あらすじ一覧

第一次世界大戦と国内外の関係

オープニング

(オープニングテーマ)

scene 01大正時代の内外の動き

1912年、明治天皇が亡くなり、元号が「大正」に変わりました。このころ、日本は中国などに勢力範囲を広げていきます。しかしそれは、欧米の警戒心を招くようになっていきました。一方、国内ではデモクラシーの風潮が高まり、民衆がさまざまな運動を起こします。「大正デモクラシー」です。今日は、大正時代の国内外の動きを見ていきます。

scene 02第一次世界大戦

19世紀後半から20世紀、アメリカやヨーロッパの国々は、世界各地で植民地を広げる機会をねらっていました。1914(大正3)年、ヨーロッパで第一次世界大戦が起こります。ドイツ、オーストリア、トルコなどからなる「同盟国」側と、ロシア、フランス、イギリスなどからなる「連合国」側とに分かれて戦った、史上初の世界大戦です。日本は連合国の一員としてこの戦いに加わりました。1902年にイギリスとのあいだに結ばれた「日英同盟」があったからです。

scene 03大戦景気と日本の工業発展

その後、連合国側にアメリカも加わり、世界中を巻き込んで4年余りも続く戦争になったのです。この戦争では、科学の発達に伴い、飛行機や戦車、毒ガスなど新しい兵器が使われました。一方、日本はこの戦争で好景気に沸きました。戦争で輸出ができなくなっていたヨーロッパの国に代わって、日本の輸出が飛躍的に伸びたのです。また、機械や造船などの重工業や、化学・薬品工業が発達し、工業国としての基礎が築かれました。

scene 04パリ講和会議

1918(大正7)年、ドイツが降伏し、同盟国側の敗北で戦争が終ります。翌1919年、フランスのパリで講和会議が開かれ、日本も参加しました。ベルサイユ宮殿の鏡の間。ここで結ばれたのが「ベルサイユ条約」です。この中でドイツは、すべての植民地と領土の一部を失い、多額の賠償金を支払うことになりました。講和会議では、アメリカが提案した「国際連盟」についても話し合われました。その結果、1920年、世界の平和を維持するための機関として、「国際連盟」が発足しました。

scene 05「二十一か条の要求」

1914(大正3)年、日本は第一次世界大戦でドイツに宣戦を布告しました。ドイツが中国に持っていた鉄道や鉱山の採掘などの権益を手に入れようとしたのです。日本はドイツのアジアの拠点、山東省の青島に軍を進め、占領します。さらに翌1915年には、中国に「二十一か条の要求」を認めさせました。その内容は、ドイツが山東省に持っていた権益を日本が受け継ぐこと、旅順や大連の租借(そしゃく)期間を99年延長することなどです。租借とは、その土地を借りて統治することです。

scene 06アジアの民族運動の高まり

ベルサイユ条約で、ドイツの権益を日本が引き継ぐことが認められると、中国国内で反日感情が高まりました。1919年5月4日、北京の学生デモをきっかけに抗議運動が起こります。「五・四運動」です。日本の支配下にあった朝鮮では、1919年3月1日、知識人や学生が日本からの独立を宣言する文章を発表し、「独立万歳」を叫んでデモ行進しました。「三・一独立運動」です。イギリス領となっていたインドでも、独立運動の指導者ガンジーが「非暴力・不服従」を唱えて独立を要求しました。民族運動は各地で高まっていったのです。

scene 07全国に広がった米騒動

第一次世界大戦で、日本の景気はよくなりました。しかし一方で、物価の上昇をもたらし、生活に苦しむ労働者や農民が増えました。特に米の値段は、1918年には、戦争が始まった年の2倍以上にはね上がりました。富山の漁村の主婦たちが集団で米屋に押しかけ、安売りを求める騒動が起こりました。騒動はたちまち全国に広がりました。「米騒動」です。京都、名古屋、大阪、神戸、東京など全国の主要都市で次々に起こる騒動を、政府は軍隊で鎮圧。騒動の責任をとって、寺内正毅(てらうち・まさたけ)内閣は総辞職します。

scene 08大正デモクラシー

その後に成立した原敬(はら・たかし)内閣は、本格的な政党内閣でした。首相をはじめ、閣僚の大部分が政党の党員から選ばれたのです。こうした民衆の力は次第に大きくなり、「大正デモクラシー」と呼ばれる時代になります。吉野作造(よしの・さくぞう)は、民衆を第一にした政治を行う「民本(みんぽん)主義」、尾崎行雄は、民意を政治に反映させる「普通選挙」を主張しました。こうして、身分や財産によって制限されない普通選挙を求める運動が高まっていきました。

scene 09労働者・女性の地位向上をめざして

また、労働者が地位向上をめざす労働運動も活発になりました。1920(大正9)年、労働者が結集して最初のメーデーが行われ、政府に賃金や労働時間などの改善を要求しました。女性たちの運動も盛んになりました。平塚雷鳥(ひらつか・らいてう)は、「青鞜社(せいとうしゃ)」を結成し、雑誌を発行して、女性差別をなくすよう訴えました。さらに1920年、日本初の女性団体「新婦人協会」を結成。女性が政治に参加する権利、婦人参政権を要求して運動を繰り広げました。

scene 10新しい生活文化の誕生

人々が意見をたたかわせる場として、新しい雑誌が次々と創刊されました。そこから、志賀直哉(しが・なおや)や芥川龍之介といった新しい作風の作家も育っていったのです。1925(大正14)年にはラジオ放送が始まり、国内外の出来事をすぐに全国に伝えられるようになりました。また、都市を中心に、映画などの娯楽やデパートの出現、女性の洋服の流行など、現在に続く都市生活の原型がこの時代に生まれたのです。