被爆証言 一覧 | 証言で知る ヒロシマ・ナガサキ | NHK

被爆証言貴重な証言インタビューをもとに、原爆投下の真実を追う

  • 河内政子さん

爆心地のすぐ近くで暮らしていた、当時16歳だった河内政子さんは、原爆投下の前日、広島への空襲の危険を感じていた両親に「一家全滅にならないように」と説得され、郊外にある祖母の家に避難した。

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  • 張本勲さん

5歳で広島で被爆、姉を失った。しかし自らの被爆体験を話すことはなかった。

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  • 中山士朗さん

中山さんは被爆当時、県立広島一中の3年生でした。8月6日は爆心地から1.7キロの広島市の鶴見橋付近で建物疎開の作業を始めるところでした。左側から原爆を受け、顔の左半分などにケロイドを残す大やけどをしました。

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  • アフメトジャノフ・アルゲンベックさん

サルジャル出身のアフメトジャノフ・アルゲンベックさんは、1949年、13歳の時、初めて核実験を見た。1953年の核実験の時には、一部の人が避難せずに残されたが、その後全員が亡くなったという。アフメトジャノフさんは両親を亡くし、サルジャルには、親世代の人は誰も生き残っていないという。

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  • 森田節子さん

広島駅近くで被爆した森田節子さんは、“一緒にいた仲間に会いたい”“原爆によって自分の体がどうなったのか知りたい”と思うようになった。森田さんは「被爆した頃の自分を知るには今が最後の機会だ」と話す。

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  • 山縣喜代子さん

山縣さんは国鉄の女性車掌だった。戦時中、男性が軍隊に召集されるにつれ、鉄道の車掌に女性が採用されるようになった。

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  • 山下卓郎さん

山下卓郎さんは、当時爆心地から380メートルの距離にあった日本銀行広島支店の事務員として働いていた姉の隆子(たかこ)さん(当時20歳)を原爆で亡くした。電車で広島市内に通っていた隆子さんは、職場の近くで原爆にあった。

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  • 吉川生美さん

平和公園で被爆体験を語る吉川生美さん。吉川さんは結婚して1年が経とうとしている時に、原爆にあった。建物の下敷きになった吉川さんを救ってくれた清さんだったが、背中全面がケロイドになる大やけどをした。

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  • 村中雪春さん

今でも村中雪春さんが、そらんじることができる標語がある。被爆翌日、陸軍の救護隊員として山口県から広島市内に入った村中さんが至る所で見た「壁新聞」の言葉、「広島に新型爆弾現る。見よ、鬼畜米英の仕業 出せ広島っ子の底力」。

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  • 川口千加子さん

当時3歳だった川口千加子さんは、8月6日の朝、母親と冷蔵庫に入れる氷を買いに行った帰りに、爆心地から1.6キロ離れた自宅の庭の防空ごうの前で被爆した。母のキクさんは軽いけがだったが、その後、髪の毛がぬけ始め、川口さんが12歳の時に亡くなった。家から避難するときに感じた怖さ、そして、亡くなる直前まで優しくしてくれた母親の愛を、川口さんは今でも忘れないという。

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  • 鈴木松枝さん

鈴木さんは、8月6日の朝、広島市内へ向かうため妹、浩江さんと一緒に近くの駅に向かった。それが妹との最後の別れとなった。鈴木さんは爆心から2.5キロ離れたところで被爆し、幸いにけがはなかった。

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  • 加藤正矩さん

加藤正矩さんは学徒動員で広島湾に浮かぶ金輪島で働いていた。爆心地から4キロ離れた島でもすさまじい爆風だった。

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  • 小野田久子さん

当時17歳の小野田久子さんは、8月6日の朝、自宅の窓際で本を読んでいた時に被爆した。一瞬のせん光の後、左目は見えず、右目のまぶたは大きく裂けた。顔だけで40を越えるガラスのかけらが突き刺さっていた。

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  • 竹谷博さん

竹谷さんは、学徒動員で広島の造船工場に勤務中に被爆した。翌日、途方に暮れて歩いていた焼け野原で、亡くなった母親に抱きしめられた赤ちゃんを救い、近くの民家に預けた。12年後、島根県に帰った竹谷さんのもとに、小学生になったあの赤ちゃんからの手紙が届く。

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  • 岡邊冨子さん

岡邊冨子さんは、両親の故郷である岡山県寄島町に、両親の名前を付けた2本の桜の木を植えた。2005年、その桜の木に数輪の花が咲いた。父親は被爆後まもなく広島で亡くなり、母親は原爆の後遺症に苦しみ続けた人生だった。

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  • 佐伯ヒサさん

広島市の佐伯ヒサさんは、母親と3歳の長男・明(あきら)ちゃんと3人で暮らしていた。8月6日の朝、自宅で食事の準備をしていたときに被爆した。母親は無傷だったが、ヒサさんは右腕に大ケガを負った。3人で身を寄せた病院で、明ちゃんはしだいに弱っていき、被爆から2か月で亡くなった。

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  • 高蔵信子さん

爆心地からわずか260メートルの所で被爆した高蔵信子さんは、爆心地の近くで見た「燃えている人間の手」を忘れることができない。高蔵さんは、被爆後、その光景を1枚の絵に描くことによって、ようやく誰かに伝えることができたと救われたような気持ちになった。

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  • 平田照昌さん

平田照昌さんの2歳年下の妹・正子さんは、爆心地から1.6キロ離れた鶴見橋付近で被爆した。自宅に9時間かけて歩いて戻ったが、全身やけどの重症と闘いながらも8日後に亡くなった。かわいがっていた妹の変わり果てた姿に、兄の照昌さんは衝撃を受け、看病も何もしてあげることができなかった。

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  • 山崎寛治さん

山崎寛治さんは、被爆翌日、全身70か所にガラスが突き刺さった状態で、自宅(現在の原爆資料館辺り)にはうようにして戻り、家族の帰りを待った。しかし、丸一日たっても誰も帰ってこなかった。家族の死を覚悟した8月8日の昼、山崎さんの目の前に一緒に暮らしていたいとこの賢太郎さんが現れた。

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  • 三好妙子さん

8月6日、三好妙子さんは母ヒサノさんと壮絶な別れを経験した。大けがをした母は、自らのけがをおして、当時9歳だった妙子さんの手当をし、近所の学生に救助を頼んだ。優しかった母との最後の別れ。

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