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scene 01キリスト教の宣教師
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フランシスコ・ザビエルは、スペイン出身のキリスト教の宣教師です。ザビエルの仕事は、キリスト教が根付いていない国へ行って布教することでした。ザビエルが日本から送った手紙には、「日本人は非常に善良で、人付き合いが良く、知識欲に富む国民である」とあります。ザビエルはどのようにして日本でキリスト教を広めていったのでしょうか。

scene 02日本人アンジローとの出会い
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フランシスコ・ザビエルは、およそ500年前、日本に初めてキリスト教を伝えました。スペインの貴族の家に生まれたザビエルは、キリスト教を世界中に広める宣教師となります。船でアジアに向かったザビエルは、インドを拠点(きょてん)に布教を始めます。ザビエルがマレーシアで布教していたときに、キリスト教についてたずねる日本人に出会いました。名前は、アンジロー。この青年に興味を持ったザビエルは、日本での布教を決意します。そして1549年、アンジローのふるさと、鹿児島に上陸しました。

scene 03京都へ
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さっそく布教を始めたザビエルのまわりには、初めて見る外国人に興味を持った人々が集まりました。ザビエルはなれない日本語を使い、必死にキリスト教を説きました。その結果、100人をこえる信者を集めることができたといわれています。次にザビエルは京都に向かいます。天皇に布教の許可をもらい、日本全国にキリスト教を広めようと考えたからです。ところが、京都に着いたザビエルはおどろきます。京都の町は戦乱で荒れ果てていました。そのころ日本は戦国時代。各地の大名がたがいに争い、天皇をこえる力を持ち始めていました。

scene 04戦国大名に布教の許可をもらう
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そこでザビエルは、各地を治める戦国大名に布教の許可をもらうことを考えます。まず向かったのが、山口です。ここには西国一の戦国大名、大内義隆(おおうち・よしたか)がいました。ザビエルは、時計やオルゴール、望遠鏡などをおくり、布教の許可を求めます。ヨーロッパの品々に大きな興味を持った大内氏は、布教を許しました。山口でザビエルは、わずかな期間に500人の信者を得ました。九州の大名、大友宗麟(おおとも・そうりん)も、キリスト教に大きな関心を持ち、ザビエルの布教を強くあとおししました。

scene 05ドキリ★日本に初めてキリスト教を伝えた
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しかし、ザビエルはまだ不満を感じていました。一部の大名が布教を認めても、日本中にキリスト教が広まったわけではないからです。そこで、ザビエルは中国に行くことを決断します。中国がキリスト教を認めれば、仏教が日本に伝わったように、キリスト教が広まると考えたからです。ザビエルは、2年3か月の日本での布教を終え、中国に向かいました。

scene 06南蛮船で伝えられた“西洋”
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ザビエルが日本をはなれたあとも、多くの宣教師が来日し、キリスト教を広めました。さらに、南蛮船(なんばんせん)で、さまざまなヨーロッパの品物が持ちこまれました。カステラやパン、金平糖(こんぺいとう)などの食品や、コップやボタンといった生活用品、そしてカルタ遊びも、この時代に日本に伝えられました。

scene 07ドキリ★ヨーロッパの進んだ文化も入ってきた
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こうしたヨーロッパの文化に興味を示したのが、天下統一をめざしていた織田信長です。信長はキリスト教を保護しました。そして、京都にキリスト教の教会を作ることを許可したのです。その教えに心を動かされ、キリスト教に改宗する大名も増えます。かれらは、「キリシタン大名」とよばれました。ザビエルのまいたキリスト教の種は、日本と西洋が結びつく大きなきっかけとなったのです。キリスト教が広まるとともに、ヨーロッパの進んだ文化が入ってきました。

scene 08年号ごろあわせ
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1549年。ザビエルが日本でキリスト教を広めた年は、おなじみのコレ! 「いごよく(1549)広まるキリスト教」。

歴史にドキリ
フランシスコ・ザビエル~キリスト教の伝来・ヨーロッパとの交流~
戦国時代、日本にキリスト教を伝えたのがスペイン人宣教師・フランシスコ=ザビエル。のちに多くの宣教師が来日するとともに、南蛮貿易も始まった。

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