(オープニングテーマ)
小村寿太郎は、九州の飫肥藩(おびはん)という小さな藩(今の宮崎県の一部)の出身です。倒幕(とうばく)運動の中心だった薩摩(さつま)藩や長州(ちょうしゅう)藩と比べると、当時は目立たない藩でした。そんな小村が政治の道に入ったきっかけは、外務大臣の陸奥宗光が小村の能力を認めたからでした。その陸奥宗光は、幕末に日本がアメリカやヨーロッパから結ばされた不平等条約の改正にいどみました。
陸奥宗光は不平等条約「治外法権」の撤廃(てっぱい)に活躍(かつやく)した人物です。幕末、紀州藩出身の陸奥は、江戸で坂本龍馬とともに海外との貿易を手がけました。頭脳派で交渉(こうしょう)力に長けた陸奥を、龍馬は「刀無しで生きていけるのはおれと陸奥だけだ」と絶賛したといいます。当時、鎖国(さこく)をやめた日本は外国との不平等条約に苦しんでいました。その一つが、治外法権。外国人が日本で罪を犯しても日本の法律で裁けないというものです。日本は多くの国々から、こうした不平等な条約をおしつけられていました。
明治時代になっても不平等条約は続き、あるとき、陸奥のふるさと和歌山県沖(おき)で大事件が起こります。あらしでイギリス船ノルマントン号が沈没(ちんぼつ)。イギリス人乗組員は脱出(だっしゅつ)しましたが、日本人の乗客25人は全員見捨てられ、亡くなりました。事件の裁判を担当したのは日本人ではなく、イギリス人判事でした。治外法権のためです。救助の義務を果たさなかったにもかかわらず、イギリス人乗組員のほとんどが「無罪」となります。この事件を受け、名だたる政治家たちが不平等条約の改正にいどみましたが、かないませんでした。
ノルマントン号事件から6年後、陸奥は外務大臣になり、条約改正にいどみます。イギリスは手ごわい。しかし同時に、この大国さえ説得できればほかの国との交渉(こうしょう)もやりやすくなるにちがいない。陸奥は世界情勢に目を向けます。当時、世界各地に勢力を広げていたイギリスにとって、最大の敵がロシアでした。イギリスはロシアに対抗(たいこう)するために日本に協力を求めてきました。陸奥はこのチャンスをのがさず、イギリスに協力する条件として、治外法権の撤廃(てっぱい)を持ちかけたのです。
そして1894年、ついに、イギリスとのあいだで治外法権の撤廃(てっぱい)に成功。陸奥の目論見(もくろみ)どおり、大国イギリスが改正に応じたと知ったほかの国々もあとに続き、15か国から治外法権の撤廃を勝ち取ったのです。しかし、不平等条約はもう一つ残っていました。「関税自主権がない」ことです。
関税自主権の回復にいどんだのは、今の宮崎県の武士の家に生まれた小村寿太郎です。無名だった小村ですが、その博識ぶりを聞きつけた外務大臣陸奥宗光にさそわれ、外交官になりました。小村がいどんだのは、関税自主権がない、つまり輸入品に自由に税をかけられないという不平等条約の改正でした。1904年、日本とロシアのあいだで戦いが起こります。日露(にちろ)戦争です。日本は多くの犠牲(ぎせい)をはらいながらも、各地で勝利をおさめます。
1年半におよぶ戦いの末、アメリカのポーツマスで日本とロシアの講和会議が開かれました。当時外務大臣になっていた小村が、日本代表として出席しました。ロシアから賠償金(ばいしょうきん)は取れませんでしたが、小村はねばり強く数々の条件を引き出しました。そのがんこさと冷静な交渉(こうしょう)ぶりは、仲介(ちゅうかい)役を務めたアメリカ大統領セオドア・ルーズベルトも舌を巻くほどだったといいます。
日露(にちろ)戦争の結果、アメリカは日本の力をみとめるようになっていました。小村はそれを追い風に、条約改正交渉(こうしょう)に乗り出します。1911年、ついに、アメリカなどの国々から関税自主権の回復に成功したのです。幕末から50年あまりのあいだ日本を苦しめた不平等条約が、陸奥と小村たちの活躍(かつやく)により、改正された瞬間(しゅんかん)でした。
1911年は、小村寿太郎が関税自主権の回復に成功した年。こう覚えましょう。「ひどくいい(1911)気分! 関税自主権、回復成功!」。