
(オープニングテーマ)

「鳴かぬなら…」と、こわい顔でホトトギスを見つめるのは、戦国大名の織田信長。夢は、ライバルたちをたおし、天下統一をすることです。いつ殺されてもおかしくないのが戦国時代。「でも、弓矢なんて古い古い」と信長が持ち出したのは、鉄砲(てっぽう)です。鉄砲は火薬の力を使って100mくらい弾(たま)を飛ばすので、はなれた敵をたおすのにもってこい。その鉄砲を本格的に戦いで使ったのが織田信長でした。信長はどのようにして天下統一をめざしたのでしょうか。

今から450年ほど前、織田信長は天下統一をめざしました。信長は、今の愛知県尾張(おわり)の小さな戦国大名の家に生まれました。父の死により、若くして家をついだ信長は、やがて尾張一国をまとめます。しかし、信長の生きた戦国時代は、各地で大名たちが争っていました。身分に関係なく、力あるものがのしあがる、「下克上(げこくじょう)」の時代でした。

信長が、天下統一のために欠かせないと考えた武器があります。それは、当時ポルトガル人によって伝えられた、鉄砲(てっぽう)です。鉄砲には、うつのに時間がかかるという弱点がありました。まず、銃(じゅう)の先から火薬と弾(たま)を入れ、火をつけ、構えます。一発うったら、次の弾をうつまでに30秒もかかってしまうのです。しかし信長はその弱点をみごとに克服(こくふく)し、戦で本格的に使いました。それが、「長篠(ながしの)の戦い」です。

その様子がえがかれた『長篠合戦図屏風(ながしのかっせんずびょうぶ)』。日本最強といわれた武田騎馬(きば)隊との戦いです。信長軍めがけ、武田の騎馬隊がせめこみます。待ち受ける織田鉄砲(てっぽう)隊。信長の合図で、「ドドドーン!」と一斉射撃(いっせいしゃげき)。信長はこの戦いに備え、三千丁ともいわれる鉄砲を用意しました。次の弾(たま)がうてるまで30秒。最初の弾をかわした騎馬隊が近づきます。

そのときです。次の列が前に出て、弾(たま)を放ったのです。弾をこめているあいだに次の列が代わる代わるうつという戦法で、鉄砲(てっぽう)の弱点を克服(こくふく)したのです。信長軍の大勝利でした。信長は長篠の戦いで本格的に鉄砲を使い、戦の形を変えたのです。信長が手紙などにおしていた印には「天下布武(ふぶ)」という言葉があります。「天下に武力を行きわたらせる」という意味。信長の天下統一に向けての意志の表れです。

琵琶湖(びわこ)のほとりにある安土山(あづちやま)。長篠の戦いの翌年、信長はここに安土城を築いて天下統一をめざします。その城下町で信長は、新しい商売の方法を取り入れました。そこでは商人や職人はだれでも自由に商売をすることができました。これを「楽市楽座(らくいちらくざ)」といいます。安土城下町の掟書(おきてがき)には、安土が楽市楽座であると記されています。信長は、だれもが自由に商売できるしくみを取り入れ、経済を発達させました。

また、新しいものが好きだった信長は、西洋の文化に大いに興味を持ち、外国と貿易を行いました。キリスト教の宣教師たちも歓迎(かんげい)しました。ある宣教師が信長のことを書きのこしています。「信長は、体つきは細く、よく通る声をしていて、戦いを好み、みんなからおそれられていた」と。そんな信長が天下統一をめざしていた途中(とちゅう)のことです。家臣の明智光秀にそむかれ、命を落としてしまいます。「本能寺の変」です。信長の夢は、かないませんでした。

1575年は、信長が鉄砲(てっぽう)を使った長篠の戦いの年。こう覚えましょう。「鉄砲を使い、一発でこなごな(1575)、武田の騎馬(きば)隊」。