5 チャプター5 家族で決めた投降  06:57
[6]6 チャプター6 戦後も続いた“死”  05:55
[7]7 チャプター7 “戦争協力”に向かわせる障害者への偏見  04:17

チャプター

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Q(聞き手・大城友弥さん):さっそく、なんですけれども、山田さん、国民学校、戦争中だったと思うんですけど、そこでは、どんな教育を受けていましたか?

おっしゃるとおり、国民学校というのは、今は小学校ですよね。ちょうど私のときから、国民学校になったんですけどね、ちょうど昭和16年。小学校が国民学校になったというだけじゃなくてね、もう勉強の中身もみんな変わってきたんですよね。例えば、体育の時間が前は週に1時間しかなかったものが5時間になるとかね、みんな身体を鍛えなさいとかいう感じで、勉強する内容も変わりましたね。それが私は1年生から戦争直前まで4年生までずっとそんな教育を受けました。

Q:山田さんは今、視覚に、僕もそうですけど、障害を持っていますけど、障害があるっていうことをどう思っていましたか?

そのときは、強度の弱視でした。生まれつきの弱視でね。通信簿によると、(視力が)0.3と書かれていたようですが、本当はそれよりも1つ0が多くて、0.03ぐらいだったんじゃないかなと思います。だから、教科書も見えない、黒板に書かれる字も見えなかったですが、もっぱら先生の話す、授業で先生がしゃべることだけが僕の勉強の内容でしたけどね。やっぱり、障害を持っているというので、1~2年生のころは何も変わらなかったですが、3~4年生ぐらいになると、みんな生徒に聞くと、「君は将来何をするか」って聞かれたら、「陸軍大将になります」とか。「海軍大将になります」とか。そういう時代ですから、僕も一人前に言うと、ちょっとませた同級生が「君は目も見えないのになれるもんか」とかね、そういういじめも受けましたし。取っ組み合いになると、僕はちょっと太っていましたから勝ちよったんですがね。石を投げられたり、何かを投げられたりすると、投げられた石が見えないもんだから、いちばん怖かったですよね。そういういじめは受けましたけれども。でも、僕よりはるかに頭もいいとか、僕よりはるかに強い同級生は、僕は非常に親しかったんですよね。だもんだから、あまりそういういじめも、障害があるからといういじめも苦にならなかったんですが。どっこいどっこいの、何もかもどっこいどっこいの者に時々いじめられましたね。だから、障害というのは嫌だなと思いました。

Q(ディレクター):障害があったことで、皆さんがやっている訓練とか、そういうときはどういうふうに過ごされていて、どう思われていたのかお伺いできますか?

そのときはあんまり、できないという訓練はないですよね、強度の弱視でね。よく強度の弱視の場合には、今の時代は生活視力と言っていますが、でも、やはり下手です。何もかも下手ですから。そういう作業とか、農作業とか、あるいは、学校に農場がありましたから、農作業とか、山に行ってまきを取りに行くとか、体操の時間とか、そういうのは非常に苦手でしたね。授業じゃなくて、そういうのがあるときには、学校行きたくないなといつも思っていましたけどね。

Q:恥ずかしいとか、悔しいとか、どういう気持ちなんですかね。

みじめになるんですね。悔しいというかな。それだけですよ。恥ずかしいということは、「これもできないか」とか冷やかされると、やっぱり恥ずかしいもんだから、突っ張っていました。

8時ごろですよ。「8時ごろに県道に集合」といって、バス停ですよね。そこに皆集まって兵隊を見送るんですが、10月10日の日ですよ。みんな並んで見送ろうとしていたら、東のほうからたくさんの飛行機が飛んでくるんですよ。黒い飛行機と白い飛行機が。まだ空襲警報も何もかかっていませんよ。だから、「あれは日本軍が奪った飛行機だ」とか、「アメリカの飛行機だけど奪ったんだ」とか、いろんなことを想像したりしながら、そういう飛行機を迎えたんですね。幸いに僕らのほうに撃つこともないから、ずっと西のほうへ行って、伊江島(いえじま)とかあの辺に行って、ドカン、ドカンと音がするんですよ、爆弾のね。喜如嘉(国頭郡大宜味村)はどうもなかったですが。そういう状態でしたね。

