あらすじ一覧

東日本大震災 被災者に学ぶ 商業施設運営

scene 01避難者を受け入れたショッピングセンター

濱田龍臣(はまだ・たつおみ)さんが、宮城県石巻(いしのまき)市にやってきました。今回たずねるのは大型ショッピングセンター。休日などにみなさんも行くことがあると思います。東日本大震災が起こったあと、ショッピングセンターの建物に多くの人がにげこみ、避難(ひなん)生活を送りました。店のマニュアルにない想定外の事態に、この施設(しせつ)の責任者は重大な判断をせまられました。『学ぼうBOSAI 被災者(ひさいしゃ)に学ぶ』。今回は、東日本大震災のときに2300人もの人の避難生活を受け入れた大型ショッピングセンターの責任者の方にお話をうかがいます。

scene 02停電で店内の様子がわからない

震災当時、この大型ショッピングセンターのマネージャーを務めていた秀方純(ひでかた・じゅん)さん。ここには飲食店やスーパー、くつ屋、おもちゃ屋など113もの店があり、500人ほどの人が働いています。マネージャーはその全体の運営や安全管理の面で指示を出す最高責任者です。2011年3月11日。秀方さんは地震がおさまると1階の防災センターにかけこみました。しかし、店内の様子をすみずみまでうつすはずの防犯カメラの映像(えいぞう)は、停電で見ることができなくなっていました。秀方さんは、店内のお客さんや従業員(じゅうぎょういん)が無事かどうか、とても心配でした。

scene 031000人を誘導して避難させた

停電で真っ暗な店内。たおれた商品棚(だな)のあいだにはさまれた人はいないか、すみずみまで見回って目で見て確認(かくにん)するよう、秀方さんは指示を出しました。幸い、店内にケガ人やにげおくれた人はいませんでした。秀方さんは、客と従業員(じゅうぎょういん)合わせて1000人ほどを、外の安全な駐車場(ちゅうしゃじょう)に避難(ひなん)させます。しかしその直後、10mの大津波がせまっているという情報が入ったため、すぐに屋上へ移動し直しました。一刻(いっこく)を争う緊急(きんきゅう)事態。従業員が1000人を誘導(ゆうどう)し、屋上まで最短ルートで避難させました。

scene 04自らの責任で受け入れを決断

結局、津波はこのショッピングセンターまで来ませんでした。しかし、ここで想定外の事態がおこります。津波からのがれてきた人々が、「店の中に避難(ひなん)させてほしい」と続々とおしよせてきたのです。ショッピングセンターは石巻市の指定避難所ではありません。しかも店内のあらゆるものがこわれ、危険(きけん)な状態でした。このとき秀方さんはどう判断したのでしょうか。「受け入れてしまえば、あとはわたしたちの責任になる。どうしようかと…。でも、やはり人命第一なので、自己判断で中へ入れることにしました」。連絡(れんらく)が取れない本社の指示を待たずに、自らの責任で全員の受け入れを決断したのです。

scene 052000人をこえる人たちの避難生活

このときから、2000人をこえる人たちの避難(ひなん)生活が始まりました。行政からの支援(しえん)がないなか、従業員(じゅうぎょういん)たちはどうやって対応したのでしょうか。食事は一日3回、停電で調理ができなかったため、店の商品棚(だな)から腹(はら)持ちのよいせんべいなどを選んで人々に配りました。さらに、寒さをしのいでもらうため、一人ひとりに毛布と段(だん)ボールを配り、寝床(ねどこ)として使ってもらいました。最も苦労したのはトイレです。水道が止まり、水洗トイレの水が流れなかったため、従業員がヒシャクとバケツを使って排泄物(はいせつぶつ)をくみ取りました。

scene 06従業員もまた被災者

被災者(ひさいしゃ)たちの生活を支えた従業員(じゅうぎょういん)たちもまた、被災者でした。秀方さんは職場の仲間たちをどのようにはげましていたのでしょうか。「明るさを失わないこと。これがいちばん大切なことだと思います。『どんなに大変な状況(じょうきょう)でも必ず解決策(さく)はある。全員ではげましあいながらここを乗り切ろう』という話をしました」。

scene 07食料や飲料水の無料配布を決断

翌日(よくじつ)から、食料や生活物資を求めて多くの人々がショッピングセンターにおしよせました。当時、倉庫にはおよそ7000万円分の在庫がありましたが、これを無料で提供(ていきょう)すれば会社に損失をあたえてしまいます。なやんだ末に秀方さんは決断しました。「着の身着のままで避難(ひなん)してお金を持っていない方も来るかもしれない。売るのではなく、無料でおわたししよう。もしそれで会社にしかられたら、クビになればいい」。秀方さんは食料や飲料水などの無料配布を、市内の指定避難所に支援(しえん)物資が行きとどくまで、2日間続けました。そして地震から半月後、店内に避難していた人たちは地域(ちいき)の避難所に移っていきました。

scene 08「感謝しかありません」

当時このショッピングセンターで、家族5人、16日間の避難(ひなん)生活を送った佐藤隆宏(さとう・たかひろ)さんにお話をうがいました。「長女が産まれる直前だったので、もうどうしようかと。住むところもないし、食べるものもないし、どこに行こうかなと。たまたま入れてもらって、もう感謝しかありません。このショッピングセンターは避難所ではなかったとあとで聞いた。それなのにあの大人数を受け入れてくれた、その気持ちがすごくありがたい。あとからヒシヒシと、ありがたかったなと思いました」(佐藤さん)。

scene 09つねに災害に備える

震災後、秀方さんたちが働くショッピングセンターの運営会社は、全国の店舗(てんぽ)が使うマニュアルの一部を見直しました。災害のとき、家に帰れない人がやってきた場合、マネージャーの判断で受け入れてもよいことになったのです。次の震災に備え、秀方さんはあらためて気をひきしめています。「災害発生時にお客さまの命を守るため、つねに防災訓練を行っております。それと、生活のライフラインとして、さらに地域(ちいき)のコミュニティーの場としてお役に立てればと思います」。

scene 10災害におそわれたとき自分なら…

…「今回の舞台(ぶたい)となった大型ショッピングセンターには、みなさんも家族や友人などといっしょに行くことが多いかもしれません。もしそのときに災害におそわれたら、という不安がありましたが、秀方さんたちのような方がいることを知り、とてもたのもしく思いました」(濱田さん)。