検索結果 一覧 | 証言で知る ヒロシマ・ナガサキ

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  • 龍智江子さん

被爆地点:爆心地から約1キロの山里小学校付近爆心地に近い自宅に戻ると、一面焼け野原だった。黒こげになった母の遺体を見つけ、ぼう然と立ちつくすばかりだった。

被爆証言
  • 小幡悦子さん

被爆地点:爆心地から1.4キロ三菱兵器茂里町(もりまち)工場足に大けがを負い、トラックの荷台の下に横たわり、一夜を過ごした。戦後も足は不自由なままだった。

被爆証言
  • 片岡ツヨさん

被爆地点:爆心地から1.1キロ離れた勤務先の三菱兵器工場原爆の熱線で大やけどを負い、顔にケロイドが残った片岡さんの人生は、苦しみに満ちていた。

被爆証言
  • 山口仙二さん

被爆地点:爆心地から1.3キロ離れた勤労動員先の三菱兵器工場上半身に大やけどを負い、ケロイド姿に戦後も苦しめられた山口さん。被爆者運動の先頭に立ち、昭和57年、国連で「ノーモア・ヒバクシャ」と訴えた。

被爆証言
  • 吉田勝二さん

被爆地点:爆心地から850メートル離れた屋外原爆で全身に大やけどを負い、生死の境をさまよった。ケロイドが残った姿を見る周囲の冷たい視線に傷つきながら、戦後を生き抜いてきた。

被爆証言
  • 内田伯さん

被爆地点:爆心地から北に1.3キロ離れた三菱兵器工場救援列車で見た傷だらけの友人の姿が忘れられない。そして、爆心地付近にあった自宅は跡形もなく、そこにいた家族は白い灰に変わり果てていた。

被爆証言
  • 宮崎米敏さん
  • 山本昇さん

被爆地点:爆心地から800メートル離れた長崎工業学校学校裏の防空ごうの中で土を運び出す作業をしていた二人は、近距離被爆にもかかわらず奇跡的に助かった。しかし、ごうの外で見た光景は地獄絵図だった。

被爆証言
  • 久松シソノさん

被爆地点:爆心地から700メートル離れた長崎医科大学附属病院被爆の惨状を伝える「長崎の鐘」などの著書で知られる永井隆博士とともに、救護活動にあたった。戦後、平和を訴える活動を続け、2009年1月に亡くなった。

被爆証言
  • 小林栄一さん

被爆地点:爆心地から700メートル離れた長崎医科大学附属病院せん光の瞬間、目の前にあった机の下にとっさに隠れ、助かった小林さんは、直後の救援活動に参加した。戦後は被爆者医療に取り組んでいる。

被爆証言
  • 野口リツ子さん

被爆地点:爆心地から西へ700メートル離れた長崎市城山町の友達の家爆心地から500メートルの城山小学校(当時、城山国民学校)では、児童・教職員の多くが犠牲になった。生き残った野口さんたちは、翌年3月、涙の卒業式を迎えた。

被爆証言
  • 三宅レイ子さん

被爆地点:爆心地から1.8キロの自宅爆心地から500メートルにあった城山国民学校の教師をしていた三宅さんが、原爆投下の翌日、学校の様子を見に行ったとき目にしたのが、教師仲間の黒こげの死体だった。

被爆証言
  • 池田早苗さん

被爆地点:爆心地から2キロ原爆投下から10日間のうちに、兄弟と姉が次々と亡くなった。そして、10年以上たってから、母親と父親も亡くなり、ついに一人残された。失った家族のことを語る時、池田さんはこぼれる涙を止めることができない。

被爆証言
  • 大塚愛子さん

被爆から69年が経った今年、自分の体験を初めて文章にした人がいる。山口県山陽小野田市の大塚愛子さん(85)だ。山口県から長崎県へ疎開し、16歳の時に爆心地から4キロのところで直接被爆した。

被爆証言
  • 三谷 静香さん

生涯で忘れられないのに原子爆弾の被爆があります。国民学校の高学年でした。あの日は朝からよく晴れ渡り警報のサイレンとともに地区別に並んだ下級生を引率して帰宅しました。

ヒバクシャからの手紙
  • 漆原美智子さん

初めて打ち明けるこの思い母は被爆者です。悪性リンパ腫のため74才で亡くなりました。「母ちゃんは何も悪かことしとらんとにこげんひどか病気になって、こいわ、原爆のせいたい」と言って悲しんでいた父の言葉が今でも私の心に残っています。

ヒバクシャからの手紙
  • 橋本美智子さん

初めて打ち明けるこの思い私が被爆したのは、2才6か月でした。その当時の事は何も覚えていません。

ヒバクシャからの手紙
  • 内野愛子さん

「夏に想う」~忘れられぬ私の被爆ノート~昭和20年8月9日11時2分、私は、長崎の美しい港の丘にある活水女学院の学徒動員(14歳)先である三菱造船所勤務がたまたま休みで、実家の側を流れる川辺で遊んでいた

ヒバクシャからの手紙
  • 匿名さん

忘れられないあの日、あの時私は原爆投下8年前、1937年長崎県福田村小江原郷572番地に9人兄弟の5男に生まれ、手熊国民小学校に通学していた。2年生の春頃に、日に日に空襲が激しくなり原爆投下2週間前、夕食時の頃空襲警報が鳴り、姉に防空ズキンをかぶせてもらい手をひかれ家の近くの橋の下まで無我夢中で走り逃げ、身をかくしていた事を覚えています。

ヒバクシャからの手紙
  • 木幡吉輝さん

被爆と私の人生私は1929年(昭和4年)生まれですので今年は83歳になります。今では昔のことですが、幼い頃の出来事を思い出してみたいと思います。

ヒバクシャからの手紙
  • 本田峯子さん

原爆の日の私もう私は、92才。病院のベッドの上で、頭もボケて、人と会話する事も、なかなかねェ。娘2人には、あの日の事は話し続けてきたけれど、覚えてるとやろうか?

ヒバクシャからの手紙