あらすじ一覧

scene 01学びて時にこれを習ふ…

「学びて時にこれを習ふ、また説(よろこ)ばしからずや。朋(とも)、遠方より来(きた)る有り、また楽しからずや。人知らずしてうらみず、また君子(くんし)ならずや」。これは、『論語(ろんご)』という本の最初(さいしょ)に書かれている、孔子(こうし)の言葉です。『論語』には、孔子とその弟子たちが交わした言葉などがおよそ500章にわたって記されています。

scene 02教養のある人とは

では、今の言葉で聞いてみましょう。「さまざまなことを勉強して、つねに復習(ふくしゅう)すること。これほどうれしいことはないよ。友だちが遠くから来てくれた。これほど楽しいことはないよ。人がわたしの才能(さいのう)を知らないとしても、不満(ふまん)をいだいたりしない。これが、教養(きょうよう)のある人というものなのだよ」。

scene 03過ぎたるはなほ…

孔子は今からおよそ2500年前の中国の魯(ろ)という国で、政治家(せいじか)として、学者として活躍(かつやく)しました。また孔子は、自分の塾(じゅく)で弟子たちに教えを説(と)く先生でもありました。ある時、弟子の子貢(しこう)が、師(し)と商という二人の弟子のうちどちらがすぐれているのか、孔子にたずねます。「師と商とはいづれかまされる」。孔子は「師や過(す)ぎたり。商やおよばず」と答えます。「然(しか)らば則(すなは)ち師はまされるか」と子貢が重ねて問うと、「過ぎたるはなほおよばざるがごとし」と教えました。

scene 04ちょうどよいことが大切

「弟子の師(し)と商は、どちらがすぐれていますか?」。「師は度がすぎているし、商のほうはまだ足りないね」。「ならば、師のほうがすぐれているということですか?」。「度がすぎているというのは、足りないのと結局(けっきょく)同じなのだ。“やりすぎはよくない”ということではなくて、何事もちょうどよいバランスのとれているのが大切なのだよ」。

scene 05今も生きている『論語』の言葉

『論語』は、2500年たった今でも多くの人に読まれつづけています。そして、『論語』に登場する孔子の言葉は、「格言(かくげん)」として今でも生きています。たとえば、「故(ふる)きを温めて新しきを知る(温故知新:おんこちしん)」――過去(かこ)のものをよく勉強して、そこから新しい発見をする。「一を聞きて以(も)つて十を知る」――一つのことを聞いただけで、十のアイデアを思いつくことができる。「義(ぎ)を見てなさざるは、勇(ゆう)無(な)きなり」――やらなければならないことを目の前にしながら何もしないのは、勇気がないことだ。

scene 06「人はどう生きていくべきか」

またある時、子貢(しこう)が「人はどう生きていくべきか」を孔子にたずねました。「一言(いちげん)にして以(も)つて終身これを行ふ可(べ)き者有りや。すると孔子は、「それ恕(じょ)か。己(おのれ)の欲(ほっ)せざる所は、人にほどこすことなかれ」と言いました。――「ひとことで言うと、一生やるべきこととは何でしょうか」。「それは恕(じょ)、つまり、思いやりじゃないかな。自分がしてほしくないことは、人にしてはいけないよ」。

scene 07一生つづけたひたむきな努力

数多くの格言(かくげん)や名言を世にのこし、孔子は聖人(せいじん)として尊敬(そんけい)され、今も多くの人の手本とされています。孔子は生まれつきの聖人ではなくて、一生ひたむきな努力(どりょく)をしつづけた人でした。そんな孔子の人生を表したのがこの言葉です。「われ十有五(じふいうご)にして学に志(こころざ)す。三十にして立つ。四十にして惑(まど)はず。五十にして天命(てんめい)を知る。六十にして耳順(したが)ふ。七十にして心の欲(ほっ)する所に従(したが)へども、矩(のり)をこえず」。

scene 08十五歳で学問をこころざし…

「わたしは十五歳(さい)で学問をこころざし、三十歳で自立した。四十歳であれこれとまようことがなくなり、五十歳で自分の運命を理解(りかい)した。六十歳でどんな意見にも耳をかたむけることができるようになり、七十歳で心のおもむくままに行動しても、道をふみはずすことはなくなった」。