(オープニングタイトル)
独特な科白(せりふ)の言い回し。磨き上げられた動きの面白さ。狂言は、中世に生まれた、日本を代表する伝統芸能の一つです。暮らしの中にあるおかしさやおもしろさを描き出す狂言。登場するのは、失敗をごまかしたり、主人の言いつけを守らなかったりする、どこか憎めない人たちです。
狂言は、奈良時代に中国から伝わった「散楽(さんがく)」から始まったといわれています。散楽とは、音楽を伴奏に曲芸や奇術を見せる芸能です。やがて、日本古来のものまねや、寺や神社で行われていた祭礼などと結び付き、「猿楽(さるがく)」とよばれるようになりました。歌や舞いのほか、権力者を風刺する短い劇などを行い、庶民をはじめ、多くの人に親しまれました。
その後、猿楽は、歌や舞いの要素の強い能と、喜劇的な要素が強い狂言に分かれました。今からおよそ600年前の室町時代のことです。室町時代末に書かれたという狂言の台本を見ると、書かれている内容はあらすじだけです。科白(せりふ)や細かい動きなどは、演じる人によって、口伝えで受け継がれてきました。散楽から猿楽、そして狂言へ。時代とともに変化しながら、狂言は日本独自の庶民の芸能として洗練されてきたのです。
長い歴史の中で、狂言ならではの表現の仕方が生まれました。決まった形で動きを表す「所作(しょさ)」とよばれるものです。たとえば、「泣く」。両手を目のあたりに添えて、頭を下げ、体全体をゆすりながら大きな声を上げて泣きます。これが、泣くときの基本です。そのほか、怒ったり笑ったり、狂言ではこうした人間の喜怒哀楽を一定の型で表現します。それは600年という歴史の中で、登場人物の気持ちを伝えるために作り出されたわざなのです。
科白(せりふ)の言い方にも狂言ならではの特徴があります。狂言では、二番目の音を強調して科白を言います。これは、「二字目を張る」という技法です。そうして抑揚をつけることで科白にリズムが生まれ、聞きやすくなるのです。さらに、擬音(ぎおん)を役者自らが声に出して言うのも特徴の一つです。擬音とは、実際の音に似せて道具などを使って作り出す音のことです。主人に棒でしばられた家来が、酒を飲もうと酒蔵に向かう場面。「ぴん」、「ぎい」、「がらがら」と、鍵を外して扉を開ける音を科白で言います。
現代に残っている狂言の作品は、およそ260。その中から、代表作の一つ、『附子(ぶす)』を見ていきましょう。登場人物は三人。主人である大名と、家来の太郎冠者(かじゃ)、次郎冠者です。附子とは、トリカブトの根っこで作られる毒のことです。出かける直前、主人は二人に、附子は風に当たっただけで死んでしまう猛毒だから近づくなと言い残します。留守番の二人は、附子のことが気になって仕方がありません。毒に当たらないよう、扇であおぎながら恐る恐る近づきます。
とうとう器を開けて中をのぞいた太郎冠者は、附子をひと口食べてみました。死んだのではないかと驚く次郎冠者に、太郎冠者は、中身は砂糖だと言います。主人がうそをついていたことがわかった二人は、砂糖を残らず食べてしまいました。そして、言いわけのため、主人が大切にしている掛け軸や茶碗を壊しはじめます。「ざらり ざらり」と掛け軸を破り、「がらり ちん」と茶碗を割ります。
そこへ主人が帰ってきました。二人は、大切な掛け軸と茶碗を壊したと言って泣きはじめます。それを聞いた主人は「生かしてはおかんぞ」と激怒します。すると二人は、「とても生かしておいてはもらえないだろうから、猛毒の附子を食べて死のうと思い、全部食べましたが、まだ死にません」と言って泣くふりをするのです。親しみやすいテーマと語り口で庶民の暮らしを描いた狂言。笑いの向こうに見えるのは、いつの時代も変わらぬ人間のおかしさ、おもしろさ、そして、切なさです。