(オープニングテーマ)
聖徳太子は二十歳(はたち)で、天皇の政治をたすける「摂政(せっしょう)」という役職に就きました。10人の話を一度に聞けるといわれた聡明(そうめい)な聖徳太子は、天皇中心の国をつくろうとします。そのため、「十七条の憲法」という役人の心構えをまとめました。その第一条、「和を以(も)って貴(たっと)しと為(な)す」。みんなで仲良くするのがいちばん大事ということです。第十条には「人の過失を怒(おこ)ってはならない」とあります。だれかが失敗したりまちがったことをしたりしても、怒ってはいけない。これは現代でも通じる大切なことです。
今からおよそ1400年前、聖徳太子は天皇中心の新しい国づくりをめざしました。当時の政治の中心地は飛鳥(あすか)、今の奈良県明日香村(あすかむら)にありました。聖徳太子はここで、用明(ようめい)天皇の息子として、天皇家の未来を担って生まれました。幼いころからたいへん聡明(そうめい)だったといわれ、一度に10人に話しかけられても、みんな正確に聞き分けられたという逸話(いつわ)もあるほどです。
太子は二十歳(はたち)のとき、推古(すいこ)天皇の政治をたすける「摂政(せっしょう)」という役職に就きました。当時の日本は、「豪族(ごうぞく)」とよばれる有力者が土地や人々を支配し、勢力争いをくりかえしていました。そこで聖徳太子は、有力な豪族の蘇我(そが)氏とともに、争いをくりかえしている豪族たちを一つにまとめ、天皇中心の新しい国づくりをめざしました。
太子が考えたのは、当時の日本にまったくなかった新しいしくみです。それが、603年に定められた「冠位(かんい)十二階」です。今までは、家柄(いえがら)や出身地によって、政治を行う役人を選んでいました。しかし冠位十二階の制度は、能力のある人が重要な役職に就き、家柄にはとらわれませんでした。能力や功績によって、十二の位(くらい)に分けられたのです。
次に聖徳太子は、役人たちの心構えを定めました。それが、604年に定められた「十七条の憲法」です。どんな内容が書かれているかというと、たとえば「あまり怒(おこ)ってはいけません」。憲法というよりも、まるで道徳で教わることのようです。「他人を恨(うら)んだり妬(ねた)んだりしてはいけません」ともあります。いつの時代でも通じる、大切なことが書かれていました。
とくに太子が重視していたのが、権力争いに明け暮れる豪族(ごうぞく)たちをいましめることでした。それは、十七条の憲法の一番目に書かれています。『和を以(も)って貴(たっと)しと為(な)す』。これは、「人の和を大切にしなければなりません。みんな仲良くすることがいちばん大事」ということです。こうして太子は豪族たちをまとめ、新しい国づくりを始めたのです。聖徳太子は、天皇の政治をたすける摂政(せっしょう)となり、冠位十二階や十七条の憲法などを定め、新しい国の制度をつくりました。
その時代、強い力と進んだ文化を持っていた国が、隋(ずい)です。太子は隋と国の交わりを結ぼうと考え、607年、隋につかいを送りました。このつかいを「遣隋使(けんずいし)」といい、小野妹子(おののいもこ)が選ばれました。妹子が隋の皇帝(こうてい)にわたした手紙には、日本が新しい国に生まれ変わった誇(ほこ)りがこめられていました。「日がのぼる国の天子より、日がしずむ国の天子へ手紙を送ります」。日本と隋は対等だというこの手紙に、隋の皇帝は「無礼だ!」とおこりました。しかしその後、正式な使者を日本に送り、日本と隋の交流が始まりました。
太子は人々の暮らしも支えました。病にかかった人を救う病院や、無料で薬を分けあたえる薬局、身寄りをなくした人に生活の場をあたえる施設(しせつ)などをつくったといわれます。そして622年、太子はとつぜん病にたおれます。治ることなく、ひと月後の2月に、49歳(さい)でなくなりました。
607年は、隋(ずい)の国に遣隋使(けんずいし)を送った年。こう覚えてはいかがでしょう。「遠かったろおな~(607)、遣隋使」。