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オープニング
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(オープニングタイトル)

scene 01現代の文章の形、『吾輩は猫である』
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『吾輩は猫である』。文豪夏目漱石の出世作です。1905年、明治38年に発表されたこの作品は、当時、誰もが読みやすく、わかりやすい文章の傑作といわれました。「吾輩は猫である。名前はまだない。どこで生まれたか頓と見當がつかぬ。何でも薄暗いじめじめした所でニャーニャー泣いて居た事丈(だけ)は記憶して居る」。事実の描写の仕方、語尾の表現など、今、私たちが当たり前のように読み書きしている文章の形になっています。しかし、この形ができあがるまでには、明治の文筆家たちの創意と工夫の歴史がありました。

scene 02新しい言葉が求められた明治時代
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1868年、明治という時代が幕を開けました。近代国家を目指してさまざまな新しい制度が取り入れられるなか、言葉や文章も、時代に合わせて変えていく必要に迫られました。このことを強く訴えたのが、思想家、教育者として知られる福沢諭吉です。明治5年に発表した『学問のすすめ』のなかで諭吉は、学問には難しい言葉や文章を読み書きすることではなく、誰でもわかる言葉で伝えることが必要だ、と説きました。当時文章に使われていた言葉や書き方は、一般の人々にはわかりづらいものだったのです。

scene 03「言文一致」運動のはじまり
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言葉には、日常生活で使う「話し言葉」=「口語」と、文章を書くときの「書き言葉」=「文語」があります。明治の初めに使われていた「書き言葉」は、たとえば、「此の如く御座候」、「萬機公論ニ決スベシ」といった文章で、話し言葉とはかけ離れたものでした。そのため、知識階級など一部の人しか理解できないものだったのです。そこで、「書き言葉」と「話し言葉」を一致させようという試みが起こります。これを「言文一致」運動と呼びます。しかし、昔ながらの言葉遣いに愛着のある人々からは、根強い抵抗もありました。

scene 04「話し言葉」に対する抵抗感
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当時、文芸評論家の坪内逍遥は、「言文一致」が進まなかった理由を『小説神髄』で次のように述べています。「俗言のまゝに文をなすときは あるひは音調侏離(しゅり)に失し 或ひは其(その)氣韻の野(や)なるに失して いと雅びたる趣向さへ爲にいとひなびたるものとなりて 俚猥(りわい)の譏(そし)りを得ること多かり」――話し言葉で文を書くと、言葉のリズムが失われ、情緒が乏しくなり、田舎っぽいとけなされることが多い。当時、文筆家のあいだには、話し言葉は低俗なものだという意識があったのです。

scene 05西洋の文学の影響
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明治20年代。「言文一致」運動はようやく動き始めます。きっかけは、開国に伴って海外のさまざまな文化が紹介されたことでした。西洋の文学は「話し言葉」と「書き言葉」の区別がなく、いわば「言文一致」で書かれていました。そのことに刺激を受けたのが、二葉亭四迷でした。語学が得意だった四迷は、日常的でわかりやすいその描写に感銘を受けます。日本語でもこのような文章を書いてみたい。そう思った四迷は、坪内逍遥に教えを請いました。

scene 06二葉亭四迷、「言文一致」への挑戦
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「坪内先生の許へ行つて、何うしたらよからうと話してみると、君は円朝の落語を知つてゐよう、あの円朝の落語通りに書いてみたら何うかといふ。」(二葉亭四迷『余が言文一致の由来』)。逍遥のアドバイスは、落語のように、話を聞いたままに書けば言文一致になるのでは、というものでした。四迷は小説を書き始めますが、やがて悩みが出てきました。「言文一致體にはなつてゐるが、茲(ここ)にまだ問題がある。それは『私が…でム(ござ)います』調にしたものか、それとも、『俺はいやだ』調で行つたものかと云ふことだ。」(同上)。

scene 07日本語の多様さゆえの悩み
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たとえば英語の場合、“I don’t like you .”と、一つの意味に一つの言い方しかありません。しかし日本語には、ニュアンスの違うさまざまな言い方があります。文が「だ」で終わる「だ調」にすると、「俺はおまえが嫌いだ」となります。「です」や「ます」で終わる「ですます調」にすると、「私はあなたが嫌いです」などとなります。日本語は、文末の言葉次第で、文中に使われる言葉にも影響が出てきてしまうのです。

scene 08「言文一致」の小説の誕生
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四迷は、日本語独特の難しさに試行錯誤しながら、新しい文体を模索しました。そして明治20年、小説『浮雲』を発表します。四迷が選んだのは、「だ調」でした。「『ヲヤ大變(たいへん)片付いたこと 『餘(あま)りヒツ散らかつてゐたから ト我知らず言ツて文三は我を怪しんだ。何故虚言(そらごと)を言ツたか、自分にも解りかねる』。

scene 09言文一致の傑作、翻訳『あいびき』
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自信を深めた四迷は、翌年、ロシアの小説『あいびき』を翻訳。これは、言文一致で書かれ、文学的にも完成度の高い作品として評価されました。「秋九月中旬といふころ、一日自分がさる樺の林の中に座してゐたことが有ツた。今朝から小雨が降りそゝぎ、その晴れ間にはおりおり生煖かな日かげも射して、まことに氣まぐれな空ら合ひ」。

scene 10「言文一致」運動の広がりと定着
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四迷の『あいびき』の翌年。山田美妙も小説『蝴蝶(こちょう)』を発表します。美妙が選んだのは「ですます調」でした。さらに2年後、『金色夜叉』で知られる尾崎紅葉は、小説『二人(ににん)女房』を「である調」で書きました。彼らの試みは、後の言文一致の小説の礎となったのです。その後、次第に昔ながらの書き言葉は使われなくなり、明治36年には、小学校の教科書も言文一致で書かれるようになりました。今使われている日本語には、わかりやすい文章を求め、格闘してきた人々の歴史があったのです。

10min.ボックス  現代文
明治文学史
明治維新は、激動の近代の幕開けであったと同時に、日本語の大変革の幕開けでもあった。二葉亭四迷らの言文一致運動など、具体例を紹介しながら文体の変化をたどる。

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