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scene 01都を奈良から京都へ
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奈良時代の終わりに即位(そくい)した桓武天皇は、都を移すという大胆(だいたん)な“ひっこし”を考えました。当時都があったのは、今の近畿(きんき)地方です。桓武天皇が即位したときの都は平城京(へいじょうきょう)で、今の奈良市にありました。この大きな都を今の京都のあたりに移すというのが桓武天皇の計画でした。なぜ都を移すのかというと、それは政治のため、そして平和のため。もっといえば、人々のためということでした…。

scene 02平城京の貴族の生活
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桓武天皇は、奈良時代の都である平城京の最後の天皇です。平城京は今の奈良市にありました。710年に、唐(とう)の都、長安(ちょうあん)をまねて造られたものです。平城京に住む貴族の生活は、各地から届けられる特産物で支えられていました。それを示すものが貴族の屋敷跡(やしきあと)から発掘(はっくつ)されています。「木簡(もっかん)」です。木簡は、地方の特産物についていた木の札です。そこには品物の名前が書かれていました。

scene 03農民たちの質素な暮らし
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木簡をもとに再現した貴族の食事。鮭(さけ)の切り身は、因幡(いなば)の国、今の鳥取から運ばれました。アワビは、安房(あわ)の国、今の千葉から届けられました。一方、農民たちの食事は、玄米(げんまい)、青菜(あおな)の汁(しる)に塩だけの質素なものでした。地方の農民たちは粗末(そまつ)な家に住み、重い税に苦しんでいたといいます。「かまどには火もなく、米を蒸す道具にはクモの巣が張っている。それでも里長(さとおさ)は、むちを持ってやってきて、税を出せとさけんでいる」(万葉集より)。

scene 04ドキリ★乱れた政治を立て直すため都を移した
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そんな時代に即位(そくい)したのが桓武天皇でした。当時、都では有力な貴族たちの勢力争いが起きていました。さらに桓武天皇をなやませたのが、先の天皇によって保護され、権力を持った僧侶(そうりょ)たちです。かれらは政治にまで口を出すようになり、国が乱れました。そこで桓武天皇は都を移すことを決断します。まずは都を京都の長岡京に移し、さらに794年には今の京都市に移しました。その都は、平和で安らかな都であるようにと願いをこめ、「平安京」と名付けられました。

scene 05平安京はどんな都だった?
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桓武天皇がつくった平安京はどのような都だったのか見てみましょう。平安京があったのは、今の京都市です。街は碁盤(ごばん)の目のように区分けされ、大勢の人が住んでいました。中央を南北につらぬくのが、朱雀大路(すざくおおじ)です。そのいちばん北側には、天皇が住む宮殿(きゅうでん)や役所がありました。そして貴族たちは、「寝殿造(しんでんづくり)」とよばれる屋敷(やしき)に住んでいました。中にはかべがなく、季節や行事に合わせて自由に模様がえをしていたそうです。

scene 06ドキリ★平安京には生活基盤が整備されていた
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都には大勢の人々が住んでいたので、生活のためのさまざまな基盤(きばん)が整えられました。その一つが、近くの川を利用した「津(つ)」とよばれる港です。川と船により、大量の食料や物資が港に集められ、都へ運びこまれました。そして、東西にある二つの大きな市(いち)で人々に供給されました。また平安京では水の整備もされていました。2本の堀(ほり)です。堀は都に水を供給するとともに、水量を調整し、洪水(こうずい)を防ぐ役目を果たしていました。桓武天皇がつくった平安京は、およそ400年にわたる平安時代の都として栄えました。

scene 07年号ごろあわせ
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794年、桓武天皇が平安京に都を移した年は、おなじみの、これ。「鳴くよ(794)うぐいす、平安京」。

歴史にドキリ
桓武天皇~平安京の誕生と人びとのくらし~
桓武天皇が即位した頃、平城京には仏教勢力が台頭していた。平安京に遷都し、新しい都を築いた桓武天皇のはたらきをとおして、当時の都の様子や人びとの暮らしぶりを学ぶ。

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