あらすじ一覧

日清・日露戦争

オープニング

(オープニングテーマ)

scene 01日本が初めて体験した近代戦争

19世紀の終わりごろ、植民地を求める西洋の国々が東アジアに進出してきました。そうした国際情勢のなかで、日本は朝鮮半島に進出しようと、中国、続いてロシアと衝突し、戦争になります。今日は、日本が初めて体験した近代的な2つの戦争と、不平等条約の改正までの道のりを見ていきます。

scene 02日清戦争と下関条約

1880年代の東アジアでは、朝鮮半島の支配を巡って日本と清が対立を深めていきました。1894(明治27)年、日本と清のあいだで戦争が始まります。「日清戦争」です。日本は勝利を重ね、1895年、山口県の下関で講和会議が開かれました。ここで結ばれた「下関条約」で、清は、朝鮮の独立を認めること、日本に遼東(りょうとう)半島、台湾などを譲り、多額の賠償金を支払うことが決められました。しかしその後、ロシアがフランス、ドイツとともに、遼東半島を清に返すよう要求。日本はこれを受け入れざるを得ませんでした。

scene 03「君死にたまふことなかれ」

歌人の与謝野晶子は、日露戦争に行く弟を想い、「君死にたまふことなかれ」を発表しました。「あゝおとうとよ君を泣く 君死にたまふことなかれ 末に生まれし君なれば 親のなさけはまさりしも 親は刃(やいば)をにぎらせて 人を殺せとをしへしや 人を殺して死ねよとて 二十四までをそだてしや…」。晶子は、戦争に反対する気持ちを、この歌に込めたのです。

scene 04日露戦争

19世紀後半以降、欧米の国々が植民地や勢力範囲を拡大するなか、ロシアは中国東北部に進出、朝鮮半島にも勢力を広げようとしていました。一方、朝鮮半島に進出しようとする日本。1904(明治37)年、両国のあいだで戦争が始まりました。「日露戦争」です。戦争は1年半にわたって続きました。ロシアは遠くヨーロッパから、日本近海に軍艦を送ることにしました。世界最強といわれていた「バルチック艦隊」です。

scene 05日本海海戦とポーツマス条約

これに対し日本は、司令長官東郷平八郎率いる連合艦隊が迎え撃ちました。1905(明治38)年5月、対馬沖で、ロシアのバルチック艦隊と日本の連合艦隊が戦います。この海戦は日本側の一方的な勝利に終わります。日露戦争では、多くの犠牲を出しながらも日本は大国ロシアを破りました。これによって日本は国際的に認められるようになります。1905年9月、アメリカのポーツマスで講和会議が開かれました。ここで、朝鮮半島における日本の優越権などを決めた「ポーツマス条約」が結ばれました。

scene 06韓国併合

日露戦争後、日本は韓国の外交権を奪い、「統監府(とうかんふ)」を設置しました。初代統監となったのは伊藤博文です。日本政府は韓国を保護国とし、さらに中国東北部(満州)の権益を守ろうとしたのです。その後、日本政府は、韓国と不平等な条約を次々と結びました。そして1910(明治43)年、「韓国併合」が行われたのです。日本による韓国の支配は、太平洋戦争が終わる1945(昭和20)年まで続きました。

scene 07不平等条約の改正

江戸幕府が西洋の国々と結んだ条約は、治外法権を認める、関税自主権がない、という不平等条約でした。この条約を改正することは明治政府にとって大きな課題でした。1871(明治4)年、岩倉使節団はアメリカと条約改正の交渉を行おうとします。しかし日本の法律が未整備であることなどを理由に、交渉は行われませんでした。1883年、条約改正の責任者井上馨は東京に「鹿鳴館(ろくめいかん)」を建て、外国人を招いて毎晩のように豪華な舞踏会を開きました。日本が文明国になったことを示し、条約改正をスムーズに進めようと考えたのです。

scene 08ノルマントン号事件

そんなさなか、事件が起きます。1886(明治19)年10月、横浜から神戸に向かっていたイギリスの貨物船ノルマントン号が、和歌山県の潮岬沖合で沈没したのです。乗っていたのはイギリス人やドイツ人などの乗組員と、日本人の乗客。しかし救助されたのはイギリス人とドイツ人だけでした。裁判は日本にあるイギリスの領事館でイギリスの法律に基づいて行われ、船長以外は無罪となりました。船長も軽い刑罰でした。この「ノルマントン号事件」をきっかけに、条約を一刻も早く改正することが望まれるようになりました。

scene 09治外法権の撤廃

1892(明治25)年、外務大臣になった陸奥宗光は、条約改正の交渉に乗り出しました。交渉相手に選んだのは、イギリスでした。当時のイギリスは、日本と同様に、東アジアへの進出を強めているロシアを警戒していたため、利害が一致していたのです。イギリスとの交渉の末、1894年、日清戦争の直前に、陸奥は遂に治外法権の廃止に成功します。しかし、関税自主権の回復がまだ残っていました。

scene 10関税自主権の回復

1904(明治37)年に始まった日露戦争で大国ロシアを破ったことから、日本の地位は上がり、条約改正を有利に進めることができるようになりました。そのときの外務大臣小村寿太郎は、1911年、関税自主権を回復することに成功しました。不平等条約を締結してから50年余りが経っていました。こうしてアジアの中に、欧米に肩を並べるまでになった国、日本が誕生したのです。