そして、しばらくしたら、警防団といって、いろんなものを通報、連絡する人たちが各字にいたんですが、その人が自転車で、西のほうから、西というのは、塩屋(大宜味村)というところに警察があったから、そこから自転車に乗ってくるんですよね。その人が、「空襲警報だ、空襲警報だ、すぐ避難しなさい」と言うもんだから、慌ててね、みんな解散ですよ。幸いに、しかし、(出征兵士を)送ったあとでしたから、大急ぎで家に戻ったんですよね。そのときにはまだ、壕(ごう)に入るというよりは、僕の場合は学校のすぐそばに住まいがあったもんだから、そこは危ないからということで、村の中でもいちばん山に近いうちに避難しましたけどね。

あのときは、喜如嘉には一発も落ちなかったんですが、ただ、日本の飛行機が米軍機に追われて、僕の目にも見えるぐらい低空でね。日本の飛行機は煙を吐きながら、後ろからまた米軍の飛行機が追っかけて、東のほうに飛んでいくのを見ましたけども。何でもその飛行機は、国頭村の与那というところに墜落して、兵隊、日本軍のこの兵隊は亡くなりましたけども。そういうようなことは今も記憶に新しいですね。

Q(大城さん):確か、お父さんが校長先生でいらっしゃったんですよね。

うん。それで僕のうちは学校のすぐそばにあったんですよ。校長住宅というのがあってね、学校につながっているんですが。そこにいたんです。おっしゃるとおりです。

Q:お父さんはどんな対応をしていたんですか?

父は学校の責任者ですから、まずは、生徒を早く避難、安全にうちに帰す。親の元にね。そのあとは職員みんなに指示して、大事なもの、例えば、あのころ天皇陛下の写真のことをご真影と言ってましたけども。ご真影をまず、村のいちばん外れのうちを借りて、こういうときのためにということで、「そこまで持って行きなさい」とか、「重要書類もみんなそこに持って行け」と指示をしたり、そんなことをしていましたよ。僕たちも、その重要書類なんかがあるところに避難しました。

1945年の3月23日から、軍艦に囲まれてね。それから、飛行機も乱舞する中で、軍艦からは艦砲射撃、飛行機からは機銃掃射。これの雨ですよ。そういう中で、喜如嘉なんかもみんな山奥に隠れたんですね、山奥に。それこそ、山はいちばん深い山を山奥と言って、村に近いところを里山と言っていますが、僕らはずっと戦前も里山にはよく行ったんだが、山奥までは行ったことなかったんですよ。

私たちの山田家の場合は、まず最初は、先ほど申し上げたように、学校の重要書類と一緒に、村の中でもいちばん山手に近い家を、ふくめいた(福前田)と言いましたけど、そこの家をずっと借りてましたから、そこに避難したんですが、3月23日の最初の1週間ぐらいは、そこにいましたけども、どんどんどんどん南のほうからも米軍が来るというふうになったら、そこにおれないということで、喜如嘉国民学校が管理していた山があったんですよね。ここは炭焼き窯でした。沖縄では炭窯と言ってますが、炭焼き窯でも、あまり使ってはいなかったんですが、そこを改造して僕ら家族はいましたけども、そこも長いことおれないんですよ。すぐ米兵がうろちょろしてるもんだから、ここも危ないということで、さらに奥の山奥ですね。やまんくび(山の名前)というところの谷底に、村の人たちが手伝いで掘っ立て小屋を作ってもらってね、そこで避難しました。それがいちばん長くて、そうですね、4月の15日ぐらいからでしょうね。7月15日まで、山から下りる7月15日までずっとそこにいました。このいちばん山奥にね、やまんくびというところに。

僕が投稿したものに、戦争中のことを書いてあるのが2つぐらいあるんですよね。『泣いた子守り』。子守りというのは、普通は泣かないですよね。子どもは泣いても。『泣いた子守り』、それから『牛も戦争が怖かった』という、そういうのがあるんですが。そうですね、どっちも長いんですがね。『泣いた子守り』というのを、大城さんにひとつ読んでもらおうと思うんですがね。左が14ページですよね。

