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オープニング
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(オープニングタイトル)

scene01 土器の時代、稲作の時代
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縄文時代を代表する遺跡、青森県の三内丸山(さんないまるやま)遺跡。この集落ができたのは、今からおよそ5500年前とされています。広さはおよそ38ヘクタールあり、多いときには200人以上の人々が暮らしていたと考えられています。集落の中心には、直径1mのクリの木の柱に支えられた高い建物がありました。物見やぐらとも神殿とも考えられています。その隣に、屋根のある大きな建物があります。長さは実に32m、幅9m。太い柱と梁(はり)で支えられ、集会などに使われたと考えられています。

scene02 青森県の三内丸山遺跡
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三内丸山の人々が食料にしていたものの一つが、クリの実でした。ここで見つかったクリの実を詳しく調べたところ、多くの実が同じ遺伝子を持っていることがわかりました。このことから、三内丸山の人々はクリを栽培し、実を収穫していたことがわかってきました。三内丸山の集落には、およそ1500年ものあいだ、人々が暮らしていたと考えられています。

scene03 クリを栽培していた人々
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三内丸山の人々が食料にしていたものの一つが、クリの実でした。ここで見つかったクリの実を詳しく調べたところ、多くの実が同じ遺伝子を持っていることがわかりました。このことから、三内丸山の人々はクリを栽培し、実を収穫していたことがわかってきました。三内丸山の集落には、およそ1500年ものあいだ、人々が暮らしていたと考えられています。

scene04 半地下式の竪穴住居
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縄文時代、人々は「竪穴(たてあな)住居」と呼ばれる家に住んでいました。地面を少し掘り下げて、屋根をつけたものです。半地下式の住まいは温かく、寒い地域では2m近く掘り下げることもありました。掘った土は、家のまわりに盛って固めました。柱を地面に埋め込んで屋根を組み上げていきます。竪穴住居は柱が腐るため、10年から30年くらいで建て替えが必要でした。

scene05 自然の恵みによる豊かな暮らし
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縄文時代の人々の食生活を見てみましょう。「貝塚」と呼ばれる遺跡には、捨てられた貝殻などが何層にも積み重なっています。ここに捨てられたものを調べると、人びとが何を食べていたのかわかります。人びとは周囲の自然から食べものを得ていました。春は山菜や貝が採れます。夏は海でいろいろな魚が獲れました。秋、キノコや木の実を集めるのに忙しい季節。冬、シカやイノシシなどが貴重な食べ物になりました。縄文時代の人々は、自然の恵みを生かし、おどろくほどバラエティに富んだ食生活を送っていました。

scene06 佐賀県の吉野ヶ里遺跡
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弥生時代を代表する遺跡の一つ、佐賀県の吉野ヶ里(よしのがり)遺跡。この遺跡には、当時の集落の様子が再現されています。米作りをする人々、リーダーなど、役割ごとに分かれて住んでいたことがわかります。比較的小さな家々は、米作りをする人々が住んでいたと思われる場所です。当時の人々は、木でできた農具などを使っていたと考えられています。

scene07 富と力を持つリーダー
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大型の家からは、鉄でできたナイフなど、金属の道具がたくさん見つかっています。鉄や青銅で作られた道具は、今から2000年以上前に朝鮮半島から伝えられました。釣り針、鏃(やじり)などさまざまな鉄の道具を作り、人々に与えることができたのは、富と力を持つリーダーでした。この大きな家には村のリーダーが住んでいたと考えられます。一方、ほかの場所には見られない大きな建物の跡も見つかっています。ここは祖先や神を祀(まつ)る人が住む場所で、米の豊作などを祈ったと考えられています。

scene08 まわりにめぐらされた濠と柵
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この吉野ヶ里遺跡では、ほかの村との争いに備えていた跡が残っています。濠(ほり)がめぐらされ、その深さは3m以上もあり、簡単には越えられません。まわりは柵(さく)で囲み、見張りを立てて、よそからの侵入を防いでいました。人々はリーダーを中心に、まとまりのある村を作って暮らすようになったのです。

scene09 福岡県の板付遺跡
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弥生時代の人々がどのように米作りをしていたのかを伝える、福岡県の板付(いたづけ)遺跡。深さ3m、幅6mの濠(ほり)に囲まれた集落のそばから、弥生時代の水田の跡が発掘されました。あぜや水路を備えた本格的なものです。水田に残された弥生時代の人の足跡も見つかっています。人々は地面を耕し、新しい水田や水路を作りました。そして、春の田植えから秋の収穫まで、集落の人々はみんなで協力し合っていました。穫れた米は人々で分け合い、余った米は倉庫に蓄えました。

scene10 「ムラ」、「クニ」の出現へ
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米作りは縄文時代の終わりごろから始まり、弥生時代に本格的に広まったと考えられています。米を保管するために、床を地面から1m以上も高くした建物が作られました。「高床(たかゆか)式」倉庫です。大事な米をねずみから守るために当時の人びとが考え出したのが「ねずみ返し」。建物を支える柱と倉のあいだに取り付け、これがあれば、ねずみが柱を登ってきても中に入ることはできません。その後、稲作が盛んになるとともに、より力を持った「ムラ」が登場し、まわりの「ムラ」を従え、「クニ」と呼ばれるようになっていきます。

10min.ボックス  日本史
縄文時代と弥生時代
日本列島での文明の始まりについて、縄文時代と弥生時代の社会や人々の暮らしの様子を遺跡や遺物、CG映像などを通して理解する。

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