あらすじ一覧

ヤマト王権による統一国家の成立

オープニング

(オープニングタイトル)

scene01 「クニ」から国家へ

弥生時代、各地に生まれた小さなクニグニは、ヤマト政権を中心にまとまっていきます。3世紀から7世紀ごろにかけて行われた統一国家成立に向けた動きを、遺跡や中国の歴史書などからたどります。

scene02 争いを繰り返していたクニグニ

福岡県で発見された金印(きんいん)。これは今からおよそ2000年前、「倭(わ)」と呼ばれていた日本にあった100を超えるクニの一つ、「奴国(なのくに)」の王が、中国の皇帝から与えられたものとされています。当時日本では、クニグニが激しい争いを繰り返していました。この時代の様子を知る手がかりは、中国で書かれた歴史書です。当時の日本には、卑弥呼(ひみこ)と呼ばれる女王がいたと書かれています。

scene03 邪馬台国を中心とする大きなまとまり

卑弥呼は、「邪馬台国(やまたいこく)」を治める女王でした。1000人の召使いに身のまわりの世話をさせた、と記されています。占いやまじないを行い、天候を予想したり、豊作や戦勝を祈ったりしたと考えられています。激しい争いを続けるクニグニのなかから、次第に邪馬台国を中心とする一つの大きなまとまりが生まれてきました。そのシンボルに選ばれたのが卑弥呼でした。しかし卑弥呼について書かれていることは少なく、卑弥呼が治めた邪馬台国がどこにあったのかもわかっていません。

scene04 巨大な前方後円墳

大阪府堺(さかい)市。人口およそ85万の大きな街です。ここに、日本最大の古墳、大仙古墳(だいせん・こふん)があります。「方(ほう)」と呼ばれる四角い部分と、「円(えん)」と呼ばれる丸い部分が合わさってできているため、「前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん)」と呼ばれます。長さ486m、幅305m。およそ1600年前に造られたと考えられています。エジプトのピラミッドと比べても、面積は大仙古墳のほうがはるかに大きいことがわかります。この巨大な大仙古墳、どのような造りになっているのでしょうか。

scene05 大きな権力を持つ者の墓

古墳の表面は石が敷き詰められていました。雨などで崩れないようにするためです。亡くなった人が葬られているのは古墳の「円」の部分です。古墳のふちには埴輪(はにわ)がぎっしり並べられています。大仙古墳では3万を超える埴輪が並んでいたと考えられています。土地の形を整え、石を敷き詰め、埴輪を焼いてかざる…。古墳造りにはたくさんの時間と人手がかかりました。一日1500人が働いたとして、15年以上。ここに葬られた人は、それだけ大きな権力を持っていたと考えられています。

scene06 ヤマト政権の形成

前方後円墳は、3世紀後半、奈良盆地を中心に造られました。その後、7世紀の終わりごろまでに各地で造られるようになりました。これは、各地で土地や人々を支配していた豪族たちが、ヤマトを中心とする政治連合を形作っていったことを表すものと考えられています。この政治連合を「ヤマト政権」といい、政権の中心となった王は、「大王(だいおう)」と呼ばれるようになりました。

scene07 仏教伝来が引き起こした争い

6世紀の半ば、中国、朝鮮半島を経て、仏教が伝えられました。この仏教をめぐって国内で大きな争いが起こりました。ヤマト政権で大きな勢力を持っていた蘇我(そが)氏と物部(もののべ)氏の対立です。仏教という新しい宗教を積極的に受け入れようという蘇我氏。それに対して、仏教を受け入れてはいけないと反対する物部氏。この対立は、やがてほかの豪族たちをも巻き込んだ武力衝突になりました。激しい戦いの末、蘇我氏が勝ち、このあと、仏教を信じることが国の方針となっていきます。

scene08 国のしくみ、「十七条の憲法」

この戦いには、まだ10代前半だった聖徳太子も蘇我氏の軍勢に加わっていたといわれています。6世紀の終わりごろ、天皇をたすけて政治を行うようになった聖徳太子は、新しい国のしくみを整えることに取り組みました。604年、役人の心構えを示すために聖徳太子が定めたといわれるのが、「十七条の憲法」です。「一に曰(いわ)く、和を以(もっ)て貴(とうと)しとなす」。聖徳太子がまず第一条で示したのは、人々の「和」でした。

scene09 仏教を敬い、天皇に従うように

第二条では、「仏法僧(ぶっぽうそう)を大事にしなさい」と定めました。仏は「ほとけ」、法は「仏教の教え」、僧は「僧侶(そうりょ)」を表します。仏教を敬うように定め、政治に仏教を役立てることを示しました。そして第三条、「詔(みことのり)は謹んで受けとめなさい」。詔とは天皇の言葉を表します。天皇に従うよう命じているのです。聖徳太子は十七か条にわたり、役人が天皇のもとにまとまり、国づくりに努力するよう定めたのです。

scene10 役人の位を定めた「冠位十二階」

603年、天皇のために働く役人の位を定めたのが、「冠位十二階(かんいじゅうにかい)」です。位(くらい)に応じて、冠の色や儀式用の服などが十二色に分けられ、一目で地位の高さがわかるようにしました。天皇のもとで役人の制度がきちんと整った国である、ということを示したのです。

scene11 隋に学んだ国づくり

そのころ中国を統一したのが、「隋(ずい)」です。隋は強い武力と高い文化を持っていました。そこで隋に使いを送り、交流を始めることにしました。「遣隋使(けんずいし)」です。遣隋使は皇帝に贈り物を持っていきました。それと同時に、多くの留学生や僧侶(そうりょ)も勉強のために隋に渡りました。こうして、隋から政治のしくみや技術、学問など、新しい知識がたくさんもたらされるようになったのです。それらの知識は、のちに、日本が新しい国づくりをする手本になりました。