『腹をすかした背中の2人は、代わる代わる泣いた。僕も妹もペコペコだった。どうあやしても泣き止まなかった。泣き疲れて、5~6分うとうととすることはあっても、目を覚ませばまた泣くのであった。空腹を満たしてやれば泣きやむことが分かっていても、食べさせてやれるものも持っていない。

妹も僕もあやし疲れて4人で泣いた。本当に悲しかった。

頭上の尾根から「親幸」「ふみこ」と母の呼ぶ声が降ってきた。2人は「早く来て」と言ったまま、おいおい泣き出した。背中の2人も、ひときわ声を張り上げて泣いた。

Q:やっぱり、つらかったことってあるんですか、子守りをしているとき。

そうですね。そのころはみんな僕より年上、僕は下のほうですが、僕に近い年齢の人は2つ上ですがね。その2つ上の姉までも、みんな、食料をあちこちから探しに行くんですよ。だから、昼間はほとんど僕と妹、留守番というかな、ただの留守番だったらいいんだが、子どもまで預けられるわけさ。1歳の子どもと2歳の、これはいとこの子どもですがね。僕らの仕事というのは、いちばんつらい子守りですよ。これは普段の、平時の子守りはそんなにつらくないんですよね。例えば、「ミルクなども置いておくから」ってお母さんが言うし、食べ物なんかも準備しているんだが。そういうのもない状態でしょう。子どもはずっと空腹ですよ、赤ちゃんは。僕らも空腹だけども、赤ちゃんも空腹だし。空腹を表現するのは泣くしかないんだよ、子どもはね。僕らはまだ我慢するけども。そういう苦しみというのは本当に大変なもので、戦争中は怖いこと、それから、お腹がすくこと、あと、僕らにとっては子守りをすること、これがつらいことであるし、怖いことだったですよね。兵隊が近くまで来たとき、急いで逃げたりね。そうする行動は、大人と僕ら子どもと変わらないですよ。かえって子どものほうが素早いんだが。それがつらいということは全くないんですよね。ただ、僕の場合には弱視でしたから、竹ガヤ、小屋の屋根を作るのに刈ったあとの竹は、これまた危ないんですね。その後踏むと足をけがする。竹ガヤが僕なんかはよく見えないもんだから、そういうことは心配だったし、また、弱視だからハブがいたら困る。それも心配ではあったけども。それは心配程度で、この子守りというのは大変な大仕事だったですね、僕にとっては。妹にとっても同じだったと思います。

Q:いろいろ大変なことが、ご苦労があって、いつどんなふうに山を下りたんですか? 

僕は、この文章にはないですが、「二度持たれた家族会議」というのをまた別のもので書いたことがあるんですよ。山の中でね、歌会とは別に、2回全員集合で家族会議を持ったんですよね。そのうちの最初のものは、明日から食べ物がないと。あちこち行っても、お願いしても難しい。どうしようという会議があったんですが。そのときには、「泥棒してでも生き抜くか、それは嫌だからどうするか」って、おやじが、父が言うわけさ。僕も妹もそうだけども、「死ぬのは嫌だ」と言いそうな年齢ですよ、4年生とか2年生というのは。でも、言わなかったですね。「人のものをとってまで生きなくてもいい」という決定でした。二度目の家族会議というのが、7月13日。「48時間以内に山から皆さん下りなさい」という米軍の通達が、喜如嘉の村のゆうしにお達しがあったわけ。そのときの晩、13日の晩に、どうするか、米軍のもとに下りるか。要するに、村に下りるかということを話し合ったんですね。そしたら、父は村のゆうしでもあるし、学校長でもあるし、「私は責任上、こっちから進んで米軍のところに行くことはできない」と。おじがあのころ、予備役の少尉だったか、中尉だったか、軍籍のある人がいたんだよね。それと一緒に「ずっと国頭の奥のほうまで行って、そこからくり船でも借りて、与論へ渡って、奄美大島へ渡って本土まで僕らは逃げる」と。「君たちはお母さんを筆頭に下りなさい」と父が言ったわけさ。それに猛烈に反対したのは、一番上の兄貴ですよ。「僕も友達がみんな兵隊に行って、同じことだ」と。「おめおめ僕はアメリカの支配下の中に行くわけにはいかない。」すごく頑張ったんだよ。だけど、説得されて、兄貴はものも言わんでそのままぷいっとそこから飛び出したんですよね。しかし、結局、「明後日下りよう」ということになって下りたんですが。それが2回目の家族会議でしたがね。あのときのおふくろは偉かったな。子どもも6名、おばあさんもおったし、たくさん抱えていたけど、「お父さん、私に任せてください。みんな間違いなく下りますから」と言ってくれてね。それで、僕らは下りたんですが。ところが、残った父もすぐ、僕らが下りた途端に、すぐ村の人が飛び出してきて、驚いて、区長とかそういった人たちも、「みんな下りないとだめだと言われた」と言って、急いでまた、僕の姉といとこと、それから、おやじが一緒に行くというところの親戚の人と、また山に迎えに行ってね。やっと父なんかも16日に下りましたけども。

