印象派はモネの「印象、日の出」から生まれた
印象派の中心的存在クロード・モネは1840年、パリに生まれた。印象派という名称は30代のモネが描いた「印象、日の出」から生まれた。新しい表現を求めたモネは伝統的な絵画と違い、光の効果を強調している。
新しい時代のパリを積極的に描いたモネ
19世紀後半、パリの大改革という都市計画が実行され、モネは新しい時代を積極的に描いた。「サン=ラザール駅の線路」はパリに初めて出来た駅舎の絵。汽車が吐き出す煙がたなびく様子をキャンバスに写し取った。
エッフェル塔が注目を集めたパリ万国博覧会で睡蓮と出会うモネ
40代半ばを過ぎたころ、作品に大きな変化が訪れる。それまで描いてきたパリの街や旅先の風景でなく、水辺の風景、とりわけ睡蓮が作品の主題になる。睡蓮との出会いはエッフェル塔が注目を集めたパリ万国博覧会。
フランスにはない睡蓮に魅せられたモネ
会場には東洋風の庭が作られ、様々な種類の睡蓮が展示されていた。モネは当時のフランスにはない熱帯原産や品種改良した睡蓮に魅せられた。苗をいくつも注文し、庭師に睡蓮が同じ位置から動かないように命じていた。
後半生、楽園で睡蓮を描き続けたモネ
モネは時間や季節を変えて同じ構図を何度も描いた。右は日中、左は夕方。とりわけ好んだのは太鼓橋の下に睡蓮が咲き誇る光景。人工的に作られたいわば楽園とも呼べる空間。モネは後半生、ここで睡蓮を描き続けた。
モネがジュベルニーの楽園で1日の移り変わりを描いた連作「睡蓮」
1918年、モネ78歳のとき。モネはある作品を国家に寄贈する。連作「睡蓮」だ。描かれているのはジュベルニーの楽園で、毎日繰り返される風景の変化だ。1日の始まりは「朝」の情景。柔らかな光に色づく水面だ。
時の流れに身を委ねたモネの「睡蓮」
「日没」は夕闇に沈む画面の中で鮮やかな金色と紅が燃え立つようだ。時の流れに身を委ね、静かに包み込まれるような空間。モネは睡蓮の連作についてこう語っている。
モネは83歳で亡くなるまで睡蓮を描き続けた
「仕事に疲れた神経は静かな水の広がりにしたがって解き放たれる。この部屋を訪ねる人々に花咲く水槽に囲まれて穏やかにめい想する安らぎの場を提供できるだろう」。モネは83歳で亡くなるまで睡蓮を描き続けた。
印象派の中心的存在・モネはどんな思いで睡蓮を描き続けたのか?
日曜美術館
「印象、日の出」や「睡蓮」などの作品を描いた画家、クロード・モネ(1840~1926)。印象派を代表する画家のひとりとして知られている。モネはいつ睡蓮と出会い、どのような思いを数多くの「睡蓮作品」に込め、描いてきたのか。人生に彩りを与える教養として知っておきたい、作品の注目ポイントを5分でお届けする。(日曜美術館)