そういう結末でしたけども。しかし、僕なんかは、下りたときの心境は、本当によかったと。負けてよかったじゃないですよ。とにかく明日からひもじい思いをせんですむ。お腹がすいた思いをせんですむ。明日からあんな子守りもせんですむ。そういう安ど感でね、僕はいっぱいでしたね。大人は戦争に負けて悔しいとかなんとかあったはずだが、僕なんかはそうじゃなくて、「あぁよかった、ほっとした」と、そういう気持ちでありましたけども。この7月15日は、ちょうど僕の誕生日だったんですよ。満11歳ね。そういうことです。

戦後は、糸が切れたたこみたいになっているかなと思ったんですけどね。米軍がいろいろ食糧を、十分じゃなかったけども、ちゃんと配給するし、もちろん村の人たちが、係がみんな配給をするんだけど、軍用の食糧とかそんなものをあれするし。それから、日本軍が壕に隠してあった魚の缶詰とか、あんなものもみんな掘り出して配ってくれたりするから、最初は非常によかったですよ。しかし、そういうものもだんだん、アメリカも減って少なくなったもんだから、また食料、食べ物の苦労はありました。1年後はね。しかし、山の中での苦労の比ではない。まだまだよかったですよ。

そういう食糧難もありましたし、学校も、喜如嘉は4か月ぐらい遅れて学校をスタートしましたがね。国民学校、2~3か月、国民学校といったと思います。あと、初等学校になってね。それから、初等学校は7年まで行って、今度は中等学校というのが3年、中学だから3年ですけども、2か年出て、あとは高校と経過したんですが。

僕は戦後も大変痛ましいことが周りではありましたね。子どもの場合には、転がっている不発弾とか、薬きょうとか、そんなので遊んでね。遊んで、暴発して、目が見えなくなったという人もいましたし。そういう不発弾を取ってきて、火薬を抜き取ってダイナマイトを作って魚を捕る。そういうことをして魚を捕って、いい気分になるときもあったけど、逆に、そうじゃなくて、それがまた、特に雨の多いときとか湿気のあるときには、きれいに発火しないで、ダイナマイトが。空中で爆発したら大けがをするし、漁民が死んだりね。大けがをしたり。それから、農民もくわで誤ってというか、分からないわけだから、土の中が。砲弾をたたいてしまってね、暴発してけがをするとか、いろんなのがありましたし。それから、マラリアが流行してね、マラリア。沖縄本島はマラリアはないんじゃないかと思われる時代ですけど、大流行して、加えて、栄養失調があるもんだから、そういうもので亡くなった。うちのおばあさんもそれで亡くなりましたけどね。

だから、戦後も平和じゃなくて、僕は、「戦後後遺症」と言っているんですよ。戦争のあとの後遺症。不発弾の事故、それから、不発弾をいじっての事故、それから、マラリアとかそういったもので、たくさん亡くなったんですね。けがをしたり。そういうのを、僕は盲ろう学園というところで仕事をしていましたし。そこでもよく、今言ったような事故で見えなくなった人が盲ろう学園に入ってきた。だから、戦争というのは、障害者を無視、あるいは、障害者が先に亡くなると。弱い人がね。障害者だけじゃなくて、お年寄りとか子どもとかね。本当に、僕の今の立場から見ても、戦争は絶対あってはならんなと、つくづく思っています。

Q:今回いろんな障害を持った方に、戦争体験のことをお聞きしているんですけれども、なぜ障害者の声を残したいのかっていう。障害者の証言というのは、あまり残されていないんでしょうかね。

大事なことをお聞きですがね。戦争中、障害者は、反戦とか何とかという思想は持たないんですよ。今、話したことなどがありながらも、特に私たち日本の経験からすると、太平洋戦争でも、兵隊に行けないのは、非国民とは言わなくても、「米食い虫」だと言ってたんですよ。初めて聞く言葉だと思うんですがね。

Q:そうです。

僕の兄なんかは、徴兵検査も受けてるだけに、自分で、憂さ晴らしでもね、「僕なんか米食い虫だと言われてるよ」と。自分でも何かというと、すねて、「米食い虫だ」と言いよったんだよね。だから、そうならないように一生懸命戦争に協力するのよ、障害者は。反戦に行くんじゃなくてね。だから、僕なんかも、例えば、工作を作る展示会に出しました。何を出したかといったら、僕はメガホンを作って出した。メガホン、分かります?

Q:はい。

あれは、あのときの警防団だとか、どこでもみんな使って、今みたいにスピーカーがあるわけじゃないから。メガホンを作って、国頭郡でだったけども、賞をもらったんだよね。父がまた、「おい、親幸、君が作ったメガホンを国頭郡の郡長が持っていたよ、使ってたよ」と言うから、うれしくなって。僕もこれで戦争に勝つように協力したんだなっていうふうに。だから、戦争は嫌なんだじゃないんだよ。ここまで僕らも大変嫌な戦争を経験して初めて、これは目覚めんといかんなと思ってるわけですよ。そういうものは、戦争を知らない皆さんも、たぶんそのまま戦争を迎えたら、障害のある人たちも愛国心とか何とかにあれされて、つらい目に遭いながら、思想的には、かえって戦争協力というふうになるんだと思うんですよ。僕なんか、とことん戦争はこりごりだと。とことん戦争は反対だということですよ。

出来事の背景出来事の背景

【平和じゃないと生きられない ~沖縄で語りだした障害者たち~】

出来事の背景 写真 山田親幸さんは1934年(昭和9年)に沖縄県で生まれました。生まれたときから弱視で、19歳で全盲になりました。戦時中の沖縄には盲学校が那覇市にしかなかったため、北部の大宜味村に暮らしていた山田さんは、地元の小学校に通いました。戦争が激しくなり始めた3~4年生の頃から、障害を理由にいじめを受けるようになりました。目が不自由な山田さんに向かって石を投げつける子どももいたといいます。
 1945年4月、沖縄本島にアメリカ軍が上陸すると、山田さん一家は親戚たちと山奥に逃げ込みます。家族が食糧を探しに出かけている間、いとこの子どもの子守りを任されました。空腹のため、どんなにあやしても泣き止まない赤ちゃんの泣き声に、アメリカ兵に見つかるのではないかと怯えていたといいます。
 番組では、沖縄で活躍している歌手で同じ視覚障害のある大城友弥さんが山田さんの戦争体験を聞きました。

証言者プロフィール証言者プロフィール

1934年
沖縄県名護町幸喜(現・名護市)に生まれる
 
名護国民学校東江分校で学ぶ
1945年
4月1日、米軍が沖縄本島に上陸すると一家で山奥に避難する
 
7月15日、山を下りる
 
大宜味村喜如嘉で終戦を迎える
 
戦後は、沖縄盲ろう学園職業指導員となり、盲学校教員を経て沖縄視覚障害者協会会長を務